好きな人の笑顔
朝だというのに、窓のカーテンを閉め切っていた。
部屋の隅の椅子には、長い金髪の美しい青年が腰掛けていた――。
彼の名は、クラウス。
クラウスの影から、音もなく一人の妖艶な美女が現れた。
「クラウス様」
濡れたような黒い髪、漆黒の瞳、そして、褐色の肌をしたその美しい女性は、惜しげもなく素肌を見せつけるような服装をしている。
「なんだ? ビネイア。朝から現れるとは珍しいな」
「魔族の私だって、朝から活動することはあります。クラウス様にお会いしたくて――」
「ずいぶん嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
美女は、人間ではなかった。闇深くにある魔界に生まれ、魔界に住む魔族の者だった。
「……このまま、放っておかれるのですか?」
「フレデリク先生のことか?」
「いいえ。忌々しい北の巫女の予言の者です」
「ああ」
「私が偵察に行って参りましょうか? それともいっそ捕えてみますか? きっとすぐに探し当ててご覧にいれましょう」
「いや。それには及ばない」
「なぜでしょう?」
「ものには順番というものがある。こちらから動くことはない」
「私はクラウス様のお役に立ちたいのです」
「……ビネイア。君は、本当に美しいな」
「クラウス様……」
ビネイアは微笑んだ。美しいが、ぞっとするような冷たい微笑みだった。
「僕は、君のような宝に出会えて幸せだよ」
クラウスのアイスブルーの瞳はビネイアを映していたが、ただ映像として捉えているだけ、心にはなにも映してはいない――、心は虚ろだった。
クラウスは思う。アーデルハイトも美しかった。素晴らしい女性だと思う。しかし、彼女は魔法使いであったとしても、ただの普通の女性であり、普通の人間だ。
アーデルハイトの笑顔を最後に見たのは、いつだったろうとクラウスはふと振り返る。彼女の誕生日、あの夜が最後だったのかもしれない――。
アーデルハイトの微笑みを、暗闇に灯るあたたかなロウソクの明かりのように一瞬思い出したが、心から締め出すようにクラウスは首を振った。
僕には似つかわしくない。
僕に似合うのは、至高の宝石。
そして、宝石は、ただひとつ手に入れることが出来ればいい。
それが、アーデルハイトと別れた理由だった。
魔術を極めようとしていたクラウスは、「陽」の魔術ではなく「陰」の魔術に傾倒していった。
闇の世界に深く足を踏み入れていくうち、魔族のビネイアと出会う。クラウスは思った。
人間ではない、彼女こそ僕にふさわしい存在――!
そして、アーデルハイトに一方的に別れを告げた。
ずるずると、アーデルハイトと付き合い続けていくという手もあっただろう。しかし、それはクラウスの美学から外れていた。
宝石は、ただひとつあればいい。
ひとつ? いや違う、とクラウスは思う。もうひとつ、クラウスには欲しい物があった。
世界、だ。
僕は、世界も欲しい。
世界を手にするためなら、どんなことだってしてみせる――!
クラウスは、氷の彫刻のような美しい顔を歪めて笑った。
しかし、クラウス自身気付いていない。アーデルハイトと別れた本当の理由は、美学でもなんでもなかった。
本当は、アーデルハイトに幸せになってほしかったのだ。光の中を歩く彼女と、闇をさまよう自分とのあまりの違いに耐えられなくなっていたのだ。
自分では彼女を幸せには出来ない。
アーデルハイトがこの「僕」に似つかわしくないのではなく、「僕」がアーデルハイトに似つかわしくないのだ、ということを、クラウスも気付かない心の奥深くで感じていた。
眩しい彼女の微笑みが、いつしか苦痛になっていた。
闇こそ自分にふさわしい。
そして、背を向けた。
アーデルハイトとの美しい思い出を、これ以上汚したくない。
そして、心の扉を閉じた。
クラウスは、そういった自分の本当の気持ちに気付いていない。ビネイアの投げかけるどこまでも深い漆黒の影に、隠れて見えなくなってしまったのかもしれない。
それとも、単純に自分の弱さを認めたくないからなのかもしれない。
クラウスが無意識に閉じた心の扉は、誰にも知られることもなく闇の奥深くにあった。
「雨、降ってきちゃったねえー」
急に雨が降ってきた。キースたちは近くの森に降り立った。
「雨が弱まるまで休もうか」
目の前に洞窟があった。
「ここで雨宿りしよう」
急いで洞窟に駆け込む。
「あっ!」
キースが叫んだ。
「どうしたの? キース」
「忘れてた……!」
「忘れてた? なにを?」
キースが突然なにかを思い出したらしい。
「今日……、俺の……」
「俺の……?」
俺の、なんだというのだろう。アーデルハイトは首をかしげる。
「俺の誕生日だったあああ!」
キースが叫んだ。
「はあ!?」
