第12話 一つの星
あの美しい世界は、いつから狂ってしまったのだろう、アーデルハイトは振り返る。
あの日――。アーデルハイトは、幸せのただ中にいた。昨年の誕生日のことだった。
あたたかな部屋の外は、しんしんと雪が降り積もっていた。
「アーデルハイト。君は本当に美しい」
クラウスは、輝く緑の石のネックレスを、アーデルハイトのほっそりとした首に回しつけた。アーデルハイトは、頬を染めてはにかむ。
「ありがとう……。クラウス」
クラウスと、この先の人生を共に歩んでいくのだと信じていた。
「こんな高価な誕生日プレゼント……。本当にありがとう。嬉しい……」
暖炉の火が優しく揺れる、あたたかな閉ざされた空間。二人きりの、完結した世界――。
今、アーデルハイトは思う。
美しい世界、そんなものはなかったのかもしれない。もしかして、ただの願望の投影、ひとりよがりの思い込みに過ぎなかったのかも――。
ううん、とアーデルハイトは首を振る。
幼いころ、手を繋いだ思い出は、嘘じゃないと思う。運命の歯車が狂ってしまったのは、いつからなのだろう。きっと、クラウスが魔法の魅力にとりつかれてしまったころから――?
それとも、と思う。
それとも――、私が悪かったのだろうか――?
もし隣にいたのが私ではない他の女性だったら。そうだとしたら、クラウスの人生はまた違うものだったのかもしれない――。そう考えると、涙が溢れそうになる。
あの優しい眼差しはもう二度と戻らないの? あの心安らぐささやきは、永遠に過去のものとなってしまったの――?
何度も自分の中で繰り返してきた問い。もう一度会えたら、もしかしたら少年のころのような優しい瞳に戻るのではないか――。しかしそれは、幻想であるということを、アーデルハイトもわかっていた。
クラウスは、強い。堅牢に築き上げられた塔のようだ。彼を変えることは、少なくとも私にはできない――。
アーデルハイトは、自分は無力だ、そう思った。
それでも、じっとしていられなかった。
クラウスを止めに行かなくては……! これ以上彼が罪を犯さないよう止めなければならない――!
アーデルハイトは、そうして家を出た。
「みんなぁ! ご飯食べようーっ!」
妖精のユリエの朗らかな声が、水晶の洞窟に響き渡る。
「ユリエ、すごいご馳走だなあ! ありがとう!」
キースの目の前には、ユリエが集めておいたたくさんの木の実。赤い実、黄色い実、青い実。本当にただひたすら木の実、木の実だらけだったが、ユリエが喜ぶよう、キースは大げさに驚いてあげているようだった。
「アントン様のご子孫は現在どうされているのでしょう? ご無事でしょうか……?」
カイが、アーデルハイトに尋ねた。
「ええと……、つまり、青い杯の所有者が、アントンさんのご子孫ということで合ってる?」
「はい。そうです」
「そうか。『知恵の杯』のラーシュ、カイの兄さんは、大魔法使いヴァルデマーの一番弟子のアントンが持っていったってことだもんな。最近までアントンの子孫が隠していたということか」
キースが、木の実を頬張りながら言う。
「盗まれた青い杯の持ち主は、クラウスを追って私より早くノースカンザーランドに向かったわ。その人の名前は――、フレデリク。フレデリク先生。実は、魔法学校の先生なの」
「へえ! 魔法学校の先生か! じゃあ、大丈夫なんじゃないか? 先生なら連れ去られたカイの兄さんを取り戻せるんじゃないのか?」
キースの明るい声に反し、アーデルハイトの表情は曇る。
「それが……。そうとも思えないの。私の考えでは、教え子のクラウスのほうが、魔法の腕はフレデリク先生より数段上だと思う――」
「そうなのかっ!? 大魔法使いの一番弟子のアントンの子孫なのに!?」
ぽろり、と木の実を取り落とすキース。
「ええ、たぶん……。クラウスは、天才よ」
「なんといっても、北の巫女様の予言の魔法使いですからね……。それは一筋縄ではいかないでしょう」
カイはうつむき、唇を噛みしめていた。
「それに、先生はちょっと変わってるの……。よい先生だとは思うけど、なんというか……、風変りな人だった。まあ、町の人たちの噂では、先生の他にも数人がドラゴンに乗って空を駆けていったっていうから、クラウスを追っているのは先生と私だけじゃないみたいだけど」
「そうか……」
キースは、カイの様子を横目でうかがっているようだった。そして、元気よく叫んだ。
「なあに! それじゃあ安心だな! 先生と、何人かの魔法使いたち、そしてこの俺たちが向かうんだ! 大丈夫、大丈夫だって! ほら、カイ、カイもなんか食え!」
「だから俺は剣だから食わないって……」
「あ! そうだったな! じゃ、じゃあアーデルハイト、アーデルハイトも食え! 食えば自然と力が湧くから!」
「そうよう! この木の実はほんと美味しいし、栄養たっぷりあるんだからあ!」
ユリエも、輝く笑顔でキースに続ける。
「そうね……。元気にならなくっちゃね……」
「私、嬉しいなあ!」
ユリエが、ぐんと両手を広げ、にこにこと笑った。
「え……?」
「だって、私もルークも、エースの子孫さんとカイだけがここに来るんだって思ってたんだもん。アーデルハイトとゲオルクまで来てくれて、賑やかになって、なんだか嬉しい!」
「……ユリエちゃん。ありがとう」
