05 あまいあまいチェリーパイの出来上がり
朝に強いわけじゃない。
ただ、どうしたって深い眠りにつくことができなくなっただけ。
夢は嫌いだ。変えようのない過去を、まるで責めるように見せつけられるから。
浅い眠りを繰り返して、夢を見れば飛び起きて。一晩どころか何日も寝れない夜もあって。
希望も何もない朝を、いったいどれだけ寝ずに迎えたことだろう。
睡眠を取らなくとも死なない身体になってしまったことは、その点だけ考えれば幸いだったのかもしれない。
それが、今はどうだ。
「鳥が鳴いてる……」
半ば呆然と、窓の外の明るい空を眺める。
元気に鳴く鳥の声は、日の出が遅くなってきたはずの秋の朝を知らせてくれている。
はぁ、とため息をついてからベッドを降りる。
少し離れたベッドで寝ている小花ちゃんに目を向けて、もう一度ため息。
顔を洗って服を着替えて、さっぱりしてから寝室に戻っても、変わらず小花ちゃんはすやすやと眠りこけていた。
気の抜ける寝顔に苦笑しつつも、きっと自分も人のことは言えないと思えば苦々しい気持ちになる。
健やかな眠りを手に入れてしまった原因が、彼女の他にあるわけない。
今でも嫌な夢を見ることはもちろんある。
それでも、寝覚めに彼女の顔を見れば逆立った心が一瞬で安らいでしまう。
本来なら喜ぶべきことだ。いくら感謝しても足りないだろう。
ただ、あまりにも顕著な変化に、自分への呆れが先に立ってしまう。
小花ちゃんが寝汚くてよかった。彼女が早起きならいつも起こされるのは俺のほうになっていた。
俺がこんな格好悪い自尊心を持て余しているなんて、小花ちゃんは夢にも思わないだろう。
「まったく……」
すうすうと寝息を立てている彼女の頬を軽くつつく。
餅のように柔らかな頬がゆるんで、ふにゃりと間抜けな笑みを形作った。
この世の平和を煮詰めたような表情がなんとも小花ちゃんらしい。
卵料理を食べている夢でも見ているのかもしれない。
ここで、俺の夢だと自惚れられないのが悲しいところだ。
「小花ちゃん、起きて」
彼女の雄弁な瞳が見たくて、遠慮なく声をかける。
肩に手をやって揺さぶっても、ううんと小さくうめくだけだった。
ふと悪戯心がわき上がって、かわいい耳元に口を寄せる。
「起きないとキスするよ」
「ぬあっ……!」
がばっと勢いよく身を起こした小花ちゃんとぶつからずに済んだのは、元勇者としての反射神経がなせる技だ。
こんなところで能力を発揮することになるとはさすがに想定外すぎる。
まるでスーパーボールみたいだな、と女の子をたとえるのには相応しくないオモチャが脳裏に思い浮かぶ。
「それで起きられるのも、けっこう複雑なんだけど」
「お、おは、おはよ……」
小さなつぶやきは聞こえなかったのか、小花ちゃんはぼさぼさな髪もそのままに挨拶してきた。
「おはよう。約束どおりキスしていい?」
「やくそく!? 逆じゃない!? 私、ちゃんと起きたよ!!」
「ちぇ、騙されなかったか」
「そういうの、腹黒って言うんだよーー!!?」
何を今さら。
騙されっぱなしだった小花ちゃんは誰よりも知っているだろうに。
超ド級のお人好しな彼女なら、俺に騙されていた自覚がなくてもおかしくはないけれど。
「本当に起きる小花ちゃんが悪い」
「だ、だって、そりゃ起きるよ。キスだよキス。……言うだけで恥ずかしくなってきた」
だんだん顔を赤くする小花ちゃんは、ぼさぼさな髪でも寝間着姿でもかわいい。
贔屓目と言われようがかわいいものはかわいい。
かわいいからこそ、少々憎らしくもある。
「まったく、お子様なんだか乙女なんだか」
「正真正銘の乙女ですー!」
「はいはい、そういうことにしといてあげる」
話を切り上げて、さて朝食の準備でもするかと立ち上がろうとしたところで。
「っていうか、ケイトは、その……私にキスしたいとか、思うの?」
「は?」
火に油を注ぐ問いに、素で低い声が出た。
俺の反応で失言に気づいたのか、小花ちゃんは慌てたように手をバタバタと振る。
「だ、だって! いっつも三歳児扱いだし、女の子としての好きかわからないとか言うし! そ、そういうことしようとしないし!」
「……したいの?」
「し、たいかって聞かれると、その、なんか、ちょっとあれなんだけど……」
あれって何、あれって。
