「彼方の花びら」
「彼方の花びら」
父が死んでしばらくして、わたしと姉は、海沿いの一軒家へと移った。
軽トラックに荷物を積んで、助手席にわたしを乗せて、姉は夜通し走り続けたようだった。朝、助手席で、前のめりに寝ていて、胸にくいこんだシートベルトの軽い痛みに目を覚ますと、刺すような光が瞼で弾けた。海面に、乱反射する朝日だった。姉は、とても疲れているようだったが、わたしが起きたのに気づくと、にっと笑って、自分のサングラスを耳にひっかけてくれた。
そうして辿り着いたのは、とても古い家で、木の床は踏むとギシギシと鳴った。引っ越した最初の夜、カーテンのない窓の向こうに、漁火が見えた。姉は、翌日から、釘やトンカチを持って、古い家を根気強く、少しずつ住み良くしていった。小さかったわたしは、構って欲しくて姉にまとわりついた。それでも邪険にすることなく、時に、釘を打たせてくれ、腐った風呂場の床板をはがすのを手伝わせてくれた。姉がどんなに頑張っても、古い家はやはり古くて、庭に面した回廊の引き扉は開けようとするたびにガタガタ揺れたし、台所の天井一面の煤はどうやっても落ちなかった。
家を直す合間に、姉は家から一番近い幹線道路を越えた先の住宅街の中にある小学校へわたしを連れて行った。そのみちみち、曲がり角に来るたび、高く聳える路地の木蓮や、アパートのあじさいを指して、わたしに道順を教えてくれた。覚えられない、姉と一緒に行きたい、そうわたしが駄々をこねると、笑って頭を撫でてくれて、それからしばらく黙って空を見上げるように上を向いていた。
小学校に着いて、通されたのは、赤と緑の細かい模様の染められた、でっぷりした壷の置かれた校長室で、姉は、そこで何度も頭をさげていた。座り心地の悪い黒いソファに浅く腰かけ、隣りで頭を下げる姉の白いうなじと、ゴムでまとめられたやわらかな長い髪を見ていたら、言いようのない、何に対してか分からない、激しい怒りが湧いてきた。それを必死にこらえ、呼吸もできなくなりそうになって、それでも我慢して、その帰り道、ついにわたしはワンワン声を上げて泣いた。姉は困ったようにわたしの手をにぎり、ゆっくり歩いてくれた。
なぜ父が死んだのか、なぜ母がいないのか。
夜、台所で姉が裏の畑から獲ってきた、きゅうりを刻む軽やかな音を聞いている時とか、その平和でおだやかな音に神経を逆撫でられて、姉を困らせたくて、執拗にわたしは何度も姉に聞いた。父が死んだのはあなたを守る為だったこと、母がいないのは、遠くへ出かけているからだと、姉はその度に、説明してくれた。そんなのは嘘だとわたしは怒鳴り、目論み通り姉を困らせるのに成功するたび、わたしは自分が嫌で嫌で、消えてなくなりたくなった。きっとわたしがいなければ、姉は幸せになれる、いつも心のどこかでそう思っていた。
この町の夏は、前に住んでいたところの夏より、とてもゆっくりと訪れた。見上げるほど大きな神輿が目抜き通りを練り歩く祭りがあり、姉と共に見に行った。くらやみに、ぼんぼりで照らされた人々の顔は紅潮していて、法被を着た沢山の人が大人の背丈ほどもある大きなうちわを上下に扇ぎ、神輿を先導していた。空を切り裂く甲高い笛の音と、腹に響く太鼓のリズムに人々の歓声がまざり、わたしは、姉に買ってもらったリンゴ飴を齧るのも忘れて、陶然としたまま、神輿を見上げていた。
家の庭には、海から運ばれてきたような小さな黄色や紫の花がちくちくと咲き、太陽の光が真上から差し込むような午後、わたしと姉は、小さく、長く、2人、縁側に重なって寝転んで、さるすべりのピンクの花を眺めて過ごした。姉は、うしろから手をまわし、ぎゅっとわたしを抱きしめて、痛いと言ってもなかなか離してくれなかった。わたしは、わたしの胸の前で結ばれた姉の手を包むように握って、じっとしていた。さるすべりの花弁が、陽光に貫かれ、ところどころ、白く光っていた。
去年までより、ずっと短いわたしの夏休みは、すやすやと過ぎていった。姉が仕事が休みの時は、居間のテーブルで一緒に宿題をやった。くりあがりの掛け算がなかなかできなくて、姉は額に汗をかきながら、わたしが分かるまで何度も教えてくれた。
