今の日常
冬晴れの朝。心地よいリズムの波の音。海鳥たちもゆったりと上空を舞っている。海は穏やかに青く輝いていた。
キースたちより早く、バルイナ王国の最北東の港に着いたフレデリク一行は、出国手続きを済ませ、ノースカンザーランドへ出港する巨大船――発明王ホルガ―がエンジンの開発に携わった――の前にいた。
「うわあー! これは本当に大きくて立派な船だなあ! すごいなあ!」
ハンスが興奮気味に叫んだ。千人もの乗客を運ぶことの出来るこの大型客船は、日の光を一身に浴び堂々たる存在感を示していた。
「素晴らしい船ですね……! これは……! きっと、世界一大きい船でしょう」
フレデリクも初めて見る巨大船を、眩しそうに見上げていた。
フレデリクの従妹、アンネは船ではなく辺りに注意を向けていた。
「どうしました? アンネ」
「なにか……、ここ、魔力の痕跡を感じない……?」
アンネが呟いた。
「大昔、ここには怪物がいたらしいです」
ハンスが、自分のカバンから一冊の本を取り出した。
「ハンス君。その本は、なあに?」
「昨日、本屋で購入したんです。ここの地元の歴史の本です。そこに、怪物の話が載っていました。大昔、この港には怪物が住んでいたらしいです」
アンネは、ハンスの本を手に取り、ぱらぱらとページをめくった。
「海の怪物……。魔物ではないようね……」
「はい。魔界から来た魔物ではなく、昔から地上にいた怪物で、多くの人々の命が犠牲になり、海辺の人々は暴れまわる巨大な怪物に長い間苦しめられてきたそうです。あるとき、旅の魔法使いがこの地を訪れ、それから魔法使いとバルイナ王国の討伐隊、海辺の人々が一致団結して、ついに怪物を退治したそうです」
「まあ……! それじゃあ、この魔力の痕跡は怪物退治のときのものだったのね……!」
「そうですね。怪物は魔法によって無事封印され、それからここは安全で重要な港として発展していった、と記されています」
「この、いまだに漂う魔力の感じから察すると、とても恐ろしい怪物だったみたいね……」
ザザーン。ザザーン。
穏やかな波音。きらきらと輝く青い海原。かつて恐ろしい怪物がいたとは思えない平和な海。
だが――。
どくん……、どくん……。
紺碧の海の奥深く、海底で密かに息づく「卵」――。
フレデリクたちは、強力な封印魔法の痕跡の影に隠れてしまった、新しい魔力の鼓動に気付かない。
それは静かに、しかし確実に命のリズムを刻んでいた――。
キースとカイは、いつものように朝早くペッドを抜け出す。
「俺たち、毎朝早朝出掛けてるから、やっぱり、ミハイルたちとは別部屋のほうがいいのかなあ」
ミハイルと宗徳の睡眠が浅くなっては申し訳ないとキースは思っていた。
「この前もその話をミハイルさんと宗徳さんにしましたけど、お二人とも一緒でいいって言ってたじゃないですか」
カイは、キースの気遣いに微笑んで答えた。
「うん。でもなんだかやっぱり悪いなあ」
「そうですね。起こさないようにしてるつもりですが、結構起こしちゃってる日もあるみたいですしね」
「やっぱり、やつらに一服盛るか」
「なにをっ!?」
「睡眠薬とか」
「キース!」
「冗談だよ」
「冗談でもそんなこと言わないでください!」
「うん。言わない。起きそうな二人を、鈍器で殴って眠らせるなんて絶対言わない」
「キース!」
「申し訳ないなあ」
「…………」
「ギャグの切れ味が悪くてお前に申し訳ない」
「どこに謝ってるんですか」
「でもほんと悪いなあ。後でもう一回、別部屋にする提案をしてみるか」
「……お二人は、水臭いこと言うなって言ってましたよ」
カイは、キースの青い瞳をまっすぐ見上げた。
「お二人は、皆と過ごす旅の時間を大切にしたいんだそうです。この日々が、ずっと続くわけじゃありません。長い人生の中で日常ではないこの貴重な『今の日常』を、大切にしたいんだそうです」
「うん……」
キースも同じ思いだった。眠る前の何気ない会話、毎日数時間のことだが、とても楽しい安らぎのひとときだった。
「あと、二人部屋より断然安いって言ってましたけど」
カイはそう言っていたずらっぽく笑った。
いつも、シーグルトのいる場所はどこかわからない。しかし、いつも、どの町に滞在したとしても、歩き始めてそう時間のたたないうちにシーグルトの姿が認められた。
「おはよー! シーグルトっち! 今日も早いねえ!」
人気のない広場。シーグルトは黙って剣を構える。
キースもシーグルトにならって「滅悪の剣」を構える。
ヒュッ! キンッ! キンッ! カッ……!
