出港
「海って、どんな感じなんだろうなあ」
宿屋のベッドに身を投げ出しながら、キースが呟いた。
「キースは海を見たことなかったんですよね。それじゃあ楽しみですね!」
自分の荷物を整理する手を休め、ミハイルが微笑みかけた。
もうすぐ港町に到着する。そして、船に乗って海を渡り、いよいよ目的地ノースカンザーランドへ――。
のん気なことを言っている場合ではないのは皆重々承知である。しかし、あえてゆったりとした時間を過ごすようにしていた。
「海は、とっても広くてとっても深いんだろ? 湖のでっかい版?」
「ええ。でも、でっかい版なんてもんじゃないですよ。途方もなく雄大で、そして深淵です」
「でっかい魚もいっぱい泳いでる?」
「ええ。もちろん。巨大な鯨や亀、エイなんかもいますよ」
「『人魚』っている?」
「いるらしいですよ」
「あー! 俺も泳いでみたいなあ! 広い海ってとこ、思いっきり泳ぎたい!」
「冬の北の海は、相当冷たいんじゃないでしょうか」
「冷たくっても飛び込んじゃうもんねー! あ! ちゃんと準備体操してからね!」
キースは立ち上がって、いち、に、と準備体操の動きをし、それからベッドの上で泳ぐ真似をした。なぜか、泳法のチョイスは「バタフライ」だった。
「潮風や波の音も心地いいぞ」
宗徳も笑顔で呟く。カイも微笑んでうなずいた。カイは剣の姿ではあったが、エースと共に海を渡っている。カイも海を知っていた。
「へーえ! いいなあ! 海、感動するんだろうなあ!」
キースは瞳を閉じた。碧い海の底で揺らめく海藻の草原、色とりどりの魚たち、それから立派な尾びれを優雅にくねらせて泳ぐ美しい人魚たちも空想した。
豊かな海に想いを馳せているうち、キースは眠ってしまっていた。
「もう寝ちゃってますね」
ミハイル、宗徳、カイは顔を見合わせて笑う。
カイは、そっと布団を掛けてあげた。
――ノースカンザーランド……。宗徳、早くお姉さんに会えるといいな……!
キースは、宗徳と宗徳の姉が再会している夢を見ていた。そして、夢の中、みんな一緒に楽しく海で泳いでいた。なぜか皆、バタフライで。遠洋まで、本気出してバタフライで泳ぐ。海から見上げた青空には、ぽっかりとエビフライが浮かんでいた。
やはり、キースの夢はアメイジングである。
朝から晴れ渡って、冬にしては暖かな陽気だった。一行は空を駆けて移動した。
地図から予想した時間より早く、昼前にバルイナ王国の最北東の港に到着した。
「うわー! 海だ! 海だあーっ!」
キースは子どものようにはしゃいだ。とはいっても、もともといつも子どものような言動だが。
「うわー! これがホルガーじーさんの言ってた船かーっ!」
今度は巨大な船を眺め、瞳を輝かせた。
「でっかい! でっかいぞー!」
キースは頭をめいっぱい右から左に動かしたが、目に入る海はどこまでも海だった。そして、間近に見る巨大な客船も、視界に入りきらないような大きさだった。
――この船に乗って、いよいよノースカンザーランドへ向かうのか――。
キースは息を深く吸い込むと、真剣な表情で船を見つめた。
ノースカンザーランドへ着いて、すぐにクラウスが見つかるとも限らない。いつギルダウスに遭遇するかもわからない。しかし、旅の終着――使命の達成――に向け、大きな一歩を踏み出すのは確かである。
キースは一人、拳を固く握りしめた。
――行くぞ……! ノースカンザーランドへ……!