アーデルハイトが思わず聞き返す。突然、なにを言い出すんだ、この男は――。
「なんで、今言う!? 当日に、いきなり、しかも洞窟で言われても……!」
プレゼント、用意できないじゃん! とアーデルハイトは思った。
「キース! おめでとー!」
妖精のユリエが満面の笑顔でパチパチと拍手する。
「ありがとう! ユリエ!」
キースは、ユリエの笑顔のお祝いに嬉しくなった。
アーデルハイトは、あっ! と思った。私もすぐにおめでとうと言えばよかった! と少し後悔した。
私って、なんでこうかわいくできないんだろう――。
「キースはいくつになったのー?」
ユリエが明るく尋ねる。
「二十六歳だよ」
「えっ! 私より二歳も年上……」
なんとなく、アーデルハイトは絶句した。まあ、年下には見えないが、二歳上とも思わなかった。
「……まだまだ若造だな。ふふふ」
急にユリエが低い声で呟いた。
「なにそれ。ユリエ。超怖いんだけど」
キースが笑う。
「私のほうが、百歳くらい年上なんだから!」
えへん! とユリエが偉そうにする。
「……実は、正確には覚えてないけど」
「数えるの、大変だもんねえ」
「私、誕生日も忘れちゃった」
「そうか。忘れちゃったか……。そうだ! それならいっそ、ユリエも今日誕生日にしちゃったら?」
「あ! いいねえ! 私もキースと同じ誕生日にするーっ!」
「そんなことでいいの!? 誕生日って!」
アーデルハイトがたまらずツッコむ。
「キース」
カイがおずおずとキースの前に出た。
「なんだ? カイ」
「誕生日、おめでとうございます」
カイは右手を前に出した。手のひらに、四つ葉のクローバー。
「なんだあ!? お前、乙女だなあ!」
「ちっ! 違いますよ! 毎年キースさんがご家族の前で、プレゼントはなんだとかプレゼントありがとーとか、誕生日に大騒ぎしてたから、俺もいつかなにかあげよーと思ってて、でも俺目覚めたの最近だし、しかも金もないし、剣の姿のときは物も持てないし、俺でもこっそり持ち運べるのはなんかないかなあと思ってて……!」
「で、四つ葉のクローバーを見つけたから、採っておいてくれたんだ」
「……はい」
カイは顔が真っ赤だった。
「乙女だなあ!」
キースとアーデルハイトとユリエが思わず声を揃えて言った。
「……やっぱり、あげなきゃよかった……」
恥ずかしくなってちょっぴり涙目である。
「そんなことねーよ! ありがとーっ! カイ! 嬉しーぜ! なんかいいことありそーな気になるぜ! ちゃんと大切にするからなー!」
キースはカイをヘッドロックし、髪をわしわしと撫でた。
「どーゆー感謝の表現なんですかああ!」
キースとカイは笑い合う。
「ほんと、ありがとな! 誕生日覚えててくれたんだ。その気持ちが嬉しいぜ!」
「記憶力、いいんです。俺、頭いいんです」
「ははは! よく言うよ! どうせ俺のこと大好きで覚えててくれたんだろお!?」
「よく言いますね!」
キースの嬉しそうな笑顔を見て、カイは照れ臭いし恥ずかしいけど頑張って渡してよかった、と思った。そして、ほんとこれじゃあ我ながら乙女みたいだ、とまた頬を赤くした。
アーデルハイトは、知らなかったとはいえ、なにもプレゼント出来ないことを残念に思う。しかも、お祝いを言うタイミングも逸してしまった。
たった一言「おめでとう」なのに、なぜかすんなり出てこない。
でも、でも、せめてお祝いくらい言わなきゃ!
アーデルハイトは意を決した。
「ユリエちゃん、お誕生日おめでとう」
「わあい! アーデルハイト! ありがとーっ!」
ああ! 違う! ユリエちゃんじゃなくキースに言うつもりだったのに! ユリエちゃんは今日が誕生日じゃないだろうに! とアーデルハイトは思いつつ、ユリエのかわいい笑顔を見てなんだか癒される。
「アーデルハイト。俺はぁ?」
キースがわざと寂しそうに言う。「おめでとう、と言ってもらいたいオーラ」を全身から放つ。
「…………」
「無視か!?」
まさかの塩対応! とキースは思った。
「……キース。おめでとう」
いかにも根負けしたようにアーデルハイトは言った。
「ありがとー! アーデルハイト!」
キースはたちまち笑顔になる。アーデルハイトは思わず、どきっとした。
好きな人の笑顔。嬉しい……! それだけで心があたたかくなる――。
「あっ! みんな! 見て見て! 虹が出てる!」
洞窟の外に出たユリエが空を指差す。
「ほんとだー! でっかい虹だー! 実は、俺が生まれた日もでっかい虹が出てたって、俺の親父が言ってたんだよねえ!」
アーデルハイトは、洞窟の外へ出たキースの背中に向かって、そっと呟く。
「おめでとう。キース」
虹を見に行っていて、アーデルハイトの呟きは誰の耳にも届かない。
「……大好きよ」
大きな美しい虹だった。




