婚約破棄で追い落とした令嬢の娘が、大国の王女になって息子の同級生になり、毎日が地獄です
<エミリア視点>
学院の正門の前で、吟遊詩人が歌っていた。
弦を三本しか張っていない古びたリュートで、声だけは朗々と、春の朝の空に響かせている。足を止めた新入生の親たちが、銅貨を投げる。投げられるたびに、歌い手は帽子を胸に当てて一礼し、また同じ節に戻った。
身分の垣根を越えて
王子は白百合の手を取った
黒薔薇の棘に傷ついた
小さな白百合の手を
エミリアは、馬車の窓に掛けた薄布越しに、その歌を聞いていた。
十六年。
この歌は、十六年歌われ続けている。酒場で、市場で、婚礼の席で、学院の門の前で。王都で生まれた子どもは、言葉より先にこの節を覚えると言う者さえいる。劇場では『白百合と黒薔薇』が三月に一度は掛かり、そのたびに満席になる。
白百合が、自分だった。
王妃になってからの十数年が、楽だったとは言わない。男爵家の娘に、王家の作法は何ひとつ身についていなかった。侯爵家の養女という衣を着せられ、朝から晩まで歩き方と、笑い方と、扇の開き方と、文の結び方を叩きこまれた。教師たちは口をそろえて、前の方はこうなさいました、と言った。夫も言った。
それでも、この歌を聞くたびに、エミリアは思う。私は勝ったのだ、と。
「母上」
向かいの席から、ルーカスが身を乗り出した。真新しい学院の制服は、まだ肩のあたりが少し余っている。十三になったばかりの息子は、背ばかり伸びて、顔はまだ子どもだった。
「あの歌、門の前でも歌うんですね」
「ええ。毎年、入学式の日にはね」
「僕、ちょっと恥ずかしいです。みんな、僕が王子だって知ってるのに」
そう言いながら、ルーカスの頬は赤く、目は輝いていた。恥ずかしいのではなく、誇らしいのだ。
エミリアは、扇の陰で微笑んだ。
「父上と母上のような恋を、僕もいつかしたいです」
「まあ」
「本当です。身分も、周りの声も関係なく、正しいと思った人の手を取れるような」
この子は、本気でそう言っている。
エミリアは手を伸ばして、息子の襟元の小さなしわを直した。指先が少し震えたのは、喜びのせいだと、自分でも思った。
この子のためなら、何でもできる。
この子が誇りに思う母でいるためなら。
◇
<エミリア視点>
来賓席の隣は、空いていた。
国王陛下はご体調が優れず、と侍従長は告げた。エミリアは「まあ、お大事に」と言い、扇を開いた。
夫が今朝どこにいるのかは、知っている。王都の西の、蔦の絡んだ屋敷だ。去年の秋から通っている、劇場の歌姫の家。その前は、伯爵家の未亡人だった。その前は、覚えていない。
息子の入学式くらい。
そう思う心を、扇の内側で畳む。王妃が来賓席で顔を曇らせれば、明日には街じゅうの噂になる。真実の愛の物語に、ひびを入れてはならない。それは国のためであり、何より、自分のためだった。
大講堂の天井は高く、ステンドグラスから落ちる光が、床に色を撒いていた。
今年は、大国ヴェステリアから王女が留学してくる。その母である王妃も同行し、しばらく滞在する。ひと月前、外務卿からそう聞かされていた。滞在先はラヴァル公爵家だという。
それを聞いたときも、エミリアは何とも思わなかった。ラヴァル家は先代の頃から、大国の使節が来るたびに屋敷を貸してきた家だ。勘当された娘のことなど、とうに誰の口にも上らない。大国の王妃が泊まるなら、あの家が選ばれるのは当然だった。
学院長の祝辞が終わり、来賓の紹介が始まった。近隣諸国の大使。大貴族の当主たち。
「ヴェステリア王国より、本年度の国賓留学生として、オデット王女殿下」
前列の新入生の中から、一人の少女が立ち上がり、優雅に一礼した。栗色の髪を背中で一つにまとめ、背筋がまっすぐに伸びている。十三という年齢よりも、少し大人びて見えた。
ルーカスが、首を伸ばしてその後ろ姿を見ているのが分かった。
「ならびに、ご同行のヴェステリア王国王妃、セレスティーヌ陛下」
セレスティーヌ。
耳の奥で、何かがかすかに引っかかった。エミリアはすぐに、それを払いのけた。ヴェステリアでは、ありふれた名だ。あの国の守護聖女の名なのだから、宮廷の女の三人に一人はそう呼ばれていると聞く。
来賓席の端で、一人の女が立ち上がった。
深い青のドレス。銀の髪飾り。黒髪を、大国の流行に従って高く結い上げている。
女は、立ち上がるときに、ほんの少しだけ裾を払った。
エミリアの指から、扇が滑りかけた。
その癖を、知っていた。
顎の線。首の傾け方。十六年前、生徒会室の窓辺で、図書室の書架の前で、何度も盗み見た横顔だった。かつて真っ直ぐに下ろしていた髪の形が変わっても、見間違えようがなかった。
