赤い野いちご、赤いドレス
「俺のせいで出発が延びてしまって、すみません……」
ベッドの中、カイが心からすまなそうに謝る。
白のシーツに、夕日のオレンジ色が静かに躍っていた。
「なに言ってんだよ! 謝ることなんてねーよ! それより、夕飯まで寝ろ! 具合悪いときは寝るのが一番だ! 寝ろ! はよ、寝ろ!」
キースは笑いながらカイの柔らかな黒髪を撫で回し、くしゃくしゃにする。
カイの熱が下がったので、キースも安心していた。
「まだ頭くらくらするんですけど!」
頭を揺らされ、カイがたまらず苦情を述べる。
「ほら! まだちゃんと回復してねーじゃん! 大人しく寝ろ!」
「……はい」
カイは素直に横になった。薬となる雪イルカのフンを食べたとはいえ、すぐに体力は回復しない。
カイの体内を燃えるような魔力が、ゆっくりとすみずみまで駆け巡る。
「……明日の朝には出発出来ると思います」
「カイさん。無理はいけませんよ。明日になってから様子を見て、それから考えましょう。宿屋の女将さんも、何泊延長しても構わないっておっしゃってくださいましたし、ちょっとゆっくりしていきましょう」
ミハイルが、カイに明るく微笑みかけた。
「ほんと……、すみません……」
「カイ殿の熱が下がって本当によかった。刺されたところ、痛みや痒みはないか? 辛いこと、気になることがあったら遠慮せずなんでも言ってくれ」
宗徳は、カイの虫に刺された腕を見た。赤くなっているが、皮膚の腫れや熱は治まっているようだった。
「はい……。おかげ様で、もう、大丈夫みたいです……。本当に、皆さんありがとうございます……」
カイは心配をかけないよう皆に微笑むと、ゆっくり瞳を閉じた。体はだるく、猛烈な眠気に襲われていた。
本当に、みんな、優しいな……。ありがとう……、なんか、嬉しいな……。
カイはすぐ眠ってしまった。
あたたかく柔らかな布団の中に、体が落ちていくような感覚がした。
カイは、どこまでも、どこまでも、落ちていくような気がした。
ああ。俺……、どこに行くんだろう……。
カイは夢を見た。
人間のように夢を見た。
本来、カイは夢を見ない。
しかし、まるで人間のように架空の世界をさまよった。
初めての現象、初めての体験だった。
「カイ! 大丈夫ですか?」
心配そうにカイの手を取ったのは、兄のラーシュだった。
「ラーシュ兄さん……? どうして……?」
夢の中でカイは不思議に思う。どうしてクラウスに囚われているはずのラーシュ兄さんが目の前にいるんだろう、しかも、この映像は過去にも体験したことのない場面――。
「これが、夢というものなんですよ」
そう言ってラーシュは微笑む。そよ風に、ラーシュの青いくせ毛の髪がそよぐ。
「……これが人間たちの言う、夢ってものなんですか」
「はい。ここはカイ、あなたの夢の中、あなたの想像で作られた世界です」
「俺の想像の世界……」
「カイ兄さん!」
後ろから、妹のセシーリアが抱きついてきた。
「セシーリア!」
セシーリアの頬は再会の喜びで上気し、美しい銀の瞳はきらきらと輝いていた。
「カイ兄さん! お元気そうで本当によかった……! ふふ! コンラード兄さんもいらっしゃるんですよ!」
振り向くと、一番上の兄、コンラードが立っていた。コンラードも、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「カイ。久しぶりだな」
「コンラード兄さん! お久しぶりです! ちゃんと、服を着てますね!」
コンラードは、普通に服を着ていたので、カイは安堵した。ただ、服を着てその場に立っているだけなのに、カイはそれだけで胸をなで下ろす。
「これで、きょうだいみんな揃いましたね」
ラーシュが優しく笑った。
「はい……! 夢って、いいですね!」
カイも嬉しくなっていた。
草の上に座り、皆で色々な話をした。カイも、今までの旅の話を報告する。
青い空を白い雲がゆっくり流れる。野の花のよい香りが漂う。緑の葉の合間に見える赤い色は、野イチゴの実だろうか。
きょうだいは、笑顔を交し合いながら穏やかな時間を過ごしていた。
「……そろそろ、カイは帰らなくちゃな」
コンラードが呟く。
「え……」
「そうですね。ご主人がお待ちですよ」
ラーシュが、カイの黒い瞳を見つめながら笑う。
「他の皆さんも、カイ兄さんのこと、お待ちかねみたいですよ」
セシーリアは、私はもっとカイ兄さんたちと一緒にいたいですけれど、とちょっぴり寂しそうな笑顔で付け足した。
「コンラード兄さん、ラーシュ兄さん、セシーリア……。また、会えますか……?」
「いつかちゃんと、現実で会えるよ」
そうか……。これは、俺の夢なんだもんな……。
「本当に、現実に会えますか……?」
「はい! その日を楽しみに待ってますよ……!」
「ラーシュ兄さん……! どうか、ご無事で……!」
「カイも、どうか元気で……!」
カイは、涙を流していた。
胸が締め付けられていた。
痛い……、痛いよ……、俺の胸が……、心が……、苦しい……。
ラーシュ兄さん……! 早くあなたを助けてあげたい……!
あなたのご主人こそ、きっとあなたとの再会を待ちわびている……!