毎朝繰り広げられる剣の手合わせ。いつもシーグルトが優勢で、いつもシーグルトの圧勝に終わる。
――今日こそ……! 今日こそ俺が勝つ……!
キンッ! カッ! カッ……!
剣が鋭い火花を散らす。
――速い……! くそう……! ほんとなんでこんなに速いんだよ!? シーグルトっちの剣は……!
それでも、いつもより長い打ち合いになった。
ヒュッ……!
「……決まりだな」
シーグルトの剣が、キースの眼前で止まる。勝負が決まった。剣を止めなければ、キースの額をシーグルトの剣が貫いているところだった――。今日もシーグルトの勝ちだった。
「はあ……、はあ……、はあ……」
平然とした状態のシーグルトに対し、キースの呼吸はまだ整わない。
「シーグルトっち……。なんでこんなに速くて強い……」
膝に手を当てかがみこみながらキースが尋ねる。
「……私は、すべてを利用しているからな」
「すべてを利用……?」
キースは額の汗を拭い、シーグルトを見た。
「天候、風向き、地面の状態、地形、それから相手の体の重心の置きかた、相手の動きのくせ、感じ取れる相手の性格傾向……、すべての状況を分析して動いている。まあ、感じ取れるすべての情報を利用して攻撃に活かしている、といったところだ」
「えええーっ! なにそれっ! 一瞬のうちにそんな細けえこと全部とらえてから速く動いてるっていうの!?」
シーグルトの言葉に、すっとんきょうな声を上げるキース。
「それで、生き延びてきた」
「へええええ……。すげーな……」
シーグルトは、少し首を傾けながらキースの瞳を見た。
「キース。お前も広く速く情報をとらえ、動きに活かしているじゃないか」
「え……? 俺が……?」
そんなわけはない、とキースは思った。
しかし、ふっと、キースの頭に答えが浮かんだ。シーグルトの言葉を受け、自分の中から自分で答えを導き出したようだった。「自分が自然の中でひとつの命として純粋にただ在るという感覚」、その感覚もまさしく、自分を囲む全体の状況をとらえる感覚なのではないか、と――。
「……中庸の精神、それはその究極の姿だと私は思っている」
「『極端に走ることなく、その場に適切な状態であること、柔軟であり常にバランスがとれている状態』……!」
キースはミハイルの言葉を呟いていた。
「キース。お前もわかっていたじゃないか」
「それは、その場その場で最善であろうとする姿……!」
シーグルトは、黙って微笑んだ。
キースは、自分の右手の「滅悪の剣」を見つめた。「滅悪の剣」も、刀身に青い光を宿らせ、キースに答えた。
シーグルトは少しなにかを考えるかのように視線を下に向け、それから意を決したように長い髪をかきあげ、キースを改めて見詰めた。
「……キース。一言言わせてもらえば、お前の剣はまっすぐ過ぎるな。それがお前らしい剣なのだとは思うが」
以前、シーグルトはキースに「心が剣に現れる。いつでも、お前らしさを忘れるな。お前の剣というものを大切にしろ」と話していた。キースはその言葉を思い出していた。
「え……」
「それはお前らしさとして大切にすべきだ。お前の強さでもある。だが、強敵の前では少し不安だ。お前の剣は、私のような者からすれば裏をかきやすい」
「裏を……?」
「まだまだ本調子とはいえないお前だから私が勝てるというのもあるが、私が勝ち続けているのはその辺の理由もある」
「え……。それはどういう……」
「私は、自分が生き延びるためにはどんな手も使う。お前と違ってな」
シーグルトは、鋭い金の瞳でキースを見据えた。
「……シーグルトっち……」
「相手は正攻法だけで来るわけではない。お前が汚い技を使う必要はないが、卑劣な相手と戦う場面もあるかもしれない。まっすぐなだけでは裏をかかれることもある、それは一応心に留めておけ」
「シーグルトっち……! ありがとう……!」
「余計な一言だったかもしれんがな……!」
シーグルトは、ふっと、笑った。
キースの隣にカイが立っていた。いつの間にか、人間の姿になっていた。
「シーグルトさん……! 今日もありがとうございました!」
カイはシーグルトに深々と一礼した。
シーグルトは、赤いドラゴンの背に乗り、飛び去って行った。キースとカイに向かって、右手を軽く上げながら。
「……本当に、シーグルトさんは素晴らしい師匠ですね」
カイが呟く。
「うん……! シーグルトっちは、俺の最高の師匠だ……!」
キースとカイは、並んでシーグルトの姿を見送った。
見えなくなるまで、そうした。
朝日が二人の顔を明るく照らす。
「よし……! みんなのところへ戻るか……!」
キースはカイに向かってニッと笑うと、力強く一歩踏み出した。




