花咲美鈴【27歳・女性・シングルマザー】の場合
書く気持ちはあるんだぞという意思表明でもう1話。
何か辛いことや忌々しいことが起きたら、時を戻したいと誰もが願うだろう。燃えるアパートの前に立つ花咲美鈴も時を戻せるなら戻したいと絶望に打ちのめされていた。
美鈴は4歳の娘・陽菜子を育てるシングルマザーで、夫は建設会社の現場監督として働いていたが3年前に作業中の事故で他界しており、それからはやや古いアパートで夫の保険金とスーパーのパートの収入を頼りに陽菜子と細々と暮らしていた。
そして運命の日が来た。その日、陽菜子が風邪を引いてしまい、美鈴は付きっきりで看病をしたかったが仕事の都合でそういう訳にもいかず、昼食にお粥を食べさせてから仕事に向かった。パートリーダーに事情を話して早めに仕事を切り上げられた美鈴は夕飯の食材を買って家路に着いたが、アパートは信じられない姿になっていた。
「陽菜子…陽菜子ぉぉ!!」
美鈴と陽菜子が住んでいたアパートは赤々と燃え盛る炎に包まれていた。その前では消防士が放水を続け、その様子を野次馬がざわざわと眺めていた。美鈴は買い物袋を投げ捨てて野次馬の海を掻き分けてアパートに向かう。
「危険です!下がってください!!」
「娘が!娘が中にいるんです!!」
炎の中に飛び込もうとする美鈴を消防士が必死に抑える。
「陽菜子!陽菜子!!」
美鈴は炎が消えるまで声が枯れても叫び続けたが、陽菜子が戻ることはなかった。
後日、美鈴は警察署に赴いて陽菜子の遺体と対面した。
「陽菜子…」
陽菜子の遺体は真っ黒に焼け焦げ、髪型も顔も分からず、その遺体の小ささだけがそれが陽菜子だと分からせる。
熱い炎の中でどれだけ苦しかっただろう、怖かっただろう。それに学校の青春時代や愛した人との結婚生活などたくさんの喜びに満ちた煌めく未来が待っていただろうに。そんな事を思うと美鈴の心は悲嘆と後悔という絶望に支配されて泣き崩れる。夫を亡くし、その夫との間に産まれた愛しい娘まで亡くし、生きる意味を見出だせなくなった美鈴は私も死のうかと立ち上がった時だった。
「ごきげんよう」
そこには古めかしい漆黒のセーラー服と床に着かんばかりの長さの髪が特徴的な美少女、寿命屋が立っていた。
「誰…?」
「寿命屋でございます。その子どもを蘇らせますか?」
寿命屋の夢想とも言える甘言。正常な判断を下せる者ならば戯れ言と一笑に付すだろうが、美鈴は神仏にすがるように寿命屋に詰め寄る。
「陽菜子が…生き返るの!?」
「はい。ですが、蘇らせるにあたって説明事項がございます」
「説明事項…?」
「1つ。この子を蘇らせるには貴方の寿命が必要です。貴方が指定した寿命の分だけ私が貴方の寿命を切り取り、その子に分け与えます。2つ。分け与えた後の貴方の寿命は貴方自身はもちろん、私にも分かりかねます。3つ。寿命を分け与えられるのは一度きりです。分け与えた寿命を取り返したり、継ぎ足しで更に分け与えることは出来ません。4つ。蘇った方は貴方が分け与えた分の寿命をどういう形であれ必ず全うします。途中で死ぬことはないので御安心下さい。そして5つ。蘇った方に寿命を分け与えた事実を決して教えてはいけません。教えた場合、約束を違えたとして貴方はすぐに地獄に送られます。…以上の5つとなりますが質問はありませんか?」
感情のない機械か人形のように淡々と説明する寿命屋の不気味さと神秘さが合わさった雰囲気に美鈴はたじろぐが陽菜子のために一歩踏み出す。