自由研究は、かぶとむしがどれだけの重さを運べるかを調べた。消しゴムを5グラムとか10グラムの大きさに切って、糸でつのに結びつけて、木の蜜で誘って歩くかどうか調べた。蜜で誘ってもかぶとむしは気まぐれで、じっと動かないことが多かった。動かないかぶとむしを視界の端に捕らえながら、わたしは掛け算や割り算のドリルをやり、姉はわたしが順調そうだとスイカを切りに台所に立ったりして、結局、どちらも見ていない間にかぶとむしは、歩いてまんまと蜜をせしめたりしていた。そうやって、わたしの夏休みの日記は、何も変らない、この家と、近所のお祭りのことなどで占められて、毎日姉が出てきた。それでわたしは、充分満たされていた。
短く、吹き上がる一瞬の炎のような夏が去り、肌寒い風が吹くようになってきた頃、姉の仕事からの帰りが遅いことが増えてきた。宿題を終わらせ、姉が朝、置いていってくれたビスケットなどのお菓子も食べ終え、庭に集まって来ていた小鳥達もどこかへ飛び去り、遠く、漁火がちらつく時間になっても、姉は帰って来ない日もあった。そんな日、わたしは、テーブルにあごをのせ、全然笑えないテレビのお笑い番組を眺めながら、化石になった気分で姉の帰りを待った。玄関の引き戸が激しい音を立て、慌てたように開けられ、姉の声が響くと、心底ほっとすると共に、ふてくされた気持ちも膨れ上がった。なぜならそういう日、姉は詫びながらも花のようなうきうきした気分を背中や、肩のあたりに纏わせていて、それがわたしがこうして死んだ気分でテレビを眺めていた時間に姉に起きた、わたしには全然関係のない、関わる事のできない、姉だけの世界の何かによるものだと、本能で分かったから。そんなに楽しいならば、帰ってこなくていいよ。何度もそう言いかけて、飲み込んで、謝る姉に、わたしは非難の言葉以外の何かを見つけられず、黙り込んで、普段は姉の分を半分もらうくらい大好きなサバの味噌煮を箸でつついてぼろぼろに崩して、そのまま残したりした。
駅前のデパートの最上階にあるレストランは地上から見上げると円盤みたいな形をしていて、憧れの場所だった。でも、今、そのレストランの窓際のテーブル席に座って、わたしは早く帰りたい気持ちしかなかった。目の前の見知らぬ男を視界に入れたくなくて、うつむいて、出かけに、久しぶりの姉との外出だからと、喜んで選んだお気に入りのセーターの雪の結晶の刺繍をむやみに指でつまんだまま、ただこの重苦しい時間が過ぎるのを待っていた。スーツを着て現れた男は礼儀正しく、わたしにも優しく初対面のあいさつをしてくれた。
前の晩、会って欲しい人がいると姉から聞かされてはいたけれど、いざ面前に相手が立つと、あいさつも上手く出来なかった。姉の為にも、粗相の無いようにしなければと、頭で分かっていても、心は追いつかず、口は空回り、練習したはずの短い自己紹介の言葉さえ、口ごもった。何とか、わたしと男の仲をほぐそうと、姉が夏休みの自由研究の話を聞かせてやれと話題を振ってきた。わたしは、わたしなりに一生懸命話した。最後、かぶとむしを森へ逃がしにいったところまで男は軽く相槌を打ちながら聞いてくれた。そうしてわたしの研究を面白いと褒めてくれた。でも、そのあとで、姉に向かって、実は僕は虫が苦手で、かぶとむしもひっくり返すと脚がもぞもぞしていて、ちょっとね、と冗談めかして笑った。それを見て、わたしは、この人のことは嫌いだと思った。結局食事会はあまり盛り上がらず、その後で行く予定だった遊園地を姉は断った。謝る姉に、鷹揚に手を振り、かがんで目線を合わせて、また会おうと言う男の顔を、わたしはこの日、はじめてはっきり見た。笑い皺が鼻の両横に刻まれていた。
男と別れてから、姉は黙ったままだった。2人で黙ったまま駅前からバスに乗り、終点の1つ前の停留所まで長い間揺られ、戻ってきた。バス停のある幹線道路から家までの道を歩きながら、姉は初めて話しかけてきた。わたしは、今日会った人の事は、好きでも嫌いでもない。姉の好きなようにすればいいと答えた。その日から、だんだん、姉が帰るのが遅くなる回数は減っていった。一見、今までの生活が戻ってきたようだったが、姉はどこか、無気力に見えた。わたしは、それはわたしのせいだと感じていた。
