特別な日の、贈り物
ある宿屋で、一人夕食をとる美しい青年――。青年の名は、クラウス。
この瞬間、クラウスの心は、二つのことに占められていた。
一つは、「今日という日」について。
アーデルハイト……。
アーデルハイトの誕生日だった。クラウスは、深いため息をつく。
とうに忘れたはずなのに、もうなんの関り合いもないはずなのに……。奇妙なものだ。記憶は、この日付の意味することを忘れてはくれないらしい――。
これはただ、覚えていることを機械的に思い出しているだけだ、とクラウスは考える。
もう一つのこと。それは、現在利用しているこの宿についてだった。
この宿……。古い魔法を感じる――。
古い魔法、しかもそれは――、「呪い」だ、とクラウスは感じていた。
子どもの頃なら関心を持っただろうが、今のクラウスにとってはどうでもいいことのはずだった。自分の力なら、簡単に解くことが可能だろうし、目新しい発見もないように思える。だが、なぜか宿屋に漂う黒い気配、その「呪い」とやらが妙に気になっていた。
「……急にこんなことを尋ねるのは、変だと思われるでしょうが……」
クラウスは、食後のコーヒーを運んで来た宿屋の主人に、声を掛けてみた。
「お客様、なんでございましょう?」
「ご主人は、ご存知ですか? この宿には、魔法の気配を感じます。それも、よくない類の」
主人の顔色が変わった。持っていた盆を取り落としそうになる。
「やはり、ご存知ですね」
「ど、どうしてそれを……!」
「私は、魔法使いです」
そう言ってから、クラウスは少し考える。コーヒーのよい香り。丁寧に淹れられたものだとわかる。この、悪意に満ちた黒い気配とは全く正反対の、あたたかい、コーヒーの黒――。
クラウスは、意を決した。
「よろしければ、僕に詳しく話してくださいませんか?」
「え……」
「大変美味しい食事でした。僕に、少しばかり恩返しをさせてください」
主人は、クラウスに宿屋の住居部分の一室を案内した。
部屋の中には、いたるところにたくさんの白い百合が飾られていた。そして、部屋の隅のベッドに女性が眠っているようだった。百合の花が美しく咲き誇り、むせかえるような芳香を放っているというのに、部屋の中の空気はどす黒く淀んでいた。
「……娘です」
クラウスは、息をのんだ。
アーデルハイト……!
ベッドに横たわっていたのは、アーデルハイトに瓜二つの若い女性だった。
「これは……!」
「ずっと、眠り続けているのです。邪悪な魔法使いの呪いのせいで……」
「邪悪な魔法使い……?」
「はい……。三十年ほど前、この宿にふらりと現れた旅の魔法使いです。その男は、娘を一目で気に入り……、娘を連れ去ろうとしたのです。娘が抵抗すると、男は腹いせに呪いをかけたのです」
「永遠に眠り続ける呪いか……」
「有名な祈祷師にお願いしたのですが、呪いは解けませんでした。百合の花は、その強い香りが娘の生命の糧となるそうです。以来、ずっと百合の花を欠かさず……。しかし、娘は目覚めることなくずっとあのときのまま――」
クラウスは、娘の額のあたりに手をかざした。そして、空に文字を描くようにゆっくりと指を動かす。
「……古き邪悪な魔法よ。今、我は解き放つ。漆黒の扉より地の底へ帰れ……!」
ゴウッ!
クラウスが叫んだ次の瞬間、娘の周りから黒い渦が現れる。強い風に巻かれるように、黒い渦はうねりながら回転し、空中に突如現れた扉に吸い込まれていった。
「ああっ……!」
宿屋の主人は、目の前の光景に驚き腰を抜かしてしまった。
「……もう、大丈夫ですよ」
クラウスは、娘の頬に手を当てた。青白かった娘の頬に、ほのかに赤みがさしてきた。
娘は、ゆっくりとまぶたを開けた。
青い、瞳……!
娘の瞳は、大空のような青い瞳だった。
エメラルドグリーンの瞳ではなかったか……。
アーデルハイトではないことは、初めからわかっていた。それなのに、クラウスは少し落胆している自分に戸惑う。
「本当に、ありがとうございました……! あなた様のような、素晴らしい、よい魔法使いのかたが来てくださるなんて……!」
宿屋の主人は涙を流しながら何度もクラウスに頭を下げた。
「いえ……。僕は、よい魔法使いではありませんよ。最悪の……、魔法使いです」
「え……?」
「ただ……。誰かになにか、贈り物をしてみたくなったのです。なぜなら、今日は、特別な日ですから――」
クラウスは、微笑んだ。
氷のような微笑み。しかし、どこか、遠い日々を懐かしむような、二度と訪れることのない陽だまりの場所を求めるような、そんな笑顔だった。
静かに舞い降りる雪――、抱き合うキースとアーデルハイト。
――ん!? こ、これはもしかして……!
キースは思った。
――いける……! いけるのではないか!? これは……!
キースの胸は、緊張と期待で高鳴っていた。
――これは、これは……! ついに来た……! アーデルハイトとの初チューの、チャアアアアアンス! 千載一遇のチャンスなのではないのか!?
「誕生日という一大イベントに乗じて勢いで……」という、まさにキースの想像通りの展開になっていた。
――ここは、自然に! ナチュラルに! 年上の男の余裕を感じさせつつ、情熱的に……!