「…要するに私の寿命を削った分だけ陽菜子は生きられるのね…?」
「左様でございます」
「ちょっと待ってて…」
美鈴は当然陽菜子を蘇らせたいが悩む。一度は死のうと思った身、娘のために命を惜しむ気はないが、美鈴が気になったのは寿命屋が言った4つ目の事項である。
(どういう形であれ寿命を全うするって…もしかして蘇っても不幸な人生にもなる可能性があるってこと…?それじゃ生き返らせたとしても意味はないじゃない…)
どんな人生をどのくらい生きれば幸せと呼べるのか、少なくとも陽菜子が自力で生きられる歳まではなんとか生きて育てなければ、そんな風に美鈴は自身の人生設計以上に陽菜子の第二の生涯に思考を巡らせる。
「決まりましたか?」
「50年…50年お願いします」
美鈴は蘇った陽菜子を16年育てて大人になる時、つまり自身が43歳になった時に寿命が尽きると考えてそこから計算し、陽菜子の人生が54歳までと人としては短いと思いつつも渡せそうなギリギリの量の寿命を宣言した。
「承知しました。…それでは、貴方の命、切り取らせていただきます」
寿命屋は紫の鋏を抜き放つと、その刃の照り返しに美鈴の目は一瞬眩んだ。
「ママ~おきて」
美鈴が体にのし掛かる重みと聞き馴染みのある幼い声で目が覚めると涙が溢れてきた。
「陽菜子…?陽菜子なの?陽菜子ぉお!!」
それは戻ってくるとは思わなかった最愛の娘だった。夫に似たクリっとしたつぶらな瞳、美鈴に似て少し茶色を帯びた髪、紛れもなく陽菜子であった。天使のような笑顔を取り戻せたと美鈴は歓喜のあまり陽菜子を抱き締める。
「ママ~くるしい~」
「あ、ごめんね。それで…ここは?」
「え?おうちもえちゃったからホテルにとまろうねっていったのママだよ?」
「えっ…。あ、そう…だったね…」
「はやくあさごはんいこ!」
美鈴は無邪気に急かす陽菜子に微笑んで応えながらも、釈然としない、実は陽菜子が蘇ったことも寿命屋のことも夢なのではないかという違和感を覚えた。
それから美鈴はアパートの管理会社に連絡を取ったり新聞やニュースを見て陽菜子が死んだ事実がどうして消えたのかを調べた。
美鈴はまず管理会社に確認したところ、アパートは3日前に燃えて倒壊したため、ホテル代1ヶ月分を管理会社が負担する代わりに新居探しはアパートの住民各自で行うように通達されていたらしい。
また、新聞やニュースでは見事に焼け落ちたアパートが映され、原因は住民の一人の寝タバコとされたが幸運にも死者はゼロと報道されていた。
(かなり変だけど…陽菜子が生き返ったのなら寿命屋でも何でも良いか)
まるで陽菜子の死そのものが無かったような現実の変わりように美鈴は狐に摘ままれた気持ちになるが、それよりも陽菜子が戻ってきた喜びが勝り、些細な事と疑問をすぐに蹴った。
それから美鈴は新しいアパートを借り、陽菜子と共に歩む第二の生涯の為に動き始めた。陽菜子の将来の為にパートではない高い収入の仕事に就くために通信教育で資格の勉強をしたり、生命保険を見直して自分がいつ死んでも陽菜子が困らないようにしたり、美鈴もまだ若いながらも出来る限りの事をした。当然、陽菜子との時間も大切にし、ただの公園遊びや買い物のような何気ない日常から幼稚園のお遊戯会や親子遠足などの特別なイベントも一緒に過ごした。
陽菜子が蘇ってから時は流れて15年。42歳になった美鈴は大手企業の経理部で働き、女手一つで陽菜子を育て上げた。19歳になった陽菜子の夢は自分の店を持つシェフということで高校を卒業してからは調理師の専門学校に通っている。
