最終決戦
フレデリクの蹴りを受け、痛む脇腹を抑えながら立ち上がったクラウスの瞳に、アーデルハイトの姿が映る。
共に成長のときを過ごしてきた懐かしい、その姿。かつて愛した女性。
向かい合う二人の間には、今や果てしない距離があるような気がした。
「アーデルハイト……!」
もう二度と、呼ぶことはないと思われたその名。
クラウスの唇は、懐かしい響きを形どる。しかし、クラウスにとってその音は、もう遠い過去のものでしかなかった。
アーデルハイトのエメラルドグリーンの瞳は、かすかに揺れていた。
「クラウス……!」
そのとき、クラウスの耳にはアーデルハイトの声が届いていなかった。
クラウスは、アーデルハイトの左手に目を留めていた。
クラウスは見た。そのほっそりとした美しい指に光る、ターコイズグリーンの石がはめこまれた、特別な指輪を。
「アーデルハイトになにかしたら、私が絶対許さないんだからっ!」
アーデルハイトの胸元から、妖精のユリエがぴょこんと顔を出す。
「アーデルハイト! ユリエ! 危ないから、離れてっ……!」
キースが必死の形相で叫んだ。
クラウスは、アーデルハイトを見つめ叫ぶキースを見た。
そして、キースを見つめるアーデルハイトの瞳を見た。
その瞬間、クラウスはすべてを悟った。
キースの「影」を分析する必要はなかった。
クラウスは、ゆっくりと、深い息を吐き出しているかのように呟いた。
「なるほど……。そういう、ことか……」
「! なにが、そういうことか、なんだよっ!」
キースが、腰に差した細身の剣を構えながらクラウスを睨みつけた。
クラウスの表情は、意外にも穏やかに見えた。
「なにがっ! そういうことか、なんだよっ!?」
キースは同じ言葉を叫んでいた。
クラウスは――、ただ静かに微笑んでいた。
「! アーデルハイトに油断させ、攻撃を仕掛ける気かっ!?」
キースが思わずそう叫ぶくらい、クラウスのその笑みは優しく、穏やかで――、まるで慈しむような、崇高な輝きさえまとっているように見えた。
クラウスは、アイスブルーの瞳を閉じ、ゆっくりと左右に首を振る。
「なっ、なんなんだよっ……!」
クラウスは、剣を構えなかった。魔力を増幅する腕輪を使う気配もなく、炎を吐くドラゴンに指示を出す気配もなく、ただ、静かにその場に立つ。
ようやくクラウスが発した言葉は、さらに意外なものだった。
「不思議だな――」
「なにが、不思議なんだよっ!?」
クラウスの唇は、微笑みをたたえたままだった。
「僕は――、安堵している」
「はっ!? なに言ってんだ、てめえ!?」
クラウスの思いがけない言葉に、キースは当惑する。
「君に、感謝すべきなのだろうな――」
「だから、なに言って……!」
クラウスは、望んでいた。アーデルハイトの幸せを。
クラウスは、アーデルハイトに光を見ていた。アーデルハイトは光の道を歩む者だと感じていた。
キースの光――。
クラウスは、とても自然だと感じていた。光の道を歩む者同士、手を取り合い、寄り添い歩くことはとても自然であると――。
きっと、この男なら、彼女の笑顔を守れるに違いない――。
クラウスが浮かべていたのは、心からの笑みだった。
クラウスは、顔を上げ、まっすぐキースの瞳を見た。
「だが――」
クラウスの周囲に、ふたたび闇が渦巻く。その笑みに静けさは消え、見る間に邪悪な色が浮かび上がってくる。
「いっときの幸せもそれまでだ――! 僕は、僕に抗う者を破壊する……! アーデルハイト、君であろうと、僕は容赦しない……!」
クラウスの腕輪が、不気味な光を放ち始める。
「僕はすべてを破壊する……! そして新しい世界を創造するのだ……!」
空気が歪んでいた。床が、生き物のように蠢き始めた。
とてつもない強い魔力が放出されようとしていた――。
「アーデルハイトッ……!」
クラウスは今自分の持つ魔力すべてを使って、すべてを破壊しようとしている、キースはそう感じた。王座の象徴としてのこの王宮全体も、恩師の一人であるフレデリクも、最愛の恋人だったアーデルハイトも、自分を守り仕えてきた漆黒のドラゴンさえ、その破壊の波に巻き込まれても構わない、そういうはっきりとしたクラウスの意志を感じ取った。
キースが息をのんだ、そのときだった。
「大地の精霊よ! 地の底から溢れ出る邪悪な力を沈め給え……!」
「退魔の杖」をクラウスに向け、ミハイルが呪文を叫んでいた。
ゴゴゴゴゴッ……!
凄まじい、光の洪水。激しく地面が揺れた。
「栗毛の坊や……! また会ったな……!」
クラウスは腕輪をミハイルに向けるようにして、醜く唇を吊り上げた。
「クラウス……! 僕は、世界の異変を探るために旅に出た……! 世界の秩序を壊す悪しき力、僕は君を許さない……!」
「笑止……! お前ごときに僕を止められるはずがない……!」
ゴゴゴゴゴ……!
クラウスは、揺れる床の上を疾風のごとく駆け抜けた。盗み取ったキースの影、キースの剣士としての力を駆使し、まっすぐミハイルへ向かって――。
「いけないっ……!」
ガッ……!