「そう! アーデルハイトは笑顔のほうがいいよ! とっても笑顔が綺麗なんだもん!」
ユリエが、自分の両頬に両の人差し指を当て、顔を傾け笑う。にっこりのポーズといったところか。
私のことを、純粋に歓迎してくれた――。
アーデルハイトは胸の辺りがあたたかくなっていた。
恐ろしい魔法使いの元恋人、クラウス。そんな彼を、私は止められなかった。それなのに、私を、無条件の笑顔で迎えてくれた――。
アーデルハイトは心から嬉しかったのと同時に、いかに自分が罪悪感で自分を縛ってしまっていたか、気付く。過去の恋、そしてアーデルハイトは無関係である。アーデルハイトに非はないのだが、知らず知らずのうちに罪の意識に苛まれていた。
「アーデルハイトさん。俺もとても嬉しいです。あなたに会えてよかったです」
アーデルハイトの心の動きを察したのか、カイが声をかける。
「カイ……」
「兄さんのこと、兄さんを連れ去ったクラウスのことを教えてくれてありがとうございました。それに……、キースさんのこと助けてくださってありがとうございました。まだ俺からはお礼を言ってなかったですね。失礼しました。本当にありがとうございました」
「カイ……! そんな……! こちらこそ、本当にごめんなさい……。そしてありがとう!」
「それから、道中楽しかったです」
「楽しかった……?」
「キースさんに対する的確なツッコミ、ナイスでした!」
「カイ! なんだよ、それ!」
キースが、思わず食べていた木の実を吹き出す。
「あはは。そんなわけで、俺もアーデルハイトさんに会えて嬉しいです! これからもよろしくお願いします! キースさんのこと、適度にツッコミ入れてあげてください! 俺のためにも!」
「カイ! どういう意味だよ!? 『俺のためにも』って!」
キースがちょっと不満気な顔をする。
「だって、キースさんの暴走で被害を被りたくないですから」
「カイ! お前―っ! 涼しい顔して結構言うなあ!」
キースがカイに、ヘッドロックをかける。アーデルハイトは思わず笑ってしまった。
ありがとう、カイ……!
アーデルハイトは、心の中で凝り固まっていたしこりが、少しずつ春の氷のように溶けていくような気がしていた。
「キース」
「ん?」
アーデルハイトが、キースの隣に腰かける。
いつの間にか空は満天の星。キースたちはそのまま水晶の洞窟で一晩休むことにした。
「……思い出に縛られることを口実にして、自分の人生生きてないって、キースは前に食堂の女主人に言ってたわよね」
キースは、ちょっと考える。そういえば、そんなことを言ったような気がする。
「ああ。俺そんなこと言ったっけ」
「あれ、どきっとしちゃった」
「なぜ?」
「……私、自分がクラウスと結婚すると思ってたの」
「そうか……」
水晶の輝きを、ぼんやりと眺める。
そうだよな、恋人だもんな――。
きらきらと、光る不思議な岩肌。なんとなく、隣のアーデルハイトのほうを見ることができなかった。
アーデルハイトは、続ける。
「それが彼に振られることで、私の未来は白紙になった」
「うん……?」
アーデルハイトは、深いため息をつく。それから、意を決したように話し始めた。
「彼を追いかけて止めたいっていうより、ほんとは、自分の新しい未来を考えることから、逃げるためだったのかもしれない」
「…………」
「彼を追いかけることを口実に、自分の人生から目をそらしているだけなのかも……」
「……どうして、そんなことを思うんだ?」
「クラウスに追いついても、きっと私ははなにもできない。わかっているのに、なんのために追いかけようと思うんだろう。ただ、追いかけること自体が私の目的なんじゃないかって――」
アーデルハイトの声が、震える。
「そんなこと考えることねーんじゃね?」
キースは、アーデルハイトのエメラルドグリーンの瞳を見つめた。美しい瞳からは、涙がこぼれていた。
「え……」
「追いかけて止めたいって思ってんだろ? その気持ちはほんとなんだから、口実でもなんでもない」
「キース……」
「アーデルハイトは、自分の人生をちゃんと生きてるよ」
「そう……、かしら?」
キースは、大きくうなずく。それから、言葉を探す。心から心へ、ちゃんとまっすぐ届くような、癒す言葉、寄り添う言葉を。
人々を助けようと必死で行動した女性を、深く肯定する言葉を。
しかし、残念ながら――、うまい言葉が思い浮かばない。
笑顔に戻る魔法のような言葉を、かけてあげたかった。ええと、と考えた末、出てきたのは――。
褒め作戦だ!
キースは、褒め作戦に舵を切った。
「うん! かっこいいよ!」
「かっこいい……?」
「俺たちが、世界を救うんだ!」
「……なんか、真顔ですごいこと言うのね……」
確かに、ものすごいことを言ってしまった気がする。
「……なんか、声に出して言ってみると恥ずかしいな……」
アーデルハイトを、ただ励ますつもりだった。
しかしキースの言葉は、自分への答えとなっていた。
洞窟の中で星は見えない。でも、キースの心の中に、曇りのない光を放つ一つの星が見えていた。
俺は進む! 運命に導かれるままに――! きっと、それがアーデルハイトを助けることにも繋がるはず!
「……俺って、かっこいいよな」
「自分でよく言うわ……」
「誰も言わないから自分で言うんだああ!」
アーデルハイトは、寝たふりをすることにしたようだった。