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薄暮の客人  作者: たびー
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 翌朝、ハンスは寝すごしてしまった。パン屋のアンが表の戸を叩く音に起こされた。

 ハンスは夜着にガウンを羽織ってのろのろと廊下へ出た。パンを受け取りに行く前にクルトの部屋を覗くと、今朝は静かに眠っていた。

「ぼうやの様子はどうだい?」

「ありがとうございます。今は落ち着いています」

 今朝はパンと、りんごが数個入った紙袋を渡された。男やもめと病気の子どもを心配してのアンの気づかいだろう。ハンスはいつもより丁寧に礼を述べた。

「うちにできることはこの程度さ。あんたの爺さんからの長い付き合いだ。こんなご時世、お互い力を合わせないとね。昨夜だって、銃声が聞こえてびっくりしたよ」

 体をゆすりながら、大げさな身振りで説明するアンにハンスは吹き出した。

「なんだか、妙なことも起きているって客たちが噂していたよ。気をつけな」

「妙なことですか」

 ああ、とアンはうなずくと、太い腰に手をあてた。

「なんでも、血まみれの服が何着か見つかっているんだとさ」

「服だけ? 人は」

 アンは顔の前で手を左右に振った。

「それがねえ、妙なことに死体もけが人も見つかっていないんだとさ。商売女が何人か消えたらしいんだけど」

 商売女と口にするときだけ、アンは顔をゆがめ声をひそめた。事件なのか、事故なのか。つかみどころのない話だ。いずれにしろ、まだまだ治安はよくない。気を引き締めていかなければ、とハンスは思った。とくに、今は金になりそうなものが手元にあるのだ。

 アンを見送った後、ハンスは台所のかまどに薪を入れて火をおこした。時計は、また床下へと戻した。リンゴの芯をくりぬいてわずかなバターと砂糖を詰めているあいだじゅう、ハンスは大金が手に入ったならと思いを巡らせた。寝不足で頭は今ひとつすっきりとしないが、胸の中に望みが芽吹くように感じた。りんごを温まったオーブンに入れてから、ハンスは再び二階へと上がった。

 クルトの部屋へと静かに入り、ベッドの端に腰をかけた。クルトは正しい呼吸を静かに繰り返していた。胸の嵐は、今朝は鳴りを潜めているようだ。

 しばらくハンスはクルトの寝顔を見ていた。クルトはエラの連れ子だ。金の髪と青い瞳は、エラそのものだ。母親を失ってまだ数か月。食欲が落ちたせいで背も伸びない。七歳だけれど、歳よりも幼く見える。

 エラは寝ついてから数日で亡くなってしまった。また自分は同じようにクルトを見送るわけにはいかない。クルトを守って欲しいというエラとの約束を破ってはいけない。

 時計を売ることに、迷いがないわけではない。エラが大好きだった時計だ。エラが守り通した大切なうちの店のシンボルだ。

 忘れな草の花言葉……わたしを忘れないで。

 時計を売ることは、エラとの短いけれど大切な日々の思い出まで手放してしまうようなさびしさがある。

 どれくらい時間が経っただろう。階下から、甘い香りがしてきた。そろそろ焼きあがるだろう。ハンスが立ち上がると、クルトが眠たげに目をこすった。

「りんご、焼りんごのにおい」

「ああ、アンおばさんからりんごをもらったから作ったよ。食べられるかい」

 クルトは、めずらしく素直にうなずいた。ハンスは胸の中で手を打った。よかった、少しでも食べる気持ちでいる。

「今、持ってくるから」

 こんどこそ、こんどこそ失くしてはならない。唯一の家族、息子を。



 ハンスは午前中の早い時間に市場へと出かけた。

 小さな町の市場とはいえ、買い出しの人でごった返していた。みな擦り切れ、つぎをあてた着古した服で着ぶくれている。仮設の店はどこもにぎやかだ。食べ物と体臭とがまじりあい、誰もが油断なく目を光らせている。気をゆるめたら、スリにでも合いそうだ。

 ハンスは荷物を抱えた人と何度もぶつかりながら、肉屋をめざした。その間にも、様々な会話をひろい聞きする。

 果物を買い求めようとしたとき、店主と老人が話していた。

「なかなか景気が良くならないねぇ」

 誰もが戦争さえ終わればと思っていた。それはハンスも同じだった。戦争さえ終われば、すべてが良くなると。しかしそうではなかった。

 男たちが市場のはずれに焚火を囲んで車座になって、一人が広げた新聞をのぞき込む。

「国の東側の領土が無くなるかも知れない、だと?」

 敗戦国にこそならなかったが、もとより小さな国だ。いつも大国の思惑に振り回される。

「まだ息子が戻らない……」

 エプロンの裾で、泣き顔を隠す女性を慰める友人らしき人々を遠目に見ると、ハンスまでもらい泣きしそうになった。

 自分は戻って来られただけ、幸運だったのだとハンスは思った。

「鶏ガラ、あるかな」

 肉屋までたどり着くと、ハンスは乏しい持ち合わせを差し出して肉屋の店主に注文した。

「まったく、いやな話しか耳にしないよ。不景気だし、何もかも足りないし。おまけに、気味悪い出来事も起こっているっていうじゃないか」

 ろくな売り上げにならないハンスのような客も、不景気の一部だろう。細身の店主は眉間の皴を深くした。

「吸血鬼にでも咬まれたのかね」

 肉を挟むトングをかちかちと鳴らして店主がハンスに話しかけた。

「血まみれの服だけ見つかった、って噂のことですか」

「そうそう。吸血鬼に咬まれるだろ? そうすると咬まれた奴も吸血鬼になる。それを分からずに、おてんとさんの光を浴びたら」

 血に汚れた服だけが残されるはずだと、肉屋の親父は真顔で言う。

「まさか二十世紀のこの時代に」

 眉唾物の親父の解説に、ハンスは品物を受け取って、曖昧に笑って見せた。

 今日は、鶏ガラでスープを作ろう。玉ねぎとじゃがいもがある。少しでも精のつくものをクルトに食べさせなければと家路を急いだ。


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