美鈴は仕事を終えて電車に乗って帰る途中、通り過ぎるビルに掲げられた生命保険会社の看板が目に入ると自分の死期を考えていた。
(もう42か…)
美鈴の計算では43歳で寿命を迎えるのだが、死ぬのが嫌になってきていた。陽菜子を蘇らせた当初は、陽菜子が順風満帆な人生を楽しんでくれればいい、自分の命なんか陽菜子の命の予備バッテリーみたいなものだと軽んじていたが、陽菜子の人生を見届けたいという夢を抱き始めていた。
(陽菜子のウェディングドレス姿…見たかったな…。あと陽菜子、どんなお店開くのかな…)
美鈴はそんな事をぼんやり考えながら家に帰ってくると玄関には陽菜子の靴と男物の靴が並んで置かれていた。
「ん?」
夫が死んで以降再婚もせずに母子家庭でいた美鈴の家に男物の靴があることに些か戸惑ったが、美鈴は家に上がってリビングに入る。
「お母さん、お帰りなさい」
「…」
陽菜子が出迎えるが、その隣には美鈴も見知らぬ若い男性がスーツ姿でお辞儀をしていた。
「陽菜子?その人は?」
「私の通ってる専門学校のOBの人でね、その…」
「は、初めまして!陽菜子さんとお付き合いしゃせて貰っている長門司って言いまひゅ!」
司は声を噛んだり裏返ったりするくらいに緊張しながら美鈴に挨拶する。
「お付き合いって…彼氏さん?」
「今はそうだけど…実は…」
陽菜子は申し訳なさそうに目を泳がせながらも、意を決して言い放つ。
「もう…2ヶ月なの…」
「えっ、2ヶ月って…まさか…」
「うん…。デキちゃった」
陽菜子はおなかを撫でながら俯いて応える。自分に孫が出来ておばあちゃんになるという事実の衝撃を言葉に表せずにいた。
「ごめんなさい!」
「お義母さん!僕はまだまだひよっ子ですが、必ず陽菜子さんとこれから産まれてくる子どもを幸せにします!だから結婚させて下さい!!」
そんな黙っている美鈴を見て怒っていると勘違いしたのか陽菜子も司も涙ぐみながら謝ったり懇願する。
「陽菜子、どうして謝るの?」
「だって私…まだまだ自分のことで精一杯だからきっとお母さんに迷惑掛けちゃうから…まだまだ迷惑掛けちゃうって思ったら…」
「良いのよ陽菜子」
美鈴は陽菜子を抱き締めながら頭を撫でる。
「陽菜子の人生だもの。後悔が残るような生き方をしちゃダメよ…。陽菜子はお母さんの娘なんだから、本当に困ったらいくらでも頼りなさい」
「お母さん…」
「司くん。人はいつ死ぬか分からないわ…。貴方と結婚して良かったと思えるくらい、幸せな思い出を陽菜子にたくさんあげてね」
「はい…!必ず!!」
美鈴は陽菜子に訪れた幸せを願いつつも、それを見届けられない自分の残りの寿命の短さを惜しんで密かに唇を噛み締めた。
しかしその美鈴の気持ちは砕かれることになった。
陽菜子は20歳になって、美鈴にとっての孫となる子どもを産んだ。
「お母さん。産まれたよ。女の子。名前はお母さんから取って華鈴って付けようと思うんだ」
子どもを産んで病室のベッドで美鈴と対面した陽菜子は笑顔を向けた。
陽菜子は21歳になって、司と結婚式を挙げた。
「おがあ゛さん…。今ま゛で育てでくれて、あり゛がとう…」
「僕は、陽菜子さ゛んを゛幸ぜにする゛事を誓いま゛す!」
泣きじゃくる陽菜子と司の挨拶に美鈴は苦笑いを浮かべつつも、もらい泣きした。
陽菜子は27歳になって、10にも満たないカウンター席だけの小さい店ながらも自分の店を手に入れて、初めての客として美鈴を招待した。美鈴が昔大好きだと褒めたのが嬉しかったのか、鈴鈴家という中華料理の店にして、夫の司と共に厨房に立っていた。
