佐田山優香里【20歳・女性・大学生】の場合
とある大学の食堂の片隅に怨霊と呼ばれる女子学生がいた。彼女の名前は佐田山優香里と言い、整った顔立ちで腰よりも長めに伸ばしたストレートの黒髪が特徴的な女学生だが、暗い色の服装ばかりで化粧もしない、地味な女子学生である。
「空いてるけど、行こ」
「なんか呪われそう」
食堂は混んではいるが優香里の周りは空席だらけである。
優香里自身が社交的ではない性格であることも理由の一つだが、大きな要因は苗字と容姿である。佐田山の『さだ』と長い黒髪は有名なホラー映画に登場する怨霊を連想させ、その怨霊の名前が渾名になったのは小学生の頃からである。優香里も最初はそんなからかいに泣いていたが学年が上がるにつれて悲しいから煩わしいに慣れてしまい、他人との間に壁を作るようになってしまっていた。
「佐田山さん。向かい良い?」
だが大学生になるとそんな子供っぽいことをする人ばかりでなく、話し掛ける人も出来る。とは言っても今話しかけてる女学生も優香里にとっては特別親しい友人という訳でもなく、同じゼミに参加しているから面識がある、というだけだ。
「そう言えばゼミはしばらく中止だってね」
「そうだっけ?」
「最近ニュースでやってるでしょ?髪狩り殺人鬼事件。それで安全のために日没に時間が被るゼミをしばらく止めるみたいだよ」
優香里が住む町を含む市内ではここ最近、そんな物騒な名前の通り魔事件が発生している。ここ1ヶ月半の間に男性3名と女性4名が既に犠牲になっており、被害者は小学生女児や女子高生、サラリーマン、タクシーの運転手など年齢も性別も職業もバラバラで、共通点は男女とも髪を切られたり剃られたりした痕跡があることからメディアはそんな肩書きを付けて囃し立てていた。警察も躍起になって捜査中だが未だに犯人に繋がる証拠は発見されていないという。
しかし優香里はそんなのは対岸の火事、自分にそんな事件が降りかかる訳はないと恐怖していなかった。
それから大学が終わった優香里はバイトなどの用事もなく直行で家に帰って来て夕飯の支度をする。
「悠斗くん、早く帰って来ないかな…」
大学では冷淡な印象の優香里は頬を赤くしながら煮込んだシチューの味を見る。優香里には同棲中の浜中悠斗という男性がいる。教師を目指す真面目でなおかつアイドルのような端整な顔立ちの好青年といった大学生で、優香里とは違う大学に在籍しているが優香里と同じバイト先に務めている。悠斗とは同じシフトの時に先輩として出会った。優香里の黒髪が綺麗と褒めた事から悠斗との距離が近づき、親交を深める内に同棲する関係にまで至った。今まで容姿で忌み嫌われていた優香里にとって悠斗は何者にも代えがたい特別な存在で、彼に全てを捧げても構わないと思うほどの気持ちを抱いていた。
そんな悠斗は今日バイトで、夜8時を過ぎてそろそろ帰ってくる筈だがなかなか帰ってこない。遅れることがあれば連絡を入れてくれる筈なのにと優香里は心配する中、優香里のスマートフォンが鳴る。
「あ、悠斗くん」
優香里は電話の相手が悠斗と知って喜んで電話に出る。
「もしもし。警察の者ですが」
しかし電話の声の主は優香里にとって聞き覚えがない中年男性であった。しかも警察という単語から優香里は訳の分からない悪寒が背筋に走った。
その悪寒の正体はすぐに明かされた。優香里は猛ダッシュで階段を駆け降りてタクシーに乗り、連絡をくれた警察署に着いた。
「あの…さっき電話を受けた者ですけど」
「ああ、君か…。どうぞこちらへ」
刑事らしき人は必死の形相の優香里を見てその人だと察し、とある場所に連れられた。そこは警察署でもずいぶん奥まった遺体安置室であった。
「そんな…悠斗…くん…!?」
整った顔立ちの悠斗は目を閉じて寝ているだけかのように静かに横たわっていた。
「浜中悠斗さんで…間違いありませんね?」
「はい…!どうして、彼が…!」
「発見した時、腹部に鋭利な刃物で刺された跡があったことから失血死かと思われます」
