別れ際
別れ際、手が離れる瞬間がいつまで経っても馴れない。ありもしない痛みを感じてしまうほどに。
もちろんそれはその日も同じで、駐輪場に向かう最中、気付けば手のひらで胸をさすっていた。
少し前、仲のいい知り合いに痛みの正体に心当たりはないかと聞いてみた事がある。仲がいいとは言っても僕より一回りも年上の彼なら、コレの正体を見た事があるかもしれない。そんな風に思ったのだ。けれど返ってきた答えはどうにも彼らしくない答えで、結局僕は答えの出ない疑問を一つ余計に抱える羽目になってしまった。
「それが寂しさからなのか別の不安からなのかは知らないが、ドコが痛んでるかなら答えられるかもな」
いつも通りの無表情のままそういった彼は、立てた親指で自分の胸の真ん中あたりをとんとんと叩いた。それが妙に似合わないというか、普段の彼の言動とかみ合わないジェスチャーで、あんたらしくもない答えだと笑った僕に彼はさらに一言付け足したのだった。
「お前のこころが今どこにあるのか、それを考えてみるんだな」
考えた結果、僕の右の手のひらは胸をさするようになってしまったのだけど、それによって何かが変わるような気配はさらさら無かった。ただなんとなく、こころといえば胸の辺りにあるような気がしただけだったのだから、当たり前といえば当たり前だったのだけれど。自転車にまたがった後も、家に帰って風呂に入っても、布団をかぶって目を閉じても、その痛みは僕のなかでじりじり疼いてなかなか消えてくれない。
派手にこじらせたものだなと、自分でも思う。多分、この痛みに際限はない。仮にいっしょに暮らすようになったとしても、あらゆる別れ際が苦しくて仕方なくなるだけだ。やがて仕事も手につかなくなって、彼女にも呆れられて、独りになった僕の行き着く先は、少なくとも幸せとは間逆の場所。
前に話してから数週間後、僕は再び彼の働く喫茶店へと足を運んでいた。カウンター席に腰掛けてコーヒーを頼んですぐ頭を抱えた僕の後頭部に、「おまえは俺の話を聞いてたのか」と呆れた返ったような彼の声が降ってきた。
「こころは何処にってやつ?」
視線は上げず、カウンターの木目に向かって質問を返す。見なくてもわかる、だって彼はいつだって無表情なのだから。無表情のまま、それでも僕を見下ろす視線は呆れに染まっているんだろう。
「・・・何処だと思う?」
改めて考えてみたところで、それらしい答えは見あたらない。いや、思い当たる場所は一つあるのだが、というか一つしか思いつかないのだけれど、痛みが走る度そこをさすったこの数週間、症状が改善された様子はない。
「ここ、じゃないのか?」
ようやく視線を上げた僕がそう言いながら、この間の彼よろしく親指で胸の辺りをさすと、彼はそれを見てますます呆れたような声を出した。
「それは痛んでる場所だ」
「・・・わけわかんね」
「少しは頭を使ったらどうだ」
地味にムネに突き刺さる言葉とともに、白いカップが差し出される。コーヒーが出てくるまでの時間は相変わらず、早い。料理の腕もまずまずなのだから
「あとはその無愛想と遠まわしな言い回しをどうにかすればはやると思うんだけどな」
「・・・どっちももうどうにもならんよ」
「どうしてさ」
「俺のこころのありかがそれを望んでいないんでね」
カウンターの向こう側でいすに腰掛けた彼は、表情にほんの少しの悲痛をまぜて、それでもいつもの無愛想さは崩さずにそう呟いた。その視線は、店内ではないどこかを捉えているかのように焦点がボヤケている。少なくとも僕が覚えている限りでは初めて見る顔だった。彼がいつもと違う表情を見せるのは、店でかけているレコードのことを語るときに頬が僅かに緩むくらいで、それもよほど熱くなったときにたまに出るかでないか程度で、それ以外の表情の変化を見ることなど、世界の終わりでも来ない限りないだろうと思っていた。
一瞬息をのんだ僕の様子をどう捉えたのかは判らないが、こちらに訝しげな視線を向けた彼はいつもより低い声で、「なんだ」と訊ねてきた。
「・・・・・・あんたのこころは今ドコに?」
「さあな。それを聞いてどうする」
「ほら、参考にになるかもしれないだろ?」
「なら教えてやるわけにはいかないな」
なんだよけちくせー。そういった僕を鼻で笑った彼は顎でカップを指して「冷めるぞ」と一言。促されて口を付けたコーヒーは既に少しぬるくなり始めていた。
幸せだな、お前も。その彼女とやらも。伝票を手に立ち上がった僕を見て彼はそう言った。独りごちるような、呟くような声だった。それがどうしようもなく気になってしまったのだ。
「今日は珍しいね」
意識するより早く出てしまった一言だった。しまったなと思ったがもう遅い。千円札は渡してしまった後だ。
「なにがだ」
コーヒーは一杯三百円。しかし残念ながらお釣りが返ってくる気配はない。僕は観念して首を軽く振った。
「今日はやたら感情の動きが激しいみたいだなって、そう思っただけだよ。昔を懐かしむ、っていうか感傷に浸ってるっていうか。あんまり楽しい思い出じゃないみたいだけど。あんたがそう言うの隠しきれないなんて珍しいなって、さ」
あ、顔に出てたとかそう言う訳じゃないから安心していいよ。両手で顔をゴシゴシこすり始めた彼にそう言ってやると、最後に目元を何度かこすったかと思うと虚空を見つめたまま動きを止めた。
もしかすると触れてはいけない何かに触れてしまったのだろうか。喫茶店のマスターと客という関係から、年の離れた友達という関係に変わってからそれなりに長い時間がたってはいたが、僕は彼のことをほとんど知らなかった。彼自身あまり話そうとはしなかったし、僕は僕でわざわざ聞き出そうともしなかったから。そのせいで、僕は何かとんでもない失敗をしたのかもしれない。
ごめん、と言いかけた僕より一瞬早く、彼が「心配要らん」と口を開いた。
「その痛みの正体なんてそのうちいやでも判る時がくる。寧ろ慌てるだけ損だ。そのときになればこころの在処も自ずと判るさ」
そう言うと俺の手元に千円札を戻した。俺が何かを聞くより先に、「今日はおごってやるよ」とレジを閉じて、そう、信じられないことに、ニッと笑ったのだった。
相変わらず正体不明の痛みは、彼女との別れ際に現れては僕を苛んだ。そのたびに胸をさする癖は抜けないし、こころの在処も判らないままだったが、それを考える度に、彼があの日見せた笑みが過ぎるのだった。