第2話 湖の記憶
どこまでも青い空。岩だらけの荒野を、超えていく。風が全身を突き抜ける。
キースは、空を飛んでいた。
もちろん、しっかり人類に属するキースが、空を飛べるわけではない。
金髪美女のアーデルハイトと共に、キースはドラゴンに乗っていた。
「いやー! 爽快だねえ! いいねえ! 空を飛ぶって!」
アーデルハイトが前に乗り、キースが後ろ、アーデルハイトにつかまるような状態だった。初めて乗るドラゴン、初めて飛ぶ空に、キースは子どものように歓喜した。
流れていく風に負けない大声で、キースは尋ねる。
「なあ、アーデルハイトっち、このドラゴン、なんて名前なんだ?」
「『アーデルハイトっち』、って!」
アーデルハイトは、呆れた、といった様子でそのまま言葉を突き返す。
さすがにいきなり馴れ馴れしいか、とキースは呼びかたを改めることにした。
「ごめん……。アーデルハイト様」
ふう、とアーデルハイトはため息をついたようだった。「様」も気に入らないらしい。
「……別に私の呼びかたはなんでもいいけど。この子の名前はゲオルク」
「へえ! ゲオルクか。いい名前だねえ!」
岩や土ばかりの単調な景色が続いていたが、ようやく眼下に緑が見えてきた。川も湖もあるようだ。
「川! 湖も!」
キースの瞳が生き生きと輝く。
「街までまだ遠いみたいだけど、ちょっと降りてみるわね」
湖のほとりに降り立った。透明な水底にたくさんの魚が見える。綺麗な水のようだ。
「うわーっ! 久しぶりぃ!」
キースは顔を洗った。久しぶりの豊かな水。
心地よい冷たさだった。肌に感じる水の爽快さに、キースはいてもたってもいられなくなってきた。
きらきら、湖面が誘うように輝く。
「ちょっと失礼。向こう向いててな」
「え?」
アーデルハイトが聞き返しキースに視線を向けると、キースは――、あっという間に全裸になっていた。
「ちょっとーっ!」
ざっぱーん。
キースは、頭から湖に飛び込む。
「あんたなにやってんのよーっ!? 見ちゃったじゃないのよーっ!」
アーデルハイトの猛抗議。無理もない。
キースは湖面から顔を出し、こともなげに笑う。
「ごめんごめん。向こう向いてって言ったんだけど」
「まさかいきなり裸になるなんて思わないわよーっ!」
アーデルハイトは、両腕をぐるぐる回し、大変な剣幕で怒鳴っていた。
「ははは。わりぃ。でも俺、脱ぐとちょっと、すごいだろ?」
キースは肩の辺りまで水につかりながら、岸辺のアーデルハイトに笑いかける。さすがにキースも、アーデルハイトの前で手を腰に当て仁王立ちするという暴挙に出ないだけの、知性と配慮は持ち合わせていた。
「ヘンターイ!! ばかーっ!!」
「久々の風呂―! 気持ちいいーっ!」
キースは湖を思いっきり泳いでいた。きらりと光る鱗。大きな魚。野生児キースは素早く手を伸ばし、魚を捕まえた。
お魚ゲットだぜ!