「最近ニュースになっている通り魔ですか…?」
「まだ関連は分かりませんが…それも視野に入れて捜査中です」
その後の刑事との話の内容は優香里自身あまり覚えていない。優香里は刑事の質問にええ、はい、と適当に答えた後に帰されたが家に帰らずに警察署近くの公園のベンチにドサッと座った。未だに悠斗が死んだという事実を受け入れられないせいか、それとも悲しいという感情を超越した何かの感情が働いているせいか、優香里は泣き喚くでもなくただ死んだ目で何もない闇の夜空を仰ぎ見ていた。
「悠斗…くん…」
優香里の心はまるで天に見放されたような絶望感に踏みにじられていた。何の理不尽で自分がこんな目に遭うのか、自分を愛してくれた悠斗がいない世界で生きて何の意味があるのか、そんな誰も答えようがない自問を優香里は茫然と心の内で繰り返した。
「ごきげんよう」
そんな無力な抜け殻になりかけた優香里はハッと目覚めたかのように声がした方向を向く。そこには漆黒のセーラー服と地面に着かんばかりの長いストレートの黒髪の寿命屋が立っていた。
「私は寿命屋でございます」
「寿命屋って…あの寿命屋さん…?」
優香里は怪談などのオカルト話が好きなため、『寿命屋さん』の都市伝説もよく知っていた。死んでいた目に光が戻る。
「もし本当に寿命屋さんなら悠斗くんを生き返らせられる!?」
「はい。ただし説明事項がございます」
「知ってるわ!私の寿命を悠斗くんに分け与えられるんでしょ!?早くやって!お願い!!」
「それは説明事項の1でございます。5までありますのでお聞き下さい」
寿命屋は無表情のまま淡々と説明事項を述べる。その間、優香里は寿命屋の説明が早く終わって悠斗を蘇らせてくれないかとソワソワと待っていた。
「…説明事項は以上ですが、質問はありませんか?」
「ないわ!だから60年!60年あげて!悠斗くんがいなくなってこんな気持ちになるくらいなら、彼より早くに死にたい!だからありったけの命を彼に!」
普段の暗い優香里からは想像できない激情が込められた語気を発するが寿命屋は何事もなく進める。
「承知しました。…それでは、貴方の命、切り取らせていただきます」
寿命屋は紫の鋏を構えると不思議な輝きを放ち、優香里の目の前は真っ白に眩んでいった。
優香里は目を閉じていると髪が誰かに弄られている気がして目を開けた。そこはリビングのソファーで、寝惚けてぼやけた視界がはっきりしてくる。
「あ。おはよう」
「悠斗くん…!」
そこには優香里の願いが届いた現実があった。
「悠斗くん!」
「どうしたの優香里?」
「なんだか怖い夢を見た気がして…」
優香里は悠斗に抱き着きながら、悪夢は終わりを告げたのだ、いや、虚構だったのだと安堵してそっと一筋涙を流した。
それから優香里と悠斗は朝食を済ませると、悠斗は大学に行く身支度をする。優香里の方は講義が午後からのため、のんびりと洗い物をしていた。
「優香里」
「また?もう…」
悠斗は後ろから優香里の垂れる黒髪をサラリと持ち上げて頬擦りする。優香里は口を尖らせるが内心はこのやり取りも取り戻せて嬉しさで爆発しそうだった。悠斗のこのスキンシップは付き合い始めた頃、優香里も正直気持ち悪いと思ったが痘痕も靨というべきか、段々と愛しいと思えて今では猫のじゃれつきのようなものと捉えている。
「ふぅ…。じゃあ行ってくるよ」
「うん。行ってらっしゃい」
優香里と悠斗のやり取りは端から見れば新婚のようであった。
悠斗が出ていき、洗い物を終えた優香里はソファーに座る。
(そう言えば、悠斗くんはどうして殺されたのだろう…)
有頂天の熱が冷めた優香里は我に返り、冷静に考えてみた。昨日悠斗が殺された事実がなくなったのならば、もしかしたらその通り魔にまた狙われるのではと不安に駆られた。優香里は昨日の出来事はどうなったのか気になってテレビのニュースを見てみた。
