プロローグ 「三年前の一年後。」
爆弾事件が起きる二年ほど前のことだ。
早朝。日は既に昇っているが、空一面を覆う灰色。
白いグラジオラスの束だけを持ち、男からすれば何ら意味を持たない陳列された石ころの間をすり抜ける。
もちろん花を買うにもお金は必要だ。貴重品と呼ばれる類のものは持ち歩いている。しかし、男は何も持たないのだ。
力のない足取りで見渡す限りの石の密林を進む。そして、その中の一つの前に足を止めると男は意味を強要する。清掃や合掌、お香など通例ならばやるべきことはあった。だが、男はしゃがみ込み花だけを供える。
「あれから一年になるのかな。」
そこに取って付けたような口調はまだなく。疑問口調のような、噛み締めるかのような調子で言葉を口にした。
「介くん。」
親愛を込めてよそよそしいく口にした名前。供えた花の束から一輪だけ抜き取る。
「覚えていなくてごめんね。」
涙はない。枯れたわけでもない。流してやることも彼には出来ない。流すことが許されないのだ。彼自身がそれを許さないのだ。それだけが何も持たない男が自分の内の持ったものだ。
事件の全容を明らかにするまでは、何も知りもしない自分に涙を流すことなど許されない。感情というまやかしで、悲しみという言い訳で、涙で、流し去ることは許さないと。
なにより、流したくとも、記憶にない者のためになど、涙を流せるはずもなかった。
なぜ亡くなったのか。唯一知っているはずの彼が何も記憶を持たないのだ。一年前の事件時に後頭部を損傷し、その衝撃で彼の脳は記憶を手放した。全生活史健忘、記憶喪失である。
謝罪を口にした彼は手に取った花の花弁を喉元に突き付けた。
それは、それを目撃した者に出るはずのない血を幻視させるほど危うげでありながらも鬼気迫るものだった。
「あの…、」
声を掛けたのは、後に探偵社を共に設立することとなる小五月蠅いあの男だ。
「そちらも今日が命日で?」
一つ墓を挟んで掛けられた声。音喜多は一瞬驚いたがすぐに平静を取り戻した。
「えぇ、弟の。」
その言葉を言った音喜多は胸の悪さを感じた。実感のないことを口にしたためだ。
「そうでしたか。先ほど一年になるとおっしゃっているのが聞こえてしまいまして、僕の兄も丁度一年前に。それでこれも何かの縁なのかなと思い声を掛けてしまいました。驚かせてしまったでしょうか。」
後頭部に右手を当てて申し訳のなさを表す。
「いえ、そんなことは。」
それが彼らの出会いで、そこで終わる出会いのはずだった。____
グラジオラスの花言葉は”思い出”や”忘却”
グラジオラスの英名はSword Lily、剣の百合です。