第20話 好きな人の笑顔
朝だというのに、窓のカーテンを閉め切っていた。
部屋の隅の椅子には、長い金の髪の美しい青年が腰掛けていた。
彼の名は、クラウス。
クラウスの背後、薄暗い部屋の中の淡い影、そこに異変が起きる。
影の中。そこからなにかが現れようとしていた。初めは、頭、そして、華奢な肩、続く美しく伸びた脚――。まるでなにかの仕掛けでステージがせりあがり、役者の登場となったかのように、全身があらわになった。
現れたのは、若く妖艶な美女だった。
「クラウス様」
艶のある声、濡れたような黒い髪、漆黒の瞳、そして、褐色の肌をしたその妖しい女性は、惜しげもなく素肌を見せつけるような服装をしている。
「なんだ? ビネイア。朝から現れるとは珍しいな」
「魔族の私だって、朝から活動することはあります。クラウス様にお会いしたくて――」
「ビネイア。ずいぶん嬉しいことを言ってくれるね」
ビネイアと呼ばれた女性は、人間ではなかった。闇深くにある魔界に生まれ、魔界に住む魔族という種族の者だった。
ビネイアは、尋ねる。
「……このまま、放っておかれるのですか?」
「フレデリク先生のことか?」
「いいえ。忌々しい北の巫女の予言の者です」
「ああ」
「私が偵察に行って参りましょうか? それともいっそ捕えてみますか? きっとすぐに探し当ててご覧にいれましょう」
「いや。それには及ばない」
「なぜでしょう?」
「ものには順番というものがある。こちらから動くことはない」
「私はクラウス様のお役に立ちたいのです」
「……ビネイア。君は、本当に美しいな」
「クラウス様……」
ビネイアは微笑んだ。美しいが、ぞっとするような冷たい微笑みだった。
「僕は、君のような宝に出会えて幸せだよ」
クラウスのアイスブルーの瞳はビネイアを映していたが、ただ映像として捉えているだけ、心にはなにも映してはいない――、心は常に虚ろだった。
クラウスは思う。
アーデルハイトも、美しかった。
優秀な魔法使いであり、素晴らしい女性だったとも思う。
しかし――、彼女は普通の人間だ。
人間に過ぎないのだ、と思った。
ビネイアの微笑は、価値あるものだ。
笑顔、そういえば、アーデルハイトの笑顔を最後に見たのは、いつだったろうとクラウスはふと振り返る。彼女の誕生日、あの夜が自分が見た彼女の笑顔の最後だったのかもしれない、と思った。
アーデルハイトの微笑みを、暗闇に灯るあたたかなロウソクの明かりのように一瞬思い出した。しかし、心から締め出すようにクラウスは首を振った。
僕には似つかわしくない。僕に似合うのは、至高の宝石。そして、宝石は、ただひとつ手に入れることが出来ればいい。
それが、アーデルハイトと別れた理由だった。
魔術を極めようとしていたクラウスは、「陽」の魔術ではなく「陰」の魔術に傾倒していった。
闇の世界に深く足を踏み入れていくうち、偶然魔族のビネイアと出会う。そのとき、クラウスは思った。
人間ではない、彼女こそ僕にふさわしい存在――!
そして、アーデルハイトに一方的に別れを告げた。
ずるずると、アーデルハイトと付き合い続けていくという手もあっただろう。しかし、それはクラウスの美学から外れていた。
宝石は、ただひとつあればいい。
ひとつ? いや違う、とクラウスは思う。もうひとつ、クラウスには欲しい物があった。
世界、だ。僕は、世界も欲しい。世界を手にするためなら、どんなことだってしてみせる――!