「うっ……!」
カラーン……!
一瞬の出来事だった。
クラウスは、ミハイルの手に握られた「退魔の杖」を奪い取ろうと、ミハイルの腕を黒の剣で切断しようと振り上げた。それを察知したフレデリクが、ミハイルの腕とクラウスの剣の間に素早く魔法の杖を差し入れる。その結果、クラウスの剣で斬られることは免れたが、魔法の杖が激しくミハイルの腕に当たり、その衝撃でミハイルは「退魔の杖」を落としてしまった。
クラウスは、「退魔の杖」をすぐさま拾い上げようと身をかがめた――。
そのときクラウスの脳裏には、「退魔の杖」を奪い、より強大な力を手にする一瞬先の未来の自分の姿が描かれていた。「退魔の杖」は自分の手の伸ばしたすぐ先にあり、もう、自分の手中に入るのは間違いない思っていた。
「おや! クラウスさん! この私を、ご所望ですか?」
クラウスは、絶句した。
クラウスの目の前に現れたのは――、全裸のコンラードだった。
「さあ! 私が欲しいのですか? あなたは、私を、欲、し、い、の、で、す、か?」
コンラードは、腰に手を当て仁王立ちになっていた。一語一語をはっきりと区切り、強調して叫んでいた。
地面の揺れが、止んでいた。
誰もが、言葉を発することが出来なかった。
「さあ!」
満面の笑顔のコンラード。
それは、あまりにも滑稽すぎる光景だった。
しかしそれは、コンラードなりの必死の抵抗だった。ラーシュやカイが、深く眠りにつき自身のその力を閉ざすという抵抗ならば、コンラードは自分の望まぬ主人に対して決して杖の姿を取らないという抵抗を、固く決意していたのだ。
クラウスの腕輪が、ふたたび光を集める。
「ふん……! 無理やりにでも、杖の姿に戻してやる……!」
「私はあなたには屈しません! あなたが私の魅力に屈するべきです!」
コンラードはクラウスを睨みつけた。
「クラウスさん――」
クラウスの耳に、久しぶりに聞く声が届いた。
久しぶり――。
それは、クラウスが旅に出る直前に聞いた声。
旅に出るきっかけとなった声。
その声の主を無理やり操ることで、クラウスは北の巫女の予言を知る。
それから、その声の主は深く己を閉ざした。
その声の主は――、ラーシュだった。
『コンラード! カイ! セシーリア!』
ラーシュはきょうだいに呼び掛けていた。
『時間はありません。だから、ひとつだけ大切なことを伝えます。私がクラウスの前で人の姿をとるとき、それは――』
そのときのラーシュの作戦、それはコンラードを通じ、皆、その場に伝えられる人間皆に伝えられていた。
『私がクラウスの前で人間の姿をとるとき、それはクラウスの気を引く最後の手段です。きっと、彼は私に強く関心を抱きます。必ず隙が生まれるはずです。そのとき、皆はためらわず総攻撃を仕掛けてください。傍にいる私を攻撃から逸らそうと、助けようとはしないでください。その一瞬の隙を使い、どうかすべてを終わらせてください――』
ラーシュは、自分の命を懸けるつもりだった。
ラーシュは、クラウスに向かって微笑んでいた。死をも決意した、すべての思いを込めた微笑み――。
「! ラーシュ……!」
クラウスは目を見張り、少しくせ毛の青い色の髪の青年を見つめた。
クラウスは、美しいと思った。自分が初めて手にした、自分の力を強く確信したきっかけとなった、かけがえのない宝、「知恵の杯」。その「知恵の杯」がたたえる、謎めいた微笑み――。
クラウスは、瞬間心を奪われていた。
「アーデルハイトさん!」
あのときのラーシュの作戦では、総攻撃という指示だった。しかし、王宮内に潜入してから、アーデルハイトの記憶が蘇ったことをコンラードやミハイルたちは知った。
クラウスの、魔力を封じる方法の記憶を――。
コンラードは「退魔の杖」に戻り、「退魔の杖」をミハイルが手にする。そして、ミハイルは、「退魔の杖」をアーデルハイトに向かって投げた。
「なっ……!?」
クラウスが「退魔の杖」の行方を目で追ったときには、もう「退魔の杖」はアーデルハイトの手の中にあった。
ガンッ……!
キースが、クラウスに細身の剣を振り下ろす。クラウスは、黒の剣でそれを受けた。
「おめーの相手は、俺だ!」
「つくづく邪魔な男だな……! キース!」
ゴウッ!
漆黒のドラゴンが炎の柱をアーデルハイトに向かって吐く。
ドドドドドッ!
ドラゴンのゲオルクがそれに対抗して水の柱を吐いた。またしても、二つの強い力が空中でぶつかり合う。
ガッ! ガッ! ガッ!
キースとクラウスは激しく剣の火花を散らした。
クラウスが、アーデルハイトとゲオルクに対し、背を向ける形となったそのとき――。
アーデルハイトのエメラルドグリーンの瞳は、揺らぐことなく一点を見つめた。
「我は封じる! その魔力の門、永遠に開くことなかれ……!」
アーデルハイトは「退魔の杖」をクラウスの首の後ろ、ぼんのくぼに向け呪文を叫んだ。
ぼんのくぼと呼ばれる場所。そこが魔力の放出に関わる箇所だった。