《それでは次のニュースです。再び犠牲者が出てしまいました。本日午前4時頃、井の花公園にて女性の遺体が発見されました。ジョギングしていた男性の通報で遺体が発見され、警察の調べによると死亡推定時刻は夜8時前後と見られ、現在身元の確認を…》
「ふぅ…」
優香里は不謹慎ながらも喜んでしまう。井の花公園とは優香里も悠斗も大学やバイト先への行き来でよく通る公園で、昨日そこで悠斗が通り魔に襲われて死んだ事実は別の人の殺害にすり替えられたのだと悟った。しかし、そうしたらすり替わった悠斗は昨日はどうしたんだろうと優香里は気になり、悠斗が帰って来てから尋ねてみた。
「昨日?あー、昔の友達に会ってさ。その時にスマホの充電も切れちゃったし、連絡できなくてごめんね」
悠斗の困った犬のような表情に優香里はそれ以上何も言えずに、それ以上深く突っ込むことは止めた。
悠斗が蘇ってから2ヶ月が経ち、季節は夏になった。髪狩りの殺人鬼の犠牲者はさらに増え、女子社員とホステス、それと男子高校生の3名が殺された。こんな惨事が起きたため夜間外出は控えるようにという注意が市から発表されたが法的な拘束力もない名ばかりのもののため、人々の意識や生活はそれほど変わらない。
優香里もそんな大多数の人々と同じで、通り魔なんかに会うわけがないと高を括ってバイト帰りの夜道を歩いていた。
「…」
優香里の進行方向の前方にある角から人が出てきた。その人は全身黒の服を着てマスクとサングラスで素顔が分からないが、背の高さや歩く所作から男性と見受けられた。優香里は典型的な不審者の格好だなと思ったが、それに対しては警戒というよりも滑稽だなと内心で笑っていた。
「おい。金を出せ」
しかしそんな気持ちはすぐに失せた。その黒ずくめの人が若い男性の声で包丁を突きつけたからである。身の危険をようやく感じた優香里は歩いていた道を逆走して逃げるが、元より運動が苦手なため数秒も経たない内に追いつかれてしまい、腕を掴まれて壁に叩きつけられる。
(悠斗くん…!)
恐怖で声も出せない優香里は寿命を悠斗に分け与えた自分の命がここで終わるのかと固唾を飲んだ時だった。
「こら!何をしている!?」
幸運にも、街中を巡回していた警察官が通りかかった。黒ずくめの人は警察官を見るや優香里を突き飛ばして一目散に逃げて行った。
「大丈夫ですか?」
「は、はい…」
警察官は優香里に駆け寄って心配した後、無線で応援を要請した。
その翌日の朝、新聞やテレビのニュースは髪狩りの殺人鬼かもしれない人物の逮捕に沸いていた。ニュースによると、強盗の現行犯で逮捕された人物は赤坂京介という22歳の大学生の男性だった。供述によると一連の殺人については否認しており、女性に強盗しようとした理由は金欲しさにやったという短絡的なものであるが、警察は髪狩りの殺人鬼の可能性を捨てきらずにさらに厳しく取り調べるという。
「ねぇ。この強盗された女性って優香里のこと?」
ソファーの上で悠斗は優香里の膝枕で寛ぎながら尋ねる。
「うん。でも怪我とかもなくて平気」
「そう。良かった」
優香里の答えに悠斗は微笑みながら優香里の黒髪の毛先で遊ぶ。
それから数日後、大学が夏期休暇に入って優香里も悠斗も家にいることが多くなってくると、優香里は不安に思うことが出てきた。
悠斗がバイトがない日にも出掛けて夜遅くに帰ってくることが多くなってきたからである。優香里も気になって悠斗に尋ねてみるが別に、の一点張りで特に答えらしい答えを聴けておらず、もしかして別に好きな人が出来たのではと疑うが、問い詰めると悠斗に嫌われて本当に破局するかもしれないという恐怖心から踏み込めないでいた。優香里にとって悠斗に嫌われる事は世界から拒絶されるに等しい苦痛なのだ。
優香里がそんな風にモヤモヤとした感情を抱きながら過ごす日々を送っていたある日、昼食を一緒に食べている時に悠斗から衝撃の一言が発せられた。
「あのさ。今月一杯でバイトを辞めようと思うんだ」
「えっ…」
悠斗の宣言に優香里は箸を置く。