別に、恋人なんだからしたいと素直に認めてくれてもいいと思う。
……いや、小花ちゃんはいつだって素直だから、したいわけではなくて本当にあれなんだろうけど。
だから何なんだ、あれって。
「言っておくけど、俺がそういうことしようとしたとき、毎度毎度狙ってるんじゃないかってくらい雰囲気を木っ端微塵にするのは小花ちゃんだからね」
「……へ?」
心底不思議そうな顔で、小花ちゃんは首を傾げる。
合わせた目から伝わってくる感情もはてなマークであふれている。
そんなだから何もできないんだって、他でもない本人が一番わかってくれない。
「キス? したいに決まってるでしょ。昨日の今日でどうしてそんな疑問が出るのか本当に理解に苦しむんだけど。今、俺の関心は全部小花ちゃんに向かってるんだって、まだわからない?」
色気より食い気な小花ちゃんは、そういった甘い空気を読めないし読もうとしない。
純度100パーセントの信頼を向けられて、できることなんてせいぜい抱きしめたり、頬や額にキスするくらい。
ばかでおろかで、簡単に人の心に触れてくる小花ちゃん。
彼女の他愛ない言葉に、何気ない行動に、思春期のガキみたいに一喜一憂させられる。
人の気持ちも知らないで、と恨み言のひとつやふたつも言いたくなってしまう。
「ぜ、ぜんぶ……」
「そう。恋も愛も興味も情も、もちろん、性欲も」
「せっ……!?」
「誘ってるつもりなら遠慮なく乗るけど」
「さ、さそっ……」
衝撃が強すぎたのか何も言葉になっていない。
肌色がわからなくなるほど顔中、いや全身を真っ赤に茹だらせている。
今日のおやつには甘い甘いチェリーパイを作ってあげよう、とそのおいしそうな色を見ながら思う。
「一応俺は、今すぐにでも小花ちゃんを押し倒していい立場にいるはずだよね。新婚だし」
あごの下を持ち上げるようにして顔を近づける。
甘く俺を誘う果実はすぐそこにある。
近くて、でもこの上なく遠い。
「偽装! 偽装だよね!?」
「両思いで印つけてて、あと何が必要? 戸籍なんてないんだから、偽装も何もないよ」
寝るときも外させないために、肌に馴染むよう作った腕輪ごと手首を包み込む。
こんな、独占欲の塊みたいな贈り物をつけておいて、本当に何を今さら。
利便性を説いた俺も俺だけど、簡単に丸め込まれる小花ちゃんが心配でならない。
指先で腕輪と手の甲をなぞるように触れると、小花ちゃんはひぇぇと情けない声を上げた。
「け、けけけけいとっ」
「そんなに期待されてるなら応えないわけにはいかないかな?」
「ま、ま、待って待って待って! 期待! してない!!」
嫌なわけじゃないんだけど! 色々、その、足りてないっていうか! なんか、あの、覚悟とか!
文法もめちゃくちゃに、その口から出るのは拒絶だけ。
嫌なわけじゃないのなんて、目を見なくたってちゃんとわかっている。
俺のために多くのものを捨ててくれた彼女の好意を今さら疑ったりはしない。
小花ちゃんと過ごす毎日が幸せで、幸せだからこそ、もっと欲しくなる。
俺が無駄に長生きしているから、という点を差し引いても、小花ちゃんはまだまだ子どもだ。高校生というより小学生くらいに見えることもある。
小花ちゃんのその純粋さは美点でもあるけれど、みっともなく焦れてしまうのは、それだけ俺に余裕がない証拠だろう。
もっと、もっと。
俺だけになってしまえばいいのに。
心も身体も俺でいっぱいになってしまえばいいのに。
今の俺みたいに、たった一人のことで感情が振り切れて、制御できないくらいぐちゃぐちゃになってほしい。
そんな小花ちゃんは、悲しいかなまったく想像つかないけれど。
「まったく、小花ちゃんは男の生理を甘く見すぎ」
「す、スミマセン……」
今日のところは勘弁してあげよう、と普段どおりの距離に戻る。
申し訳なさそうにうつむく小花ちゃんは、ほんの少しくらいは俺の渇望を理解してくれたんだろうか。あまり期待はできない。
俺に安眠をくれるのも、眠れない夜をくれるのも、今は小花ちゃんただ一人。
自覚の足りない彼女が小憎らしくて、でも、それ以上にいとおしい。
誰よりも守りたい存在を、悲鳴すら飲み込むように食べ尽くしてしまいたくなる。
心に巣食う獰猛な獣は、その時を今か今かと待っているから。
いつまで待てるかな、と俺は小さくため息をつくのだった。