カイの頬を涙が伝う。
そっと、頬の涙を誰かが拭ってくれた。
「大丈夫か……、カイ……」
「……キース……」
キースだった。
コチコチコチ……。
時計の針が時を刻む。カイはゆっくりと頭を回し、時計を見た。眠りについてから、一時間程しか経っていなかった。
最初、カイはどこまでが夢でどこからが現実かわからなかった。
心配そうに自分の顔を覗き込むキースは、現実のキースなんだとようやく理解した。
「……夢を見てました」
「そうか……」
「ラーシュ兄さんやコンラード兄さん、セシーリアと会って話をしていました」
「そうか……」
キースは黙ってカイの頭を撫でた。よしよし、と撫でた。
「変ですよね……。俺が人間みたいに夢を見るなんて」
「……変じゃねーよ」
キースは優しい微笑みを向けた。その微笑み、まるでラーシュ兄さんみたいだ、とカイは思った。
「……ずっと、傍にいてくれたんですか……?」
「まあな。ミハイルと宗徳もいたぞ。ただ、二人はさっき用足しに出かけたけど」
「キース」
「ん?」
「……ありがとうございます」
「まったく、おめーは! 何度礼を言えば気が済むんだ!」
腕組みをし、ちょっと呆れたようにキースは笑う。
「俺の帰りを待っててくれて、ありがとうございます」
「ん? 『帰り』……?」
「夢で、コンラード兄さんたちに、ご主人が待ってるから、早く帰れって言われました」
思い出す、野の花の香り、野イチゴの赤。
「……そうか」
カイの涙は、もう乾いていた。
「……お帰り。カイ……!」
「ただいま……! キース」
カイは体を起こしてみた。ふらつきは、もう感じなかった。
「もう、大丈夫です……!」
「そうか! ほんとに、お帰り! カイ……!」
「はい! ほんとのただいま、です! キース!」
カイとキースは顔を見合わせ、いたずらっぼくニッと笑い合い、そして元気にハイタッチをした。
ただいま……! 俺の本当の居場所……!
漆黒の闇の中、月だけがぼんやりと浮かんでいた。
白いシーツを、月明かりが照らす。
ベッドに眠る男と、静かに身を起こす女。
「……おやすみなさいませ。クラウス様……。名残惜しゅうございますが、皆が心配するのでそろそろ私は帰ります……」
眠り続けるクラウスを起こさぬよう、ビネイアは静かにベッドから抜け出す。
「クラウス様……。また参ります……」
ビネイアは、闇に溶け込むように魔界に帰って行った。
クラウスは、夢を見ていた。
いつもの夢だった。
一つの墓の前にクラウスはいた。
母の、墓。
クラウスは、夢の中、幼い子供になっていた。
クラウスは、母の墓をただ見つめ続けていた。
「クラウス。新しい、お母さんだよ」
父。ガラス玉のような瞳をした、父。
隣には、派手な服装をした若い女。墓地にはそぐわない、真紅のドレス。
女には、顔がない。
「よろしくね。クラウス」
顔のない女が呟く。
「クラウス。家に、帰るぞ」
父はクラウスに背を向けた。クラウスの手を取ろうともしない。
クラウスは、父の背を見ていた。
遠ざかる父。顔のない女も父の横にいるようだが、クラウスの視界には入らない。
あんな女は、知らない――。
父の背。遠ざかっていくが、なぜかクラウスには巨大な壁のように見える。
幼いクラウスは、父に向かって手を伸ばす。
父の巨大な背は、大きく近く見えるが、実際は遠いようで届かない。
どんなに手を伸ばしても、父の背に手は届かない。
父さん――。
ガラス玉のような瞳。父さんは、僕や僕の本当の母さんを一度でも振り返って見たことがあるのだろうか。
あの瞳は、なにを映していたのだろうか……?
父さん――!
幼いクラウスは、父からの唯一のプレゼント、「初級魔法大全」をしっかりと胸に抱きしめていた。
「…………!」
クラウスは、そこで目が覚めた。
全身、びっしょりと汗をかいていた。
「……また、あの夢か……」
うんざりしたようにクラウスは呟く。暗い部屋の中、ふと横を見ると、ベッドの隣は空であることに気付く。少しへこんだ枕や、シーツに刻まれたしわが、ついさっきまでビネイアがいたことを物語っていた。
クラウスは、深いため息をつく。
喉が渇いていた。乾いていたのは、喉ではないのかもしれない。クラウスは、自分の胸に手を当てた。なぜか。なぜかわからないが、胸に穴が開いている、そんなばかげたことを考え、ふと確かめてみたのだった。
ふたたび、クラウスはため息をつく。
たとえビネイアが隣にいても、クラウスはそうしただろう。
もし、アーデルハイトが隣にいたら……?
クラウスは、首を振った。くだらない、くだらない想像だ、と思った。
気分を変えるように、机の傍へ歩いていく。
机の上には、青い杯。
「……ラーシュ。『受け継ぐ者』とは、いったいどんな人間なのだろうか……」
ラーシュがなにも答えるわけがないことを、クラウスは知っている。
青く輝く杯の、滑らかな曲線をクラウスはそっと撫でた。
「……きっと、僕とはなにもかもが違う人間なのだろうな……」
恵まれた家庭。恵まれた環境。常に愛に包まれ笑顔に囲まれた、天から愛されるような人物――。
クラウスは、そんな人間を想像した。クラウスは、自分でも気づかずふたたび自分の胸に手を当てていた。
胸に穴が、開いている。
いつからそうなのだろう。
母が死んでからなのだろうか。
それとも、父と母の間に生まれ落ちたときから、すでにそうなのだろうか。
ぽっかりと開いた、黒い穴。
喉が渇く。僕は、いつもからからなんだ。
穴からすべてがこぼれ落ちていく。
この穴を埋めることの出来るものは、なんなのか。
僕が世界を、欲しい物をすべて手にした瞬間、この穴は消えるのだろうか――。
クラウスは、暗闇の中、ただ自分の胸に手を当て立ち尽くしていた――。




