「今」の僕、「昔」の僕
宗徳は、早朝目覚めた。
ふと隣のベッドを見ると、空である。
今朝も、キースとカイ殿は出掛けているのか。
宗徳は、上半身を起こす。起床には早すぎる時間だが、寝直すつもりはなかった。自分も朝の鍛錬でもするか、とミハイルを起こさないよう静かに立ち上がったときだった。
「おはようございます。宗徳さんも、もう起きるのですか?」
ミハイルもすでに目覚めていて、宗徳に声を掛けてきた。
「おはよう。ミハイル殿。ミハイル殿も、起きていたのか」
「はい。なんとなく目が覚めました」
あたたかなベッドを出ると、部屋の空気は冷たい。
「朝食にはだいぶ早いですけどね」
ミハイルが寝巻を着替え始めた。ミハイルも起きるつもりのようだ。
「俺も、外に出て体を動かそうと思っていた」
「それじゃあ、辺りを探検なんてしてみます?」
「探検?」
「いえ。つまりは散歩です。ちょっとキース風に言ってみました」
「なるほど! あやつなら言いそうだな! ミハイル殿、だいぶキースの性格が伝染してきたのではないか?」
「伝染って!」
それはずいぶん困った感染だ、などとキースがいないのをいいことに、笑い合いながら宗徳とミハイルは外へ出た。もっとも、二人はキースが傍にいても構わず同じことを言うだろうけれど。
身が引き締まるような澄み切った空気。まだ、雪は降っていなかった。凍結した雪道の上を注意しながら二人は並んで歩く。
「そういえば、ミハイル殿はどうして退魔士になったのだ?」
宗徳が何気なく尋ねた。きっと、子どもの頃からの夢だった、というような明るい答えが返ってくるだろうと思っていた。
「……初めは、復讐です」
「えっ……」
意外すぎる返答に宗徳は絶句した。発せられた言葉は、目の前にいる柔らかな栗色の巻き毛で、ハシバミ色の大きな瞳をした、純粋な少年のような童顔のミハイルと、まったく結びつかなかった。清々しい早朝の空気ともまったく馴染まない恐ろしい言葉。まるで、単語だけが切り離され虚空に浮かんでいるようだった。
ミハイルは、いつもと同じ穏やかな表情をしていた。
「復讐……!?」
もしかしたら自分のただの聞き間違いかもしれないと宗徳は思い直し、自分が耳にしたかもしれない先ほどの言葉を、ゆっくりなぞるようにして聞き返す。
「ええ。小さいころ、家族を皆、魔物に殺されました」
宗徳は、ミハイルの目を見つめた。ミハイルのハシバミ色の瞳は、変わらず澄んだ光をたたえている。
「ミハイル殿――」
「孤児になった僕は、退魔士の家の養子として引き取られました。僕を育ててくれた父の父、つまり、その家の祖父が僕の師匠です」
「そうであったか――。ミハイル殿も、孤児であったか――」
宗徳は、いつも明るく笑顔を絶やさないミハイルのことを、きっとあたたかく恵まれた環境で育った人間であると勝手に思い込んでいた。それがまさか、自分と似たような境遇であったとは――!
「え? ミハイル殿も、ということは、まさか、宗徳さんも……?」
「ああ。ただし、俺の両親を殺した相手は、ただの人間だったが――」
「そうでしたか……。お互い、ずいぶん過酷な運命を生き抜いてきたのですね」
ミハイルは、そう言って笑った。過去に背負ってしまった壮絶な悲しみや苦労を感じさせないような笑顔だった。
「どうして――」
宗徳は不思議そうに呟く。
「どうして、ミハイル殿はそんなに明るく――」
「……昔は、そうでもありませんでしたよ」
ふっと、ミハイルの顔に暗い影がよぎった。
「昔の僕は、宗徳さんの知っている今の僕とはまったく違いました――」
そう言ってミハイルは微笑んだ。
いつもの屈託のない笑顔で。
ミハイルの故郷であるリシアルド公国は、他国に比べ魔物の出現が非常に多い国である。国で退魔士の育成を奨励するほど、国中魔物の襲撃に悩まされ続けていた。
「ミハイル……! 逃げろ……! 逃げる……んだ……!」
「兄さん!」
真っ赤に染まった夕空のあの日。ミハイルの家に魔物が侵入した。
数日前、村の近くの森に魔物の目撃情報があった。ミハイルの両親を含め、村人たち皆警戒を強めていた矢先の出来事だった。国に退魔士の派遣を要請し、夕方にも退魔士が到着する予定になっていた――。
まだ幼かったミハイルの眼前には、魔物に襲われ絶命した両親と、姉の変わり果てた姿。そして、今まさに命の火が消えようとしている血まみれの兄――。
「…………!」
ミハイルは、恐怖のあまり叫ぶことも逃げることも出来なかった。そこで、ミハイルの意識は途切れた。
三つの頭――気味の悪いことに、人間と猿の中間のような顔をしている――を持ち、長い牙と長い爪をした魔物がミハイルに襲い掛かろうとしたその瞬間――。
「闇の者よ、地の底へ帰れ!」
ダンッ!
大きな杖を激しく打ち鳴らし呪文を唱える者――、退魔士だった。
ガウウウウウウッ!
「我が光、汝を貫き汝の姿を地上に留めず! 撃滅!」
カッ!