クラウスは、氷の彫刻のような美しい顔を歪めて笑った。
しかし、クラウス自身気付いていない。アーデルハイトと別れた本当の理由は、美学でもなんでもなかった。
本当は、アーデルハイトに幸せになってほしかったのだ。光の中を歩く彼女と、闇をさまよう自分とのあまりの違いに耐えられなくなっていたのだ。
自分では彼女を幸せには出来ない。
アーデルハイトがこの「僕」に似つかわしくないのではなく、「僕」がアーデルハイトに似つかわしくないのだ、ということを、クラウスも気付かない心の奥深くで感じていた。
眩しい彼女の微笑みが、いつしか苦痛になっていた。
闇こそ自分にふさわしい。
そして、背を向けた。
アーデルハイトとの美しい思い出を、これ以上汚したくない。
そして、心の扉を閉じた。
クラウスは、そういった自分の本当の気持ちに気付いていない。ビネイアの投げ掛けるどこまでも深い漆黒の影に、隠れて見えなくなってしまったのかもしれない。
それとも、単純に自分の弱さを認めたくないからなのかもしれない。
クラウスが無意識に閉じた心の扉は、誰にも知られることもなく闇の奥深くにあった。
「雨、降ってきちゃったね」
急に雨が降ってきた。アーデルハイトは、ドラゴンのゲオルクを下降させた。キースもペガサスのルークを地上へと促す。カイは剣の姿でキースの腰の辺りに収まっており、妖精のユリエはキースの懐の中にいた。
近くの森に降り立つ。目の前に、皆が休める広さの洞窟があった。
「雨が弱まるまで休みましょう」
アーデルハイトが提案した。
「あっ!」
なぜか突然、キースが叫ぶ。
「どうしたの? キース」
「忘れてた……!」
「忘れてた? なにを?」
キースが突然なにかを思い出したらしい。
「今日……、俺の……」
「俺の……?」
俺の、なんだというのだろう。アーデルハイトは首を傾げる。
「俺の誕生日だったあああ!」
キースが叫んだ。
「はあ!?」
アーデルハイトが思わず聞き返す。突然、なにを言い出すんだ、この男は――。
「なんで、今言う!? 当日に、いきなり、しかも洞窟で言われても……!」
プレゼント、用意できないじゃん! とアーデルハイトは思った。
「キース! おめでとー!」
妖精のユリエが満面の笑顔でパチパチと拍手する。
「ありがとう! ユリエ!」
ユリエのまっすぐなお祝いに、キースはさらに笑顔を大きくした。
アーデルハイトは、ハッとした。私もすぐにおめでとうと言えばよかった、わずかに苦い後悔の味がしていた。
私って、なんでこうかわいくできないんだろう――。
「キースはいくつになったのー?」
ユリエが明るく尋ねる。
「二十六歳だよ」
「えっ! 私より二歳も年上……」
なんとなく、アーデルハイトは絶句した。まあ、年下には見えないが、二歳上とも思わなかった。
「……まだまだ若造だな。ふふふ」
急にユリエが低い声で呟く。
「なにそれ。ユリエ。超怖いんだけど」
キースがちょっとおどけつつ、白い歯を見せる。
「私のほうが、百歳くらい年上なんだから!」
えへん! とユリエが精いっぱい胸を張っていた。が、
「……実は、正確には覚えてないけど」
覚えていないらしかった。
「数えるの、大変だもんねえ」
「私、誕生日も忘れちゃった」
「そうか。忘れちゃったか……。そうだ! それならいっそ、ユリエも今日誕生日にしちゃったら?」
「あ! いいねえ! 私もキースと同じ誕生日にするーっ!」
「そんなことでいいの!? 誕生日って!」
アーデルハイトがたまらずツッコミを入れる。
「キース」
繰り広げられる奇妙なやり取りの白い空気をぶち破り、カイがおずおずとキースの前に出た。
「なんだ? カイ」
「誕生日、おめでとうございます」
カイは右手を前に出した。手のひらに、四つ葉の葉っぱ。四つ葉は一般に、幸運の印、とされていた。