「これが当店看板メニューの麻婆豆腐になります。…どうかな?」
「おばあちゃん、ママのごはんおいしい?」
「うん…。美味しいよ。とっても…」
娘の夢に立ち会えると思っていなかった美鈴は感涙を流しながら孫娘の華鈴の頭を撫でた。
それから1年、また1年と経つ度に美鈴は死を覚悟すると同時に陽菜子の幸せを楽しみにするような余生を過ごしていたが、美鈴が60歳を迎えて定年退職した頃に大腸癌が見つかった。美鈴は陽菜子や司達の強い勧めもあって入院して治療を受けることになったが、ここが寿命を切り取った自分の限界なんだろうと何となく悟っていた。
「お母さん。具合はどう?」
「おばあちゃん大丈夫?」
37歳になった陽菜子は店が軌道に乗り、中華の隠れた名店の美人店主として地元の人や部活帰りの学生、早めに帰ってくるサラリーマン達に愛されていた。隣にいる華鈴は高校生になり、母である陽菜子の背を見て育ったためか料理人になると将来を決めて見習い扱いで鈴鈴家を手伝っている。
「陽菜子達の顔を見られるだけで私は幸せよ。ところで司くんとはどう?」
「今日はお店を任せてるからここには来れないけど、二人三脚で頑張ってるよ」
「パパとママって何年経ってもラブラブだからね。今日もハグしてから出掛けてたし」
「華鈴!もう…」
華鈴に夫婦の恥ずかしい関係を暴露されて陽菜子は困り顔で赤面する。
「本当に幸せそうね」
「うん…とっても…。私がこうして幸せなのもお母さんがここまで育ててくれたからだよ。本当にありがとう。…それとごめんね。まだまだ恩返しも出来てないのに」
「ううん。いいの。それに恩返しはもういっぱい貰ったわ…」
美鈴の言ったことは御世辞ではなく本音である。43歳で死ぬと思いきやここまで生き延び、陽菜子の人生のめでたい節目に立ち会えて、自分の寿命を分けて正解だったと胸を張れるからだ。
「花咲美鈴さんのご家族の方ですか?」
「そうですけど」
「ちょっとお話が…」
美鈴の主治医が来て、治療についての話し合いのために陽菜子と華鈴は病室を出ていった。
「…」
「ごきげんよう」
「えっ?」
美鈴がボーッと外を眺めていると懐かしい抑揚の無い声がして振り返る。
「寿命屋さん…?」
そこには何十年も経っても変わらぬ姿の寿命屋が立っていた。寿命屋はツカツカと美鈴に近づく。
「私はいつも寿命を切り取った方に、死ぬ間際にお尋ねしていることがございます。貴方は最愛の人に寿命を分け与えて、幸せでしたか?」
「…」
寿命屋の問いかけに美鈴は目を閉じて陽菜子を蘇らせてからの33年間の日々を思い出して答える。
「もし貴方と出会わなかったら私は110歳まで生きてたんですよね…。でもあの子がいないまま生きても意味は無かった…。短くても喜びと幸せが溢れた人生を過ごさせてくれて、ありがとうございました」
「左様でございますか」
「私も訊いて、良いですか?」
「何でしょうか?」
「貴方は…天使ですか?」
「いいえ。私は寿命屋でございます。寿命を切り取り、分け与える。それが私の務めです」
寿命屋は愛想笑いもせず、造られたような美しい無表情のまま病室を去った。
そして、寿命屋と会ったその日の夜、美鈴は容態が急変してそのまま息を引き取った。陽菜子も司も華鈴も駆けつけ涙したが、美鈴の最期の顔は苦悶が一切無い、花や小動物を愛でるような穏やかな微笑みであった。
110年の大往生の運命を捨てた美鈴の人生はどう見えるのかは人次第かと思います。