「おーい、でっかい魚見つけ……」
捕まえた魚をアーデルハイトに見せようと岸辺を振り返ると、アーデルハイトの姿もゲオルクの姿も、既に無かった。
ぽたり、キースの黒髪からしずくが落ちる。
ありゃ。さすがに怒って立ち去っちゃったかな。
ため息を吐き、岸に上がる。凛々しい顔立ち、鍛えられた見事な肉体。キースは、もし森の妖精が出会ってしまったら、一目で恋をしてしまうのではないかと思われるような美男子だった――、黙っていれば、の話だが――。
「アーデルハイトっち……」
魚を焼いて食べようと思っていた。アーデルハイトと、ゲオルクと。
キースは服を着替えてたき火をし、魚を焼き始めた。焼ける間、さっきまで着ていた服を洗濯した。服を洗っているうちに、だんだん自責の念が湧いてくる。
悪いことしちゃったな。泳ぎたくなって、つい……。こんなことなら、もっとちゃんとお礼を言っておけばよかったな。水も食料も分けてもらったのに――。
本当に女神のような女性だった、とキースは思う。
もう会うことはないかもしれない。一期一会。後で悔いることのないように、出会った人とは誠意と真心を込めて接するべきなんだ――。きっとアーデルハイトの記憶には、俺は恩知らずの大変態として残ってしまうんだろうなあ――。
キースは反省しながらも、大変態、というくだりで一人失笑してしまっていた。
ちょっとウケる。我ながら、その称号。
「……なに一人で笑ってんのよ」
「えっ? あっ? 女神アーデルハイト!」
振り返れば、アーデルハイトの姿があった。
木の実をたくさん抱えたアーデルハイトと、ゆっくりと長い尻尾を振っているゲオルク。
「なんで女神……。この木の実はとても栄養があるのよ」
アーデルハイトは呆れ声でそう言うと、赤い木の実をキースに放り投げる。片手でキースは木の実を受け取った。
「ありがとう! 木の実を採ってきてくれてたんだ……!」
アーデルハイトは、ぷいっと視線を外す。やはりどう見ても怒っている。
そりゃそうだな。俺は最低の大変態だし。
「……ごめん」
「……謝って済むこと?」
「済まない」
「それ、ごめんなさいの意? それとも、済むはずがないの済まない?」
アーデルハイトは、腰に手を当て首を傾ける。目が、すわっている。
ああ、とキースは思った。謝罪の「すまない」と「済む」の打ち消し。
「すまないアンド、すまない」
ダブルで、と思いついてキースは口走る、連結の「すまない」。
「かける、一万倍! すまないかける一万!」
足りないかも、と思い一万倍もかけてみた。
「ほんとに反省してるの!?」
「……はい」
しょぼん、とうなだれる。ポーズではなく、心底反省していた。しかし、それをどう受け取るかはアーデルハイト次第だ。キースはうつむいたまま審判を待つ。
「……さっさと、食べましょ」
顔を上げると、アーデルハイトは草の上にどかっと腰かけ、あぐらをかいていた。
一応、許してくれた……?
「魚、魚も食おーぜっ!」
キースは顔を輝かせた。
新鮮な魚と木の実を分け合って食べた。ドラゴンのゲオルクもおいしそうに食べる。
「洗濯までしてたの?」
「ああ。今晩はここで過ごそうかと思って」
「ふうん」
「アーデルハイト様はこれから街に行くのか?」
「……『様』はやめてよ」
「アーデルハイト姫」
「……『姫』もやめてよ。そうねえ。せっかく綺麗な湖も食べ物もあるし……。私も出発は明日にしようかな」
「マジでっ!? 一緒に夜を過ごしちゃう!?」
「や、やめてよ! 妙なことは考えないでよ! そういうつもりじゃないんだから!」
そういうつもり、とはつまりああいうつもりか。つまり、ああいうつもりではないんだな。いいなあ。そういうつもり――。残念。
キースは一瞬だけ妄想に浸った。さらに怒られそうなので妄想でも一瞬でやめた。
キースは、膝に着いた草を払って立ち上がる。
「よし。じゃあ、俺もその辺を探検してみるか」
「え……?」
「アーデルハイトも暑いうちに水浴びしたら? 気持ちいいよ。俺はどっか行ってるから」
「……覗いたりしないでしょうね」
「まさか! 覗いてくれって言うなら喜んで覗くけど!」
「……覗くな」
「はい」
「覗いたりしたら、ゲオルクが許さないんだから!」
ゲオルクは、首を傾げてキースを見ていた。黒目がきらきらして、ドラゴンというより大型犬や牛のようだ。
「頼もしい用心棒だね。ゲオルクはいい子だ」
ゲオルクの頭をよくなでてあげてから、キースは森のほうへと歩き出す。
「……変な男」
アーデルハイトの呟きを背に、キースは安堵する。
よかった。アーデルハイト。礼を言わないままお別れじゃなかった――。
アーデルハイトは湖に入る。水をはじく白い肌、伸びやかな肢体。