セレスティーヌ・ド・ラヴァル。
十六年前、この大講堂の真上にある大広間で、エミリアが王子の腕の陰から見送った女だった。
拍手が起きた。大国の王妃に向けた、礼儀正しい拍手だった。
エミリアも手を叩いた。手のひらが、自分のものではないように冷たかった。
◇
<エミリア視点>
式のあと、講堂の前庭で歓談の時間が設けられた。
王家の代表として、エミリアは来賓に挨拶をして回らなければならない。順番は決まっている。そして順番の中に、大国の王妃は入っている。入っていないはずがなかった。
セレスティーヌは、前庭の白い薔薇の植え込みのそばに立っていた。大使の一人と話していたが、エミリアが近づくと、話を切り上げて向き直った。
「ロゼール王国の王妃陛下」
セレスティーヌは、完璧な礼をした。
膝の折り方。頭の下げ方。指先の角度。王妃教育の教本に描かれた図を、そのまま立ち上がらせたような礼だった。エミリアが十年かけて身につけたものを、この女は十七のときにはもう持っていた。
「お初に、とは申し上げられませんわね」
セレスティーヌは顔を上げ、微笑んだ。穏やかで、温かい微笑みだった。
「お久しぶりでございます。ご子息のご入学、心よりお祝い申し上げます」
「……ご丁寧に。ヴェステリアの王妃陛下も、王女殿下のご留学、おめでとうございます」
声は、震えなかった。震えさせない訓練なら、嫌というほど受けた。
「娘が、こちらの学院にどうしても通いたいと申しまして。わたくしの昔話を、聞かせすぎたのかもしれませんわ」
セレスティーヌは、講堂を見上げた。その視線が、二階の窓の列をなぞる。
「懐かしいわ。上の大広間は、まだあのままかしら」
エミリアの喉が、ひくりと動いた。
「わたくし、最後の夜は、踊らずに帰ってしまったから」
言葉そのものには、何の棘もなかった。
卒業の夜会で踊れずに帰った。ただの思い出話だ。周りで聞いている大使たちには、そうとしか聞こえないだろう。
けれど、エミリアには聞こえた。
あの夜を、覚えているでしょう、と。
「……大広間は、今も夜会に使われておりますわ」
「そう。よかった」
セレスティーヌは、それ以上何も言わなかった。次の来賓が近づいてきたのを見て、優雅に会釈をして、そちらへ向き直った。
エミリアは、薔薇の植え込みのそばに一人で立っていた。
白い薔薇が、やけに強く匂っていた。
◇
<エミリア視点>
あの女には、罪などなかった。
エミリアは、それを誰よりもよく知っている。罪を作ったのは、自分なのだから。
学院に入ったとき、エミリアは十五だった。男爵家の三女で、持参金の当てもなく、母からは「顔だけは悪くないのだから、せめて良い家の次男でも捕まえておいで」と送り出された。
次男で終わるつもりはなかった。
王子には婚約者がいた。ラヴァル公爵家の令嬢。成績は常に首席で、生徒会の書記を務め、誰に対しても公平で、誰に対しても冷たかった。少なくとも、エミリアにはそう見えた。
身分ばかり高い、愚かな女だと思った。あれほど何もかも持っていながら、王子の心ひとつ繋ぎとめられないのだから。
王子が婚約者を疎んじていることは、すぐに分かった。二年の秋の討論会で、王子が古い条約の年号を間違えたとき、公爵令嬢は静かに手を挙げて、正しい年号を述べた。会場が少しざわめいた。王子の耳が赤くなった。
その日から、王子は婚約者の話をするとき、必ず「あの女」と言うようになった。
だから、エミリアは近づいた。
三度話しかけられたら、一度だけ笑った。目が合ったら、先にそらした。王子が欲しがっていたのは、自分を正す女ではなく、自分に見とれる女だった。けれど、すぐに見とれてはいけない。手に入りそうで入らない女でなければ、あの王子は退屈するだろう。
罪は、三つ作った。
一つ目は、脅迫状だった。公爵令嬢は生徒会の書記として、エミリアに一度だけ、行事の連絡の書き付けをよこしたことがある。その筆跡を、何週間もかけて真似た。『身の程を知りなさい。これ以上殿下に近づけば、ただでは済みません』。自分あてに書いて、自分の机の中に入れた。
二つ目は、階段だった。西棟の階段で、本当に転んだ。わざとではなかったが、すぐ上の踊り場に公爵令嬢がいた。脛に大きな痣ができた。その日のうちに、同室の侍女に銀貨を三枚握らせた。「あの方が押すのを見た」と言いなさい、と。
三つ目は、卒業夜会の直前だった。控えの間で、ほんの短いあいだ、公爵令嬢と二人きりになる時間があった。彼女が出ていったあと、エミリアは自分のドレスの胸元に、テーブルの赤ワインを注いだ。それから、泣きながら大広間に出ていった。
どれも、すべてが嘘ではなかった。手紙はあった。痣はあった。二人きりