台所で迎えるひとは――。
アーデルハイトは、家の台所にいた。
ことことこと。
姉が、大きな鍋にスープを煮込んでいる。
「姉さん……」
あれ? どうして結婚した姉さんが……? それに、私、たしか――。旅に出ていたんじゃなかったっけ――。
「姉さん。ご馳走だね」
フライパンや鍋、ボウルの中には、料理上手の姉がこしらえた手の込んだ出来立ての料理が、皿に盛りつけられるのを待っている。
「今日は、私たちの結婚記念日だから、ちょっと頑張っちゃった」
ふうん。そうか。義兄さんの好物ばかりだもんね。
そう思いながら、アーデルハイトはぼんやりとどうして自分が姉と台所にいるか考える。
ああ。そうか。これは夢なんだ。
やっと気が付いた。
家の見慣れた台所の中は、あたたかく明るい日の光に満ちていた。アーデルハイトは、お昼間近の設定かな、なんてことを思う。
「姉さんの料理は、ほんとおいしいもんね。お店ができるよ」
「アデール。あなたも大切な人のためにご馳走を作るようになるわよ」
姉は、アーデルハイトのことを「アデール」と呼んでいた。
「私は、たいしたもの作れないしなあ」
アーデルハイトが肩をすくめる。料理の腕前は、まあまあといったところだった。
「彼は、どんな料理が好きなのかしらね」
彼……? 彼って、誰のこと……?
台所の中は、おいしそうな香りでいっぱい。
「ただいまあ」
誰か帰って来た。
あれ……? 義兄さんの声じゃ、ない。
「ほら。『彼』が帰って来たわよ」
姉は、にっこりと微笑んだ。
彼。彼って……?
もちろん、クラウスの声ではない。
「うわー! ご馳走だなあ! ありがとー! お腹すいちったー!」
いつの間にか、姉はいなくなっていた。
いつの間にか、アーデルハイトが、野菜のたっぷり入ったスープをかき回していた。
あれ……? 彼って……。
「ごっはんー、ごっはんー!」
キース!?
目が覚めた。
「おはよー! アーデルハイト!」
妖精のユリエの元気な声。
「変な夢……。見ちゃった……」
アーデルハイトは、ぼんやりと呟いた。
「アーデルハイト! 顔が赤いよー?」
「えっ!? そお!?」
アーデルハイトは、思わず勢いよくユリエのほうを見た。
くらっ。
あれ? なんか、めまいが……。
「熱、あるんじゃない!?」
ユリエが小さい手をアーデルハイトのおでこにつける。
「ああっ! 熱いよ! アーデルハイト、熱があるよ!」
「えっ!?」
あれ……。なんか、ほんと、だるいし、気分も、悪い……。
アーデルハイトは、ベッドに倒れ込んだ。
「大変! アーデルハイト!」
「……風邪ですね。馴れない長旅で、疲れが出たのでしょう」
宿屋に駆け付けた町医者が、穏やかな声でそう診断した。
「お薬を飲んで、ゆっくり休んでください」
「はい……」
熱があったが、そんなにひどい風邪ではないらしかった。しかし、無理は禁物である。
町医者の隣にいた宿屋の主人の奥様が、にっこりと微笑んだ。
「よかったですねえ! 風邪で済んで! まあ、とはいえ、油断してはだめですよ!」
「すみません……。風邪なんかひいちゃって……」
「うちのことは大丈夫ですよ! 入院するほどではないそうですから、この宿でどうぞ休んでいってください」
親切な宿屋だった。この宿での滞在を、自ら勧めてくれた。
「あなたも動くのはお辛いでしょうし、他のお客様にうつる心配もないように、お食事は部屋にお運びしますね」
「お心遣い本当にありがとうございます。お手数をおかけして、本当に申し訳ありません」
「あら! なあに! 旅人さんにはよくあることなのよ! あなたは気にしなくっていいから、元気になることだけ考えなさい!」
「本当にありがとうございます……」
「お医者様、宿屋さん、本当にありがとうございましたーっ!」
一緒にいたユリエが、勢いよくぺこんと頭を下げた。
「どうだったんですか!?」
廊下で待っていたキースが、部屋から出てきた町医者を見るなりそう尋ねた。
「風邪ですよ。旅の疲れでしょう。ゆっくり休むことです」
「ああ! よかったあー! ありがとうございます!」
キースは心からほっとし、町医者に深々と一礼した。
「遠慮なさらず、この宿で休んでいってくださいね。あなたがたも、お疲れでしょうから、どうぞゆっくりしていってください。なにかありましたら、どうぞお声がけくださいね」
宿屋の奥様が、ほっとした表情の一同を見回し、優しく微笑んだ。
「ありがとうございます!」
キース、カイ、ミハイル、宗徳も深く頭を下げた。ユリエも改めて一礼する。
「親切な宿屋さんで、本当によかったですね」
ミハイルが奥様のうしろ姿を見ながら呟いた。
「ああ。それにしても……。よかったあー」
キースが、長く息を吐きながら廊下に座り込んだ。
「どんな診断か、心配でしたもんね」
カイが優しい眼差しでキースを見る。
「全然……。気が付かなかった……」
キースが、首を左右に振りながら呟く。
「……枕投げなんて、してる場合じゃなかった……」
声も、いつもより低い。心から悔いている声。
えっ……。
一瞬、一同動きが止まった。
「あいつ、具合悪かったなんて、全然……」
キースが、反省してる……!