「どう…したの?」
「ほら。最近、俺って帰り遅い時、多くなっただろ?」
「うん…」
「実は今やってるバイトとは別に家庭教師のバイトを始めてさ」
「家庭教師?」
「今のバイトよりも給料良いし、何より俺の将来に役立ちそうだしで…勝手に始めてごめん!」
「じゃあ辞めるって言うのは…」
「応募したら早速中学生の女の子を任されてさ。その教えた子の塾の小テストの成績が上がったからって、他の子も是非見て欲しいって頼まれちゃって…」
「そうなんだ…」
優香里は邪推した自分を恥じると共に自分の不安が払拭されたようで自然と笑みが溢れる。
「怒ってない?」
「うん。悠斗くんが将来のために頑張ってるなら応援するよ」
「そっか。ありがとう、優香里」
悠斗は立ち上がって優香里の後ろに回り、優香里の黒髪をさらりと撫でた。
バツン
「…えっ」
優香里は後頭部に異変を感じて振り返るとこの上ない愉悦といった表情の悠斗がいた。その左手には優香里の黒髪の束が握られ、右手には長い刃渡りの鋏が握られていた。
「悠斗くん…?」
突然の出来事に優香里は理解が追いつかず、髪を切られたことの怒りよりも、なんでどうしてと動揺するばかりであった。
「君の黒髪は本当に綺麗だ。色艶も手触りも香りも、大好きだよ」
恍惚としながら悠斗は優香里の黒髪を褒め称える。
「今は気になる髪がいるからそっちに行くけど、一生君の事を忘れないよ。ずっと黒髪を愛でてあげる」
ザシュッ
悠斗は鋏で優香里の首を狙って突くと血が飛ぶ。優香里は激痛で首を必死で抑えるが赤色の血がドクドクと流れ出ていく。出血量から恐らく1分もしない内に死ぬのは確実である。
ピンポーン
「はーい」
悠斗は人殺しをしたとは思えない程の自然体で返事をし、優香里の黒髪の束をテーブルに置いて玄関に向かった。
「…あっ…」
首を切られた優香里は声を出せず、助けを求められない。
「ごきげんよう」
陽光差すベランダから寿命屋が瀕死の優香里の元にそっと歩み寄る。
「私はいつも寿命を切り取った方に、死ぬ間際にお尋ねしていることがございます。貴方は最愛の人に寿命を分け与えて、幸せでしたか?」
寿命屋は目の前の凄惨な光景に気も留めず優香里に語りかける。優香里は朦朧とする意識の中で先程悠斗に言われた言葉を思い出して口にした。
「…は、い…」
悠斗から大好き、一生忘れないと言われた優香里は死ぬ恐怖が抜けて夢心地であった。それはまるでずっと真剣に信奉していた神に認められたような心地好いもので、悠斗の記憶の中で自分が生き続けると思えば、悪くない最期だと心穏やかになったからである。
「左様でございますか」
寿命屋は優香里の最期の言葉を聴き終えるとベランダへと帰っていく。
「…人の愛は様々ですね」
寿命屋の小さな呟きを消すように風がフーッと吹くと、いつの間にか寿命屋は消えていた。残された優香里の死に顔は殺された苦痛や憎悪で歪んだものではなく、愛してくれた嬉しさで満たされたように口角がつり上がった表情であった。
それからさらに数ヶ月経った。季節は秋の終わりに移り、悠斗は家庭教師のバイトを本格的にしていた。教えている生徒はそこそこ金持ちの中学生の女の子で、優香里に負けず劣らずの美しい艶の黒髪をツインテールに結っていた。
「先生、これでどうですか?」
「うん。良く出来てる」
悠斗は女子生徒の頭を撫でてあげる。
「…そう言えば今日は御両親は帰りが遅いと聴いてたけど…」
「うん。パパもママも仕事が忙しいみたいだから。先生、良かったら泊まってく?」
女子生徒は密かに悠斗に恋心を寄せていた。顔が良くて頭が良くて、彼女にとっては理想的な男性であったからだ。
「ははっ。それをやっちゃうと家庭教師を解雇にされちゃうからね。ちゃんと戸締まりはしっかりするんだよ」
「はーい」
「じゃあ次はこっちのテキストを解こうか」
悠斗は女子生徒がテキストを解いている隙に、鞄から鋏を取り出した。
優香里本人にとっては最善でも、世間にとっては最悪。