「なんだあ!? お前、乙女だなあ!」
キース、無下に一刀両断。
「ちっ! 違いますよ! 毎年キースさんがご家族の前で、プレゼントはなんだとかプレゼントありがとーとか、誕生日に大騒ぎしてたから、俺もいつかなにかあげよーと思ってて、でも俺目覚めたの最近だし、しかも金もないし、剣の姿のときは物も持てないし、俺でもこっそり持ち運べるのはなんかないかなあと思ってて……!」
「で、四つ葉を見つけたから、採っておいてくれたんだ」
「……はい」
カイは顔が真っ赤だった。
「乙女だなあ!」
キースとアーデルハイトとユリエが思わず声を揃えて言った。
「……やっぱり、あげなきゃよかった……」
恥ずかしくなったのか、カイ、ちょっぴり涙目である。
「そんなことねーよ! ありがとーっ! カイ! 嬉しーぜ! なんかいいことありそーな気になるぜ! ちゃんと大切にするからなー!」
キースの急襲、カイをヘッドロックし、髪をわしわしと撫でていた。
「どーゆー感謝の表現なんですかああ!」
たまらず叫ぶカイ。そしてすぐにキースとカイは、にかっと笑い合う。
「ほんと、ありがとな! 誕生日覚えててくれたんだ。その気持ちが嬉しいぜ!」
「記憶力、いいんです。俺、頭いいんです」
「ははは! よく言うよ! どうせ俺のこと大好きで覚えててくれたんだろお!?」
「よく言いますね!」
カイ、負けじと言い返した。
輝く笑顔のキース、カイ、それから一緒になって笑っているユリエを、アーデルハイトは半ば呆然と見ていた。
ユリエちゃん……。カイ……。素直に、全力で祝ってあげてる……。
アーデルハイトは完全に、お祝いを言うタイミングも逸してしまった。
たった一言「おめでとう」なのに、なぜかすんなり出てこない。
でも、でも、せめてお祝いくらい言わなきゃ!
アーデルハイトは意を決した。そして、目を見て、
「ユリエちゃん、お誕生日おめでとう」
言い切った。アーデルハイトが見た「目」は、ユリエのお目目。
「わあい! アーデルハイト! ありがとーっ!」
ああ! 違う! ユリエちゃんじゃなくキースに言うつもりだったのに! ユリエちゃんは高確率で今日が誕生日じゃないだろうに! とアーデルハイトは思いつつ、ユリエのかわいい笑顔を見てなんだか癒される。
「アーデルハイト。俺はぁ?」
キースが寂しそうに言う。絶対わざとだ。「おめでとう、と言ってもらいたいオーラ」を全身から放つ。
「…………」
「無視か!?」
まさかの塩対応! などとキースは叫ぶ。
「……キース。おめでとう」
渋々と、といった体で、いかにも根負けしたようにアーデルハイトは言った。
タイミングの演出、最低だけど……。
ああ、なんでこうなるんだろう、アーデルハイトは内心頭を抱える。
思いと行動が、今ひとつ一致しない、自分のことながらもどかしい。
どうして――。
「ありがとー! アーデルハイト!」
アーデルハイトは、ハッとした。深い森を抜け、突然、広がる色鮮やかな景色を見た、そんな驚きがあった。
目の前のキースは、屈託のない笑みを広げていた。
アーデルハイトのもやもやを、吹き飛ばすほどの――。
好きな人の笑顔。嬉しい……! それだけでなんだか胸がいっぱいだ――。
「あっ! みんな! 見て見て! 虹が出てる!」
洞窟の外に出たユリエが、空を指差す。
「ほんとだー! でっかい虹だー! 実は、俺が生まれた日もでっかい虹が出てたって、俺の親父が言ってたんだよねえ!」
ユリエの声に誘われ、キースも外に出て虹を見上げていた。
キース――。
いつの間に、晴れていたのだろう。アーデルハイトは、キースの背中に向かって、そっと呟く。
「おめでとう。キース」
洞窟の中の、アーデルハイトの呟きは誰の耳にも届かない。
「……大好きよ」
空いっぱいの、美しい虹だった。