「……『魔』の気配を感じる……」
隣に立つアーデルハイトが呟いた。
「えっ!?」
思わずキースはアーデルハイトを見た。
「そうですね。ここは、古い魔法の気配が漂いますが、それだけじゃない……。新しい、『魔』の気配も感じます……」
ミハイルもアーデルハイトの言葉にうなずいた。
「そうか……。やはり、優雅な船旅ってわけにはいかなそうだな」
「はい……。この気配はまだ遠いようですが……。どこかに強いなにかが潜んでいるのは間違いありません」
「……他の人々を巻き込まないよう、俺たちがこの船を乗るのを止めたほうがいいんだろうか?」
相手がギルダウスだけだったら、他の多くの人々を巻き込むような攻撃は絶対に仕掛けてこないと断言出来る。しかし、幻影の「手」の持ち主は、場所や手段を選ばなかった。自分たちが乗船することで、大勢の人々を危険な目に遭わせることになってしまうのではないか、キースは最悪の事態を危惧していた。
「……でも、ドラゴンたちを連れてノースカンザーランドへ向かうには、大型船で行くしかないと思います。それに、この『魔』の持ち主が、この広い海のどこでどのように現れるか――」
ミハイルも最悪の事態は避けたかったが、他に海を渡り入国する手段は考えられなかった。
「あのミミアって魔族が仕掛けた罠なんだろうか」
「それはなんとも言えないですね……。それに、この『魔』の気配がクラウスたちの手によるものかどうかもわかりません」
考えているうちに、刻々と乗船の時間が近づく。
「とりあえず、船長に『魔』の気配がするってこと、話してみるか!」
乗船の案内をしている船員に話し掛け、なんとか船長と話せるよう取り次いでもらう。
「実は……、他の何名かのお客様からも同じようなことをお教えいただいております」
日に焼けて小麦色の肌で、がっしりとした体格、いかにも海の男といった風情の船長が、深刻な表情で打ち明けた。
「そうだったんですか……」
「何日も前から、魔法使いのお客様、退魔士のお客様、特殊な力をお持ちのお客様がたから、そのようなお話をお聞きしております。どうも、『魔』の気配は日に日に強くなっているようで……」
「なにか、対応策はおありなんでしょうか?」
ミハイルがまっすぐな瞳で問いかけた。
「念のため、魔法を使える警護の者や戦力となる者たちを配備しております。この海は、大昔も怪物に襲われておりまして……。そのとき戦った海の男たちの末裔の者を、大勢乗船させております。それから、この船には大砲も搭載しておりますし、エンジンも最高のものです。お客様には、安心して海の旅の時間をお過ごしくださいますよう、常に充分な対策を取っているつもりです」
「そうだったのか……! なにかあったら、俺たちも戦力になると思う……! こっちは剣士が二名に魔法使いに退魔士だ! 船の安全のために、俺たちも協力させてくれ!」
「妖精さんもいるよー!」
キースの言葉に、妖精のユリエが付け足す。
「ありがとうございます! それは心強い……! でも、お客様はお客様ですから、こちらで万全の警護を……」
「んー、てゆーか、実はもしかしたらその『魔』の気配のやつって、俺ら狙いかもしれねーんだよね……」
「えっ!? まさか……!」
「ちょっと、俺、魔族の者たちに狙われていて……。だから、もしかしたら今回『魔』の怪物が現れるとしたら、俺の責任かもしれない。本当は俺たち船に乗らないほうがいいのかもっても思ってて……」
キースは正直に打ち明けた。
「いえ……! そんなことはございません。ここはもともと海の怪物がいた海です。たとえ、怪物がお客様を狙ったとしても、それはお客様の責任ではございません。それに、やはりお客様はお客様です。船に被害が及ぶ事態が起きたとしても、それは船を運航している私どもで精一杯対応すべきこと。どうか、くつろいで船旅を楽しんでください」
「ありがとう……! でも、俺たちも協力させてくれ……! 俺の名は、キースだ!」
「キースさん……! ありがとうございます……!」
キースたちが船長室を出てほどなく、船内にアナウンスが流れた。先ほどの、船長からだった。
「ご乗船誠にありがとうございます。この海は、近頃、『魔』の気配が強くなっている模様です。ご存知のお客様もいらっしゃるかもしれませんが、ここは、大昔怪物が生息していた海です。当船は、怪物の出現に対し万全の対策を取っておりますが、お急ぎでないお客様や小さなお子様のいらっしゃるお客様、乗船にご不安のお客様におかれましては、下船を強くお勧めいたします。船賃の払い戻しをいたしますので、どうぞお申し付けください。これからしばらく出港のお時間を延長させていただきます。続きまして、避難経路についてご案内いたします――」
船内アナウンスは、聞き漏らしのないよう繰り返し放送された。
どういうことか、急に言われても困ると身近にいた船員に詰め寄る乗客もいたが、船員も船長も一人一人納得のいくよう丁寧に対応した。
大勢の乗客が下船したが、変わらず出港を待つ乗客も大勢いた。
「なんていうか……。とても……。申し訳ないなあ……」
乗客の問い合わせの対応が終わると、キースが船長に話し掛けた。
「先ほども申し上げました通り、お客様に責任はございませんよ。お客様が乗船なさろうとなさるまいと、怪物が現れるときは現れます。そして、ノースカンザーランドへとつなぐこの重要な船は、明白な危険でない限り出港いたします。いつ現れるかわからない、もしかしたら現れないかもしれない怪物に対して出港を止めるわけにはいきません」
「本当にありがとう……! 船長……! 俺たち、どうしてもノースカンザーランドに行かなければならないんだ……!」
「そのようにおっしゃるお客様がお一人でもいらっしゃるのなら、この船は出港いたしますよ……!」
汽笛が鳴った。予定時刻よりだいぶ遅れた出港だった。
「無事ノースカンザーランドへ着けるよう、俺は全力で戦う……!」
キースは強い意志を込め誓った。
輝く海。船はゆっくりと海原を滑り出した。