閃光が走った。まばゆい光で、景色すべてが真っ白になったかのようだった。
襲い掛かる三つの頭の魔物は、跡形もなく消えた。
「……到着が、遅かったか……」
父、母、姉、兄、家族四人のむごたらしい遺体。退魔士は、無念そうに呟き、意識を失っている幼い子ども――、ミハイルを抱きかかえた。
ミハイルには、他に身寄りがなかった。退魔士はミハイルを、子どものいない自分の息子夫婦の養子に迎えることにした。
「この子は、言葉を話せないようですね」
「あんなむごすぎる光景を見てしまったんだ。無理もない」
ミハイルは、言葉を話せなくなっていた。表情も、ない。
退魔士も退魔士の息子夫婦も、ミハイルを我が子のように愛情を込め、大切に育てた。
家の庭は四季の花が彩り、家の中は日の光が多く入り常にあたたかく、食卓は栄養豊富な料理が並び、それからやんちゃな飼い猫がかわいい家族の一員として愛嬌をふりまき、新しい両親である退魔士の息子夫婦も退魔士もいつも明るい笑顔を絶やさない、喜びに満ち溢れた家だった。
ある日、唐突にミハイルは言葉を発した。
「おじいちゃん。おじいちゃんが僕の本当のお父さんたちを殺した魔物をやっつけたの?」
「――ミハイル! お前、言葉を……!」
「僕に、退魔の術を教えて。僕も、退魔士になる」
「ミハイル……!」
退魔士と退魔士の息子夫婦は話し合った。
「お父さん。僕は退魔士になりませんでした。素質がなかったせいもありますが、性格的に向いていなかったんです。僕は今、普通の仕事、普通の生活に後悔はありません」
「うむ。わしも、お前をこの道に勧めなかったことに悔いはない」
「ミハイルは――、ミハイルの幸せのためには、退魔士という仕事は――」
「怒りや復讐のために退魔の道を選ぶのは、わしも反対じゃ」
それから、ミハイルは、独学で退魔の術を学んでいく。素質があったため、スポンジが水を吸うように必要な知識を吸収し、みるみる才能が開花していった。
「大気の精霊、風の精霊よ……!」
ミハイルは、自然の精霊の力を借りる術が得意だった。
退魔の術を密かに体得していくミハイル。
しばらくするとミハイルは、まだ少年でありながら、密かに魔物を探し出し、片っ端から退治していくようになった。
「今まで僕が退治した魔物の数は、殺された僕の家族の数を越えた……! でも、もっとだ……! もっと、もっとだ……!」
相手は魔力の弱い小さな魔物ばかりだったが、着実にミハイルは実力をつけていった。
「もっと、もっと殺さなきゃ――!」
「ミハイル――!」
退魔士は、ミハイルの急速に伸びていく力と心の暴走に気付いていた。
「復讐のために力を使ってはいけない――!」
「……おじいちゃん……。どうして……?」
退魔士は、まっすぐミハイルの瞳を見つめた。
「退魔士の力とは、人を助けるためにある。決して、魔物を殺戮するための力ではない」
「え……」
「正しい力を、正しく使え――!」
「おじいちゃん……」
「お前に、退魔の術を教えよう。それは、己の復讐のためではない。人々の、笑顔を守るための術だ……!」
ミハイルは、無表情で退魔士を見上げる。
「ミハイルよ。いくら魔物を退治しても、心はちっとも満たされなかっただろう……?」
「心が……、満たされる……?」
ミハイルの心には悲しみと怒りが深く根を下ろし、心は乾いていた。殺しても、殺しても、渇きが癒えることはなかった。
「大丈夫じゃ。ミハイル。きっと、退魔の術を学んでいくうちに、生きているうちに、きっと気付く。きっと、また思い出すよ。笑顔を。明るいほうを向く勇気を――! 悲しみより強い、人と交わし合う『今』という優しい時間の大切さを――!」
ミハイルの新しい両親も、退魔の道を応援するようになった。
膨大な、英知と言える退魔の教科書。厳しい毎日の修行。同じ退魔士を志す少年少女たちとの出会い。変わらずあたたかい家。飼い猫はすっかりミハイルと一番の仲良しになっていた。
少しずつ、少しずつミハイルは笑顔を取り戻していった。
「大丈夫! 大丈夫じゃよ! ミハイル! そなたは、もう大丈夫じゃ……!」
「はい……! お師匠様……!」
「明るいほう、明るいほうを向け……! 天国からそなたを見守っている家族も、きっとお前の笑顔を喜んでおるぞ!」
「はい……!」
ミハイルは、笑顔で応えた。
ミハイルは、光に向かって歩んでいく。
もう、心を占めているのは「復讐」ではなくなっていた。
ミハイルは、血のつながった本当の家族を大切に胸に抱きしめていた。そして、新しい家族を――猫を含め――、しっかりと心の真ん中に据え、『今』を笑顔で生きていくことに決めた。
朝日が差し込んできた。
「あっ! あれ! キースとカイさんじゃないですか?」
こちらに向かって歩いてくるキースとカイの姿が見えた。
「キース! カイさん! おはようございます!」
ミハイルは元気よくキースとカイに向かって手を振った。
「ほんとだ。『探検』から帰ってきたのだな」
宗徳の顔にも、笑顔がこぼれる。
「そうですね! 『探検』から帰ってきたんですね!」
「探検」という表現に改めてミハイルも笑う。
「僕が、宗徳さんや皆と出会えたのが、『今』の僕で本当によかったと思います」
ミハイルが、呟いた。柔らかな笑顔で。
「そうだな――。俺も出会えたのが『今』の俺で本当によかったと思う――」
宗徳も、噛みしめるように呟く。
でも、宗徳は思う。
たとえ、「昔」にミハイル殿と出会えたとしても、きっとすぐに、ミハイル殿も俺も、それぞれ「今」の自分、「自分らしい自分」になれたと思うぞ――。
きっと、すぐにお互い笑顔になれる、そう思えた。
皆、「今」を生きていた。宗徳も、ミハイルも、キースも、カイも。
アーデルハイトも、妖精のユリエも。
ただ、女性陣は、「今」まだ熟睡中である。