どきんどきん……。
――俺は、出来る……! アーデルハイトとの記念すべき初キスを、スマートにスペシャルにファビュラスに、成し遂げるのだーっ!
キースの心の中で、ファンファーレが鳴り響いたような気がした。
――イケイケどんどん! 前進あるのみ!
キースが、アーデルハイトの唇に顔を近づけようとした、まさにそのとき――。
チュ。
――ん!?
「キース。好き……」
アーデルハイトのほうから、唇を重ねてきた。
「え……」
一瞬、呆然とするキース。頬を染め、恥じらいながら微笑むアーデルハイト。
――また先手を打たれたーっ!
格闘技じゃあるまいに、またしても衝撃を受けるキース。
キースとの初めてのキスに、満足そうなアーデルハイト。キースの胸に頬を寄せ、うっとりとした表情で身をゆだねる。
――しまった……! 俺としたことが、唇を奪われてしまうなんて……!
奪われるもなにもないと思うが、なぜか悔しがるキース。
キースは首を振り、思い直した。
――一番が駄目なら、二番があるじゃないか! アーデルハイトは今油断している! よし、この隙に乗じて、今度は俺のほうから……!
男らしくリードするんだと心に決め、再びアーデルハイトの唇を狙う。「狙う」、という表現も妙だが。
「ん? キース?」
チュ。
背伸びをして、またアーデルハイトのほうからキースに口づけをした。
――またまた先手を打たれたーっ! また俺の負けか……!
勝ち負けではないはずである。
「……ふふ。二回もキスしちゃったね!」
満面の笑顔のアーデルハイト。
「う、うん……」
微妙な笑顔を浮かべるキース。
「じゃっ! そろそろ宿屋に戻ろっか! 寒くなってきたしね!」
――あ……、三度目の、正直……。
アーデルハイトは、キースの腕を取り元気よく歩き始めてしまった。
「ほんとに、記念すべき素敵な誕生日になったね!」
「お、おう……」
――もう一回、俺のほうから挑むってのも、変かな……。
「挑む」というのもちょっと変である。
「あっ! アーデルハイト! あれなんだっ!」
遠くを指差し、突然叫ぶキース。
「えっ? なに? どうしたの?」
アーデルハイトがキースの指差すほうを見る。
――よし! アーデルハイト、油断したな! 今の隙にキスッ! 俺からのキス! アーデルハイトの肩をつかんで振り向かせ、そして情熱的に唇を……!
「なあんだ。あれは、巨大カメムシだよ」
ぶーん。
一メートルはあろうかという巨大なカメムシが、雪の降る中飛んでいた。
――思ったより振り向くの早い! アーデルハイト!
タイミングを逸した。三度目のキス、キースからの初キスは、不発に終わった。
嬉しいはずの初めてのキス。そして二度目のキス。
キースはすっかり主導権を奪われ、ちょっぴり胸中フクザツである。
それにしても、体長一メートルのカメムシ。恐るべし。
宿に戻ったアーデルハイト。先に部屋に入っていた妖精のユリエが、笑顔で迎えてくれた。
「おかえり! アーデルハイト! これ、みんなからのプレゼントだよー!」
「わあ……! ありがとう……! みんなでプレゼントを買ってくれてたんだ……!」
アーデルハイトは、皆からの心尽くしのプレゼントを受け取った。
「あっ……!」
アーデルハイトが綺麗にラッピングをされた包みを開けると、中には優しい色合いの、天然石のブレスレットが入っていた。
「これはお守りにもなるんだって! ミハイルが見立ててくれたんだよ! このブレス、私もとってもいい力を感じるよ!」
「ユリエちゃん……! 本当にありがとう……!」
「あっ! アーデルハイト! キースのプレゼント、とっても素敵だね!」
アーデルハイトの薬指に光る「封印の指輪」を見て、ユリエは、はちきれんばかりの笑顔になった。
「アーデルハイト! ほんとに、よかったね!」
なんだかとっても嬉しくなったユリエは、アーデルハイトに抱きついた。
「うん……!」
アーデルハイトもユリエも、きらきらとした笑顔。
「素敵な誕生日を、ありがとう……!」
今までで一番素晴らしい誕生日だとアーデルハイトは思った。
窓の外はしんしんと降り続ける雪。窓に顔を寄せると、光る雪の結晶が見えた。しかし、美しい小さな雪の一粒は、はかなくすぐに消えてしまった。
ふと、アーデルハイトは思い出す。
クラウス――。
お互いの誕生日を、必ず一緒に祝った。
今、どこにいるのだろう――。あなたの心の氷が、解ける日が来るといいのに……。
心をあたためる、そんな魔法があればいい――。
「アーデルハイト! ロマンチックな雪の夜だねーっ! 毎日同じような雪の日も、なんだか今日は特別綺麗に見えちゃうねーっ!」
妖精のユリエがアーデルハイトの肩にちょこんと座り、甘えるように小さな頬を寄せた。
違う……! 心をあたためるのは、魔法なんかじゃない、誰かのあたたかい心だ――!
アーデルハイトは、ユリエと一緒に窓の外の雪を眺めた。クラウスの心に、ほんの少しでもあたたかな光が届くように祈りながら――。