「ほんと……、気持ちいい」
ふと、視線を感じたような気がした。
「キース!?」
すぐに違うと分かった。
違う、これは人間の視線じゃない――。もっと大きく、高次の―、まるで包み込むような優しい眼差し――。まるで、見守られているような――。
「この湖には、なにかいるのね――」
パチパチパチ。
たき火のまきがはぜる。夕食の魚介類が焼かれていた。二人とドラゴン一匹の夕食。
「……キースは、どこに行くつもりなの?」
「ノースカンザーランド」
キースは、ノースカンザーランドという国を目指していた。
「ノースカンザーランド!?」
アーデルハイトの表情が、一瞬固くなった。
「どうしたんだ? ノースカンザーランドが、どうかしたのか?」
アーデルハイトは、あきらかに動揺しているようだった。
「い、いいえ。なんでもないわ……」
アーデルハイトは顔を振り、金の髪をかき上げた。それから、魚に手を伸ばす。ちょうどよく焼きあがっていた。
「私も――。そこに行くところだったの」
「マジでっ!? 一緒かよ!? すげーな! 俺たち、なんか運命の糸で繋がってたりして! なーんてなっ!」
アーデルハイトは黙っていた。手に取った魚を食べるわけでもなかった。ただ、静かにたき火の炎を見ていた。炎の明かりに照らされた美しい横顔は、どこか悲しそうに見えた。
あれ。反応がない。そもそも、俺が好感度ゼロ、っていうのもあるだろうけど、それより――。
なにか、深い事情があるのかもしれない、そうキースは感じた。
普通だったらたぶん、俺にノースカンザーランドのどの辺に行くのかとか、なにをしに行くのかとか色々訊いてくると思うけど……。それを訊いたら自分のことも話さなくちゃいけなくなる、それを避けているようだ――。
キースは、話題を変えよう、と思った。
目の前には鏡のような湖。月の光が照らしている。
怖いとか不気味だとは思わなかった。ただ、静謐で美しい景色だ、とキースは思う。
「……月明かりの湖って、なんか幻想的だよな――」
なにげなく湖を見た、そのとき――。
「うわっ!?」
驚きに、息をのむ。信じられないことが起きていた。
湖の上に、ありえない風景が広がっていた。
これは……、いったい……?
アーデルハイトも、言葉を失っていた。目の前の光景に圧倒されているようだった。
それは、町のようだった。遠く見える宮殿のような立派な建物、楽しそうに笑っているたくさんの人々、明るい青空――。夜空にまるで蜃気楼のように、巨大な映像が映っていたのだ。
「なにが起こっているんだ!?」
「幻――」
鮮やかな、幻影だった。
信じられない。まるで、魔法――。
柔らかな風が吹いた。
湖から、声がした。
『私は、湖に住む精霊――』
「えっ!?」
湖の……、精霊……!?
『私はずっと眠っていました。これは、遠い昔の――。私の記憶――』
「遠い昔の記憶……? これはもしかして……、かつてあなたが見ていた光景なんですか?」
アーデルハイトが、湖に向かって声をかけていた。
『そうです。遠い遠い昔、ここには都があったのです』
映像の中の人々は皆、幸せそうな笑顔だった。湖のほとりではしゃぐ子どもたち、弁当を広げてくつろぐ人たち、木陰で愛の告白をする若い恋人たち――。
『あなたがたを見ていて、なんだか懐かしくなってしまったのです。人々との思い出を、楽しかった日々を、振り返ってみたくなったのです――』
慈しむような優しい声――。この精霊は人間が好きだったんだ、そうキースは感じた。
湖は、尋ねる。今を生きている、キースとアーデルハイトに。
『もうしばらく、かつての時間を――。愛おしいかけがえのない日々を、こうして思い出していてもいいですか?』
「もちろん――!」
キースもアーデルハイトも、ゲオルクも、黙って精霊の繰り広げる美しい思い出の数々を眺めていた。
なんて素敵な記憶なんだろう――。
キースは、なぜあのときアーデルハイトが呆れて去ってしまわずに、自分の隣にいてくれるのか分からなかった。ただ、まだアーデルハイトとの縁が繋がっていること、そして今この瞬間に隣にいてくれることを、とても嬉しいと感じていた。
翌朝、湖を出発することにした。
「湖の精霊さん、おいしい魚や貝と素晴らしい思い出をありがとう!」
ゲオルクに乗って、アーデルハイトと街へ向かう。
湖が朝日にきらめいていた。
俺のことも湖の精霊さんは記憶に残してくれるかな――。
ゲオルクは青空を駆けるように飛んでいく。
精霊さんの心の中に、大変態として記憶に刻まれちゃったりして――。
キースは大変態、と考えてまた笑ってしまっていた。
なかなかにぴったりな称号かも、と思いつつ。