引っ越して3年が過ぎた夏、家の前で打ち水をしていると、麦わらのハット帽をかぶった男が訪ねてきた。わたしを認めると、軽く片手をあげた。そのどこか芝居じみた身振りで、3年前の秋の初めのあの日のことを思い出した。あの日から、無気力に見えた姉はしかし、帰る時間を元に戻し、限られた時間で、あの男との関係を粘り強く続けていたようだった。そこに思い至った時、わたしは姉の女としての執念のようなものを感じた。そのことは、嫌な感じではなく、むしろ、どこかしら、喝采してやりたいようなすがすがしい気持ちをわたしに芽生えさせた。
しかし、男が訪ねてきた日、姉は前日から3日間、仕事の研修で隣県まで泊りがけで出かけていた。姉の不在を伝えると男は承知していたらしく、君に用があって来たと言った。
出した麦茶に、ありがたい、ここは停車場から遠くてねと口をつけると男は立ち上がり、客間のすりガラス越しに見える庭を眺めた。わたしは男と向かい合った位置で正座したまま、男の背中を見上げた。汗が肩甲骨のラインに沿って、ワイシャツにうっすらとあとを残していた。僕の実家の庭にも大きな、さるすべりがあったが、数年前の台風の直撃を受けてから、花がつかなくなってしまった、というようなことを男は独り言のように呟いた。わたしは軽く相槌を打ち、用件をうかがいましょう、と切り込んだ。男は、わたしの姉と交際していること、結婚も考えていること、君が望むなら3人で暮らしてもいいこと、ただしその時は、自分の仕事の都合上、横浜に越して来てもらう事になること、などを淡々と告げた。わたしは黙って聞き、男が話し終えるとわかりましたと頷いた。その態度に、わたしの気持ちを測りかねたのか、男は最後に、お姉さんをもう解放してあげたらどうだ、というような主旨の事を言った。わたしは少し考えて、かぶとむしは今でも苦手ですかと訊ねた。男は苦笑して、君はお姉さんによく似てる、そう言うと、長居を詫びて席をたった。
戻ってきた姉に、男が訪ねてきたことを告げると、姉はひどく動揺し、何を話したのか聞いてきた。わたしは男が言ったとおりの事を伝え、横浜へ転校しても構わないと言った。姉は本当かと何度も確認した。姉のしつこさに嫌気がさして、転校は慣れてるからとわざとそっけなく言って、自分の部屋へ戻った。しかし、姉を解放しろ、男の言葉が胸に残っていた。その日の夜、眠れずに、久しぶりに姉の部屋のドアを叩いた。返事があって、ドアを開けると、姉は机で書き物をしていた。入ってきたなり、ベッドに腰掛けたまま、何もしゃべらないわたしを残して姉は部屋を出ると、マグにココアを入れて戻ってきた。氷がカラカラ鳴った。それをわたしに渡し、扇風機の向きをわたしの方へ変えると、再び、書き物へもどっていった。その、前傾した丸い背中を見つめていると、数年前の夏の縁側を思い出した。背中から抱きしめられて、姉の体温が暑くて、痛くて窮屈なのに、眠くなるほどの強い安心感に包まれたこと。
わたしは、部屋に留まる理由を失うようで飲めずにいた最後の一口を飲みほすと、姉に礼を言って立ち上がった。結局何も言えなかったけれど、姉には伝わったと思った。部屋を出ようとした時、名前を呼ばれて振り返ろうとしたら、うしろから抱きすくめられた。ハッとして、手に持ったマグを落とさないように指に力を込めた。次の瞬間には、姉の腕は、身体はもう、離れていた。大きくなったね。耳に残ったのは、本当に姉が発した言葉なのか、わたしが聞きたかった姉の言葉なのか、わからなかった。
わたしの卒業を待って、春に2人の結婚式は行われた。
わたしは買ったばかりの中学の制服で、式に臨んだ。もっと華やかな服もあったけれど、この姿をこれから共に暮らす2人に誰より先に見せたかった。
父が亡くなってから、たくさんの人に頭を下げ、小さく無力だったわたしを守り続けてくれた姉。何ひとつ、返せていないからこそ、姉に、幸せになって欲しかった。
式が終わり、男の提案で、3人で写真を撮ることになった。カメラマンが3人の位置を調整し、では、撮りますよと言った時、式を挙げた神社の伽藍をめぐるように、大きく風が舞った。ぶわりと。はなびらが、さくらの、散って、思わず見上げたら、シャッターが切られていた。撮り直しは、しなかった。
出来上がった写真には、空を眺める男と、わたしの横顔と、2人を微笑んで見つめる姉が映っていた。(終)




