第7話 アップルパイ
時は遡る。
ここは、北の地、「北の神殿」と呼ばれるところ。
「うわあ! 北の巫女様、これ、ほんと美味しい!」
妖精の女の子、ユリエは瞳をきらきらと輝かせた。
「ユリエちゃん。いっぱい食べてね。村の皆さんからリンゴをたくさんいただいちゃったから、焼いてもらったのよ」
にっこりと優しい笑みを浮かべる、純白の装束姿の女性。
豊かな金色の巻き毛、星空のような青い瞳をした、十代後半とおぼしき、「北の巫女」と呼ばれる存在だった。
「アップルパイ、美味しいーっ!」
ユリエは、一口頬張るごとに笑顔を浮かべる。
青い空に、白い雲が浮かんでいた。
エースは、耳に届いてきたユリエと北の巫女の会話に微笑みつつ、神殿の外廊下に佇み、空を見上げていた。
北の巫女が、エースの隣に並ぶ。
「北の巫女様……。こんな平和な時間が永遠に続けばいいのに――」
流れる雲が、太陽を覆い隠す。
北の巫女の穏やかな微笑みに、憂いがよぎる。
「強い光の誕生の裏には、暗い影が生まれるもの――。そして、人の欲望は果てしない――。いつか、均衡を乱すその日は来る――。新たなる災厄は、人によってもたらされる――」
キースは、北の巫女をまっすぐ見つめた。
「でも、そのとき、きっと俺の子孫の誰かが立ち上がってくれるんですよね?」
雲はゆっくりと流れ、ふたたび太陽が顔を出す。
あたたかな日差しが、地上に降り注ぐ。
「ええ。光ある未来を信じましょう――」
二人の背にかけられる、元気いっぱいの声。
「巫女様―! エースー! アップルパイ、全部食べちゃうよー!」
巨大な水晶が光を放つ洞窟。そこは、不思議なエネルギーで満ちていた。
キースは、曾祖父エースからの手紙を手にしていた。
妖精のユリエは、小さな拳をぎゅっと握りしめた。
「カイは、まだ目覚めてなかったんだ――。でも、今はあれからずいぶん経つし、ここにいたら絶対元気になる! だから、絶対大丈夫だわ!」
まるで自分に言い聞かせるように話す。ユリエは、カイという人物の目覚めを、心待ちにしているようだった。
「カイって、いったい誰、何者なんだ?」
キースがユリエに尋ねた。
曾祖父エースの手紙に記されていたカイという名。生きているとしたら、相当な年齢のはずである。もしかしたら、人ではなく妖精のユリエやペガサスのルークのように不思議な存在なのかもしれない、とキースは想像する。
ひいじーさんは、俺とカイが出会い、そしてカイは俺のよい相棒になると確信していた。それも手紙に書いてあった「北の巫女」とやらの予言なのだろうか?
「カイは、ずっと、そして今もキースと一緒にいるわよ――。眠っているけど」
ユリエが、にっこりと微笑んだ。
「え!?」
キースの腰の剣が、青く光っていた。
「まさか、カイって――」
アーデルハイトが呟く。
「アーデルハイトはわかったのね。そうよ。カイは――、そのキースの剣のことよ」
思いがけないユリエの言葉に、キースは仰天した。
「えーっ!? カイって、この、ひいじーさんの剣のことなのかーっ!?」
ずっと腰に差していた剣。相棒には違いないが、あまりに思いがけなさ過ぎて、キースは、混乱する。
でも、でも、ひいじーさんの手紙にはカイのこと「男」って――。
キースの動揺もおかまいなしに、ユリエが言葉を続ける。
「……あの戦いで、カイはすっかり消耗しちゃったの。だから、ずうっと眠り続けているの。でも、長い時が経ち、そしてここの水晶の力を吸収している今、きっとまた前のように人の姿になることができるわ」
え、人の、姿……?
「人の姿!? この剣――、カイは、人みたいになれるっていうのか!?」
「うん。人の姿を形作れるの。姿だけじゃない、ちゃんと意思を持ってるわ」
アーデルハイトは、キースと違って驚きもせず、むしろ納得しているようだった。
「そうだったの――。どうりで、魔力が入ってるっていうより、剣自体が魔力を持ってる、生きているって、そう感じたわけね……」
「えっ!? アーデルハイトはそんなふうに感じてたんだ――」
キースは以前呟いたアーデルハイトの言葉の意味を、ようやく理解した。
そのときだった。
ぱあっ!
キースの剣が、まばゆいばかりの大きな光を放つ。
え……!?
次の瞬間、キースの腰にあったはずの剣が消えていた。
剣が、消えた……!
驚くキースの目の前に、小柄な青年が現れていた。
え!? 人……!?
「カイ……!」
ユリエが叫んだ。ユリエの全身が、喜びで震えていた。
え、てゆーことは、て、ゆーことは!?
青年は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……本当にお久しぶりですね。ユリエ。すっかり大きくなりましたね。見違えました」
カイと呼ばれた青年が、穏やかに微笑む。
「この青年が、カイ! ひいじーさんの、剣……!」
くすり、とカイは笑った。
「ひいおじいさんの剣、ではありませんよ。俺は、もう、あなたの物です。あなたが俺を見つけてくれたそのときから、ずっと『あなたの剣』です」
あなたの、物!?
「あなたの物―っ!? な、なんか野郎に言われると変な感じだなあ!? まあ美形の兄ちゃんだけど!」
カイは、背丈は低いが眉目秀麗、黒い髪、黒い瞳のとても美しい青年だった。大ぶりの剣の姿のときとはまったく異なる華奢な印象である。
「…………」
カイは黙ってしまった。
「違う、違うよ! 俺はそっちの趣味はないって! だって、俺、全力で女好きだもん!」
キースはつい勢いで、猛烈に「女好き宣言」をしてしまった。女性陣はドン引きである。
「…………」
カイは頬を赤くし、うつむいてしまった。
「ああっ! 違うんだ! なんだこの冷ややかな空気は! 洞窟だからか! いや違う! これが現実か! 誤解しないでくれ! 俺は女たらしとかそういうんじゃなくて、女性に対して真面目で誠実なんだ! ただ俺は、ほんのりエロいだけなんだ!」
「『ほんのりエロい』ってなんなのよ」
呆れるアーデルハイト。
カイが、ちらりとキースを見上げる。頬は真っ赤なままだ。
「……眠っていたとはいえ、意識はちゃんと起きていました。あなたのこと、これまでのことはすべて知っています」
「あ、そうなの?」
「……エースさんのときにもお願いしたのですが」
「ん?」
「……俺を使って雑誌の袋とじを開けるのだけは、ちょっと……」
カイは、またうつむいてしまった。
「ご、ごめん! もうしないから! もう絶対カイを変なことに使ったりしないから! 俺は今後、袋とじという袋とじはすべて手で開けます!」
見ない、とは一言も言わない。袋とじがあったら今後も開け続ける気満々だ。
だから手紙に「追伸」って――。
「ひいじーさん……」
会ったこともないひいじいさんと自分が、時代を超えまったく同じことをしていた、キースはなんとなく感慨深くなって遠い目をしていた。
「わけのわからないところで密かに感動しないように」
アーデルハイトが、感動に浸るキースに、チョップをお見舞いした。
「北の巫女とやらの予言って、いったいなんなんだ?」
気を取り直したキースが、ユリエに尋ねる。色々尋ねなければならないことがあったが、おおざっぱなキースは、いきなり無造作に核心を尋ねる。
「んーとね。北の巫女は、未来、すっごい強い悪い人が出てくるから、後世の人頑張れって言っていたの」
ユリエが、とてもざっくりとした話をした。おおざっぱなキースに、ざっくりなユリエ。いい勝負だった。
「うん! 頑張る……って、えっ!?」
ユリエの雑すぎる説明に、思わずキースは聞き返した。
「予言って、そんな感じ!?」
キースは心の中で叫ぶ。
なんか、想像してたのと違うーっ!
カイが、片手を上げた。
「ユリエ……。俺が説明します」
「カイ! 教えてくれ!」
「…………」
「カイ……?」
説明する、と言っていたカイが、なぜか黙ってしまった。
「どうしたの? カイ」
アーデルハイトが、カイの異変に気付いた。
「……眠い……、です」
「ええーっ!? 眠い、ってーっ!?」
キースとアーデルハイトが、同時にツッコむ。説明するって、言ったのに。
「はい……。すみません。ずいぶん久しぶりなもので……。ちょっと……、もう少し、だけ……、休ませてください……」
そういうと、カイは倒れ込んだ。思わずキースがカイの体を支える。次の瞬間、カイは剣の姿に戻っていた。キースの手には、なじみの剣の感触――。
「あらららら……。剣に戻っちゃった。大丈夫……、なのかな? カイ」
「うん! カイはもう大丈夫だよ! ちょっと休めばまた元気になるよ!」
ユリエが元気に答えた。無責任すぎるほどに、元気な声。
キースは、剣に戻ったカイを見つめる。
カイ……。ただの剣じゃなかったんだ。ずっと、俺と一緒にいてくれたんだ――。なんか、話ができて嬉しいな! なるほど、「よい相棒」か……。
キースの顔に、笑みが広がる。
俺の、相棒!
キースは、そっと剣を撫でた。
「カイ。今までありがとう。これからもよろしくな!」
キースに返事をするように、カイがほんの少し光を放った。
「ユリエちゃん、予言について、私たちにもっと教えて」
アーデルハイトが、ユリエに優しく問いかけた。カイのことも気になるが、予言について早く知りたい、そんな様子だった。
「予言の悪い人って、どんな人なの?」
笑顔でユリエに尋ねるアーデルハイト。しかし、どこかその笑顔は硬く、なぜか緊張しているように見えた。
「魔法使いなの。すごく強い魔法使いが、ノースカンザーランドの魔法の杖を狙ってやってくるんだって」
「えっ……!」
アーデルハイトの顔色が変わった。
「アーデルハイト? どうした?」
キースが、アーデルハイトの顔を覗き込む。
「す……、すごく強い魔法使いって……。ノースカンザーランドの魔法の杖って……」
アーデルハイトの体が、どういうわけか、かすかに震えていた。
キースは、アーデルハイトの急な心の変化を案じつつ、尋ねずにはいられなかった。
「どうしたんだ? なにか心当たりでも……?」
「ユリエちゃん……。詳しく教えて……」
少しかすれた、アーデルハイトの声。なにかにおびえたような、瞳。
ユリエはうなずく。
「うん! わかった! 詳しく話すね! あのね、北の巫女はね、アーデルハイトみたいに美人なんだ!」
「ん?」
キースの思考が、一瞬止まる。
「北の巫女は果物が大好きなんだよ! 特にリンゴが大好きなんだ。北の神殿でもらったアップルパイ、美味しかったなあー! 懐かしいなあー」
んん?
固まるキースとアーデルハイトをよそに、ユリエは楽しそうに話す。
「アップルパイをみんなで食べたんだ。あんまり美味しくて、エースはおかわりしてたよ!」
んんん?
キースは、深く息を吸い、そして吐き出す。それから、ゆっくりと、ユリエに尋ねる。
「ユリエ……。アップルパイの話はいいから、予言についてもっと詳しく教えてくれ」
「え? アップルパイの話はいいの?」
ユリエが意外、というような声を上げる。
「うん。アップルパイの話はいいよ」
「アップルパイ、すごい美味しいんだよ」
「ユリエはアップルパイが大好きなんだね」
「うん! 私はアップルパイが大好きよ!」
「そうか。アップルパイの話はおいおい聴くよ。だから予言について詳しく……」
「アップルパイ……。キースは食べたことあるの?」
「ないよ。アップルパイは」
「そう……」
ユリエが少し悲しそうな顔をした。
「アップルパイ……」
「予言について……」
「…………」
「…………」
んんんん。
キースは、なにかをあきらめたように、そっとため息をついた。
「……アップルパイの話、教えて」
「キース!」
アーデルハイトが思わず声を上げた。でも、アーデルハイトもユリエの楽しそうな顔を見ていたら、なんだかつられて笑顔になってしまっているようだった。
「アップルパイについて、詳しく教えるね!」
ユリエの顔が明るく輝いた。
アップルパイの話は、それから一時間ほど続いた。
「なんか俺たち……。アップルパイについて異様に詳しくなってしまったな……」
「ええ……。アップルパイについてだけは、よーくわかったわ……」
キースとアーデルハイトは、アップルパイレベルが百レベル上がった気がした――。なんだろう、「アップルパイレベル」って――。
カイは眠りの中で、今は亡き、かつての自分の主人に語りかけていた。
「エースさん。彼は、あなたが思い描いていた以上の素晴らしい勇者ですよ。彼にお仕えできること、誇りに思います。あなたの望んでいた未来を、きっと彼は創り出してくれるはずです――」
それから、カイは遠いあの日のことを思い出していた――。戦いの後、帰国の途に就く前、すっかり消耗して自分は眠っていたけれど、覚えている――。神殿中に満ちるアップルパイの焼けるよい香り、あたたかい日差し、皆の笑い声――。
あの穏やかに流れる豊かなひとときを――。