カイ、ミハイル、宗徳、そしてユリエまで顔を見合わせた。
キースの意外な一面を見た気がした。
誰もアーデルハイトの不調には気が付いていなかった。当の本人さえ、気付いていなかった。気付かないのは無理のないことである。それなのに、キースは、無邪気に遊んでいた昨夜の自分を責めている――。
それだけ深くアーデルハイトさんのことを……。
カイ、ミハイル、宗徳、そしてユリエは、静かにうなづき合った。優しい空気が流れていた。
「……優しいですね」
カイがキースに微笑みかける。
「え……」
キースが顔を上げ、カイを見つめる。
「気付かなくて、当然だと思いますよ」
「でも……。一緒にいたのに全然……」
キースは、まだしょんぼりしていた。
落ち込んでいるキースに、なんとなく付け足したくなって、カイが思わず口を開く。
「……キースでも、反省することあるんですね」
あ、皆が密かに思ってることを言っちゃうんだ、とミハイル、宗徳、ユリエは思った。
「俺が……。反省しない男に見えるのかーっ!」
思わずキースが叫ぶ。
「見えます」
きっぱりとカイが言い切った。
「……反省しない男に見えていたことを、反省する」
キースはまた落ち込んだようだ。
「あはははは!」
カイが思わず吹き出した。
「なんで、そこで爆笑する!?」
「しおらしいとこあるんですね! でも、今は反省する必要ないですよ。キースは、キースらしいのが一番です! あなたが落ち込んでいたら、アーデルハイトさんが逆に心配しちゃいますよ!」
カイは、反省するキースを笑い飛ばした。
カイ。すげえ。
なんとなく、ミハイル、宗徳、ユリエは感心していた。自由すぎる男であるキースに太刀打ちできるのは、唯一この男だけかもしれない――。
あと、アーデルハイトか。
ミハイル、宗徳、ユリエは同じことを思った。
「……アーデルハイトさん、早く元気になるといいですね」
カイが、ゆっくりと呟く。心からの願い。
「うん……」
キースの声に、いつもの元気がない。
「大丈夫ですよ! お医者様からお薬ももらったんですから!」
まだ心配顔のキースに、カイが安心するよう声をかける。
「キース。アーデルハイトとお話したら?」
妖精のユリエが、キースににっこりと微笑んだ。
「う、うん……」
ユリエの言葉に少々キースは迷っているようだった。
「まだアーデルハイト、起きてると思うから、キース、行ってみなよ!」
「今……。俺が行って……、いいのかな」
「いいに決まってるじゃん!」
ユリエは、キースとアーデルハイトが二人きりになるよう、自分も廊下で待っていることにした。
キースは遠慮がちに部屋の扉を開け、アーデルハイトの休むベッドに近づく。
「……アーデルハイト……」
「……キース!」
アーデルハイトはちょっと戸惑う。私、今、髪はぼさぼさだし、顔色も悪いと思うし、どうしよう……!
「……大丈夫か」
キースは、心配そうにアーデルハイトのエメラルドグリーンの美しい瞳を見つめた。
「……うん」
「ごめんな。全然気付かなくて」
「ううん! 私だって気付かなかったもん……!」
どうしよう。顔も洗ってないし、お化粧もしてないし、私、ぜったいかわいくみえない……!
アーデルハイトは布団で顔を隠したい気分だった。
「……ゆっくり、休めよ」
「ごめんね……。私のせいで足止めを……」
「そんなこと考えることねえよ!」
即座にキースが言う。
「……ごめん」
「……じゃあ。ゆっくり眠りなよ」
「……うん」
体がだるい。悪寒がし、心も漠然とした不安に覆われている感じだった。
「……おやすみ。アーデルハイト」
「うん……」
立ち去ろうとするキースに、思わずアーデルハイトが声をかけた。
「……キース」
「ん……?」
キースが、アーデルハイトのほうを振り返る。
「……少し……。手、握ってもらってもいい……?」
アーデルハイトは自分で言って、自分の言葉に驚いていた。
あれ。私、なに言ってるんだろう。
ぎゅ……。
キースは、アーデルハイトの手をそっと握った。
「……ありがとう……」
「……安心して、おやすみ」
キースの微笑み――。アーデルハイトの漠然とした不安がゆっくりと溶けていく――。
「……うん」
キースに風邪、うつしちゃったりしないかなあ。
でも……。まだ、隣にいて……、そばにいて……、ほしい……。
アーデルハイトは、ゆっくりと眠りについた。
「ほら。アデール! 『彼』が、来たわよ!」
夢の中で、姉さんが笑っていた。




