もちろん偶然です!
突然自分のオフィスに引き込んだデニス=ベイカーに、
「ここに……来たのは偶然か?……ウェンディ」
と言われたウェンディ=オウル。
互いに無関係を装っていくのかと思いきや、デニスの不可解な言動にウェンディは眉根を寄せて彼に言う。
「これは一体何の真似ですか?ベイカー卿」
「質問に答えて欲しい、ここで勤め出したのは偶然なのか?」
ーーこの人は私が未練がましく近付いて来て、今の生活を脅かされるのを恐れているのだろうか……?
そんな事する訳がないのに。
別れた男の家庭を潰したって、なんの得にもならない。
つきん、と痛む心を隠してウェンディは呟くように言った。
「……痛いです」
「あ、ごめん」
デニスは掴んでいたウェンディの手首を慌てて離した。
ホントに痛いのは心だけど。
今後一切この件について遺恨を残したくないウェンディは敢えてキッパリばっさり切り捨てるように告げた。
「もちろん偶然です。もう二度と会いたくもないと思っていたのに。そんな風に思われるのは心外です」
「偶然……もう二度と……心外……そうか……」
心なしか力なく感じるデニスの声を無視してウェンディは更に言葉を重ねる。
「安心してください、あなたとの事はもう既に過去です。あなたと同じように、私には私の大切な生活があります。その為にお給金の良いこちらで働く事になっただけですから」
「大切な生活……」
「ご理解頂けましたか?ではもう退いてください。こんな姿を誰かに見られたら、困るのは貴方の方ですよ」
「いや、俺は……」
何かを言い淀むデニスの一瞬の隙をついてウェンディは拘束を逃れて部屋のドアに手を掛けた。
そして振り向きざまにこう告げる。
「それでは急ぎますのでこれで失礼します。今後もうこんな不適切な距離を取るのはやめてくださいね」
「………」
何も言わないデニスを残し、ウェンディは彼のオフィスを出た。
拘束からすんなりと逃れられて良かった。
彼が何を考えているのかはわからないが、もしまだ逃す気がなかったのならデニスには勝てない。
デニスは文官にしておくのは惜しいほどの身体能力の持ち主なのだ。
昔はわんぱくなデニスだったとよく話してくれた。
部屋に引き込まれた時からなかなか鎮まらない早い鼓動を無視して、ウェンディは早足で王宮を辞した。
娘のシュシュを預けている託児所は王宮からほど近い距離にある。
王宮に勤める平民文官の為に国が買い上げて運営しているらしい。
アパートと市場と託児所と王宮。
この一直線に並ぶルートがシングルマザーのウェンディには有り難いのだ。
帰りは王宮から直でシュシュを迎えに行き、市場に寄ってから帰る事が出来るから。
託児所の玄関ドアを開け、近くにいた他のお母さん方に挨拶をして娘の名を呼ぶ。
「シュシュ!」
するとお友達とぬいぐるみで遊んでいた娘のシュシュが母親の顔を見てパッと笑顔になった。
「まま!」
そして一目散にこちらへ駆け寄って来る。
今日はウサギさんのお耳にすると言ってツインテールをご所望だった。
走る度に細く柔らかな髪がぴょんぴょん跳ねている。
要するに可愛い。
「おちゃえりっ」
二歳二ヶ月。
他の子に比べるとお喋りの上手な娘が舌足らずのお口でそう言ってくれる。
「ただいまシュシュ。いい子にしてた?」
「うん!」
「ふふ」
託児所の先生に礼を言い、託児所を後にした。
仕事に行く時もグズらず我儘を言わない子だが、その反動か帰りは絶対に抱っこである。
市場で買い物もしたいので本当はベビーカーがあれば助かるのだが、ベビーカーを買えるゆとりがオウル家にはなかった。
まぁどうせ食費も節約しているので大した買い物量ではないから、娘を抱いて買い物袋をぶら下げるくらいなんて事はない。
全ては気合い、根性だ。
「♪根性~根性、ド根性ぉぉ~♪」
昔バレスデンの大聖堂へ見学に行った時、誰かがこの歌を歌っていたのを聞いて以来、何故か覚えてしまった歌を口遊む。
「こ、じょー♪」
母がよく歌うのを覚えたシュシュも一緒に歌ってくれた。
「ふふ。上手ねシュシュ」
「まま、じょーずっ」
「ありがとう」
ウェンディは娘の柔らかいほっぺにキスをする。
とある事が原因で金銭的に苦しいが、
娘との穏やかな暮らしがウェンディにとって何よりも大切なものなのだ。
その為ならなんだってする。
ウェンディはそう思いながら帰り道を歩いて行った。
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ここでのお知らせで恐縮ですが、
明日の「さよならをあなたに」はお休みします。
ごめんなさい(´;ω;`)