第34話 台所で迎えるひとは――。
見慣れた台所の入り口に、立っていた。
あれ。
アーデルハイトは、ぼんやりと台所を眺める。
家族の歴史を刻み続ける白壁を、差し込む陽の光が優しく照らしていた。
ことことこと。
ハーブや野菜の香りが漂う。大きな鍋に、誰かがスープを煮込んでいるようだ。
姉さんだ。
後ろ姿でわかる。ちょっと懐かしい光景、と思った。
「姉さん……」
呼び掛けてから、戸惑う。
あれ? どうして結婚して家を出たはずの姉さんが……? それに、私、たしか――。旅に出ていたんじゃなかったっけ――。
「姉さん。どうしたの? 今晩はごちそうだね」
疑問がわいていたが、アーデルハイトの口をついて出たのは、なぜかごく自然な普通の会話。
フライパンや鍋、ボウルの中には、料理上手の姉がこしらえた手の込んだ出来立ての料理が、皿に盛りつけられるのを待っている。
振り返った姉は、優しく微笑んでいた。
「今日は結婚記念日だから、ちょっと頑張っちゃった」
ふうん。そうか。お義兄さんの好物ばかりだもんね。
そう思いながらアーデルハイトは、ぼんやりとどうして今、自分が姉と台所にいるのか考える。
ああ。そうか。これは夢なんだ。
やっと気が付いた。
柔らかなオレンジの陽光。アーデルハイトは、これは夕がたの設定かな、なんてことを思う。
「姉さんの料理は、ほんとおいしいもんね。お店ができるよ」
「アデール。あなたもそのうち、大切な人のためにご馳走を作るようになるわよ」
姉は、アーデルハイトのことを「アデール」と呼んでいた。小さなころから、それはずっと変わらない。
「私は、たいしたもの作れないしなあ」
アーデルハイトは肩をすくめる。料理の腕前は、まあまあといったところだった。
「彼は、どんな料理が好きなのかしらね」
彼……? 彼って、誰のこと……?
台所の中は、ごちそうの香りでいっぱい。
「ただいまあ」
誰か帰って来た。
あれ……? お義兄さんの声じゃ、ない。
「ほら。『彼』が帰って来たわよ」
姉は、にっこりと微笑んだ。
彼。彼って……?
もちろん、クラウスの声ではない。
「うわー! ご馳走だなあ! ありがとー! お腹すいちったー!」
いつの間にか、姉はいなくなっていた。
そして、なぜか自分が鍋の前にいる。スープを作っているのは、アーデルハイトに変わっていた。
あれ……? 彼って……。
「ごっはんー、ごっはんー!」
キース!?
そこで、目が覚めた。
「おはよー! アーデルハイト!」
妖精のユリエの、元気いっぱいの声が耳に飛び込んできた。
「変な夢……。見ちゃった……」
アーデルハイトは、ゆっくりと上半身を起こしたあと、ぼうっとしたまま呟いた。
「アーデルハイト! 顔が赤いよー?」
「えっ!? そお!?」
アーデルハイトは、金色の長い髪を振り、勢いよくユリエのほうを見る。
くらっ。
あれ? なんか……。
めまいがした。景色が揺らぐ。
「熱、あるんじゃない!?」
ユリエが小さな手のひらを、アーデルハイトのおでこにつける。
「ああっ! 熱いよ! アーデルハイト、熱があるよ!」
「えっ!?」
あれ……。なんか、ほんと、だるいし、寒いし……。気分も、悪い……。
アーデルハイトは、ベッドに倒れ込んだ。
「大変! アーデルハイト!」
「……かぜですね。馴れない長旅で、疲れが出たのでしょう」
宿屋に駆け付けた町医者が、穏やかな声でそう診断した。
「お薬を飲んで、ゆっくり休んでください」
「はい……」
アーデルハイトは、ベッドに腰掛けた状態で、こくり、とうなずいた。
熱があったが、そんなにひどいかぜではないらしかった。しかし、長旅の中の体調不良、無理は禁物である。
町医者の隣にいた宿屋の主人の奥様が、にっこりと微笑んだ。
「よかったですねえ! かぜで済んで。まあ、とはいえ、油断してはだめですよ!」
「すみません……。かぜなんかひいちゃって……」
「うちのことは大丈夫ですよ! 入院するほどではないそうですから、この宿でどうぞ休んでいってください」
とても親切な宿屋だった。この宿での滞在を、自ら勧めてくれた。
「あなたも動くのはお辛いでしょうし、他のお客様にうつる心配もないように、お食事はお部屋にお運びしますね」
「お心遣い本当にありがとうございます。お手数をお掛けしてしまうことになって、本当に申し訳ありません」
「あら! なあに、旅人さんにはよくあることなのよ! あなたは気にしなくっていいから、元気になることだけ考えなさい」
「本当にありがとうございます……」
「お医者様、宿屋さん、本当にありがとうございましたーっ!」
一緒にいたユリエが、勢いよく、ぺこんと頭を下げた。
ユリエからアーデルハイトの容態を聞いたキース、カイ、宗徳、ミハイルは、一様に安堵のため息をついた。
アーデルハイトの体調が整うまで、この宿に滞在できるということも聞き、皆さらに明るい顔になった。
「親切な宿屋さんで、本当によかったですね」
ミハイルの感想に、しみじみとうなずきあった。
「全然……。気が付かなかった……」
ぽつり、とキースは呟く。
枕投げなんて、してる場合じゃなかった……。
キースは、昨晩の騒ぎを悔いていた。
ミハイルと宗徳は、宿屋のご夫婦に改めてお礼を伝えるために部屋を出て、ユリエはアーデルハイトに付き添うため、アーデルハイトの休んでいる部屋に戻った。
カイが、暗い顔のキースを見上げる。
「気付かなくても、仕方ないと思いますよ。ユリエも気付かなかったようですし」
「うん。でも――」
長旅の疲労で、と医者は言っていたらしい。無理をさせてしまったのだろうか。アーデルハイトは、女性だ。頑丈な体の俺とは違う。もっと気を付けるべきだったんじゃ――。
「キースは、大丈夫ですか」
「え」
思いがけないカイの質問に、少しうなだれていた顔を上げる。
「キース。あなたも人間です。自分の体調も、ちゃんと心配してあげてくださいね」
「俺は、この通り元気で――」
枕投げで、はしゃいでいたくらいである、元気いっぱいに違いなかった。しかし、カイは包み込むような笑みを浮かべていた。
「よかった。キース。でもたぶん、ちょうど疲れが出るころなんですよ。休みを入れるべきときだったんですよ」
夕食後、キースたちの部屋にユリエが来た。
「アーデルハイト、ちゃんとごはん全部食べたよー。だいぶ熱も下がったみたい」
ごはんは、おかゆっていうものにしてもらって、量も少なめみたいだったけど、ゆっくりおいしそうに食べてたよ、とユリエは付け足した。ユリエは、ひとことひとこと力を込めて、やたらはきはきと話していた。
「そうか」
キースは、ユリエの全力の詳細報告に、微笑みで返す。ユリエはどうやら、今アーデルハイトの最新情報を知っているのは自分だけ、キースたちが安心するように、なるべく細やかに説明する義務が自分にはある、その責務を全力で果たすのであります、そう決意しているかのようだった。
「キース」
ユリエのまっすぐな瞳が、キースを見つめていた。
「心配でしょ、顔に書いてある」
笑顔を浮かべていたつもりだったが、やはり心配する気持ちが表情に出てしまっていたようだ。
「ちょっとお見舞い、するー? アーデルハイトもキースと早くお話したいだろうし」
「え」
「うん、そうしなよ。アーデルハイトも、きっとみんなが今どうしてるか知りたいはずっ」
キースがみんなの代表ね、とウインクするユリエに促され、アーデルハイトとユリエの滞在する部屋を、キースだけ訪れることになった。
「アーデルハイトー、キースが来てくれたよー。ちょっと今、いいー?」
ユリエがとんとん、と扉をノックする。少しだけ間があってから、
「どうぞ」
と、中からアーデルハイトの声がした。
一歩部屋に入ると、ベッドの上に腰掛けるアーデルハイトの姿があった。
「横になっていなくて、大丈夫か?」
「うん。もうだいぶ落ち着いたから」
アーデルハイトは、自分の髪を撫でるような仕草をしていた。髪が乱れていないかどうか、気になっているようだ。
「……キース」
アーデルハイトの、戸惑いがちな視線。
「ん……?」
アーデルハイトは、意を決したようにキースを見つめた。
「ごめん……。私のせいで、足止めしてしまって……。カイにも――」
「謝る必要なんてない。カイだって、今休みを入れるタイミングだって言ってた。だから、気にしなくて大丈夫だよ」
カイの言葉を急いで伝えた。アーデルハイトが自分自身を責めているのを感じたから。
「……ありがとう」
アーデルハイトの表情が、ゆっくりとほどけていく。
「アーデルハイトは、なにも心配しなくていい。カイのことも、この宿のことも」
「うん……」
「アーデルハイト。こちらこそ、ごめん。全然、気付かなくて――」
アーデルハイトは、少し驚いた顔をした。どうしてキースが謝るのだろう、と思ったようだ。
「疲れるだろうから、じゃあ」
アーデルハイトに背を向け、部屋を出ようとした。
「キース」
後ろから、呼び止めるアーデルハイトの声。
「ありがとう。声が聞けて、よかった」
熱っぽいせいだろうか、アーデルハイトの頬は染まり、瞳は潤んでいた。
「俺も、声を聞けて顔を見れて、安心した」
なんだろう、と思った。
ほんの数時間、離れていただけなのに。すごく久しぶりみたいだ――。
あたたかな思いが、胸に広がる。
にこにこと、キースとアーデルハイトを交互に見つめる、ユリエ。
「じゃあ、おやすみ」
「うん。ごめんね。おやすみ」
アーデルハイトが横になるのを見る前に、キースは部屋を出た。
「キースが来てくれて、よかったね!」
扉の向こう、ユリエの弾む声が聞こえた。
アーデルハイトは、ゆっくりと眠りについた。
懐かしい、自分の家。庭の花々が、そよ風に揺れている。
玄関の扉を、誰かがノックする。
「ほら。アデール! 『彼』が、来たわよ!」
夢の中で、姉さんが笑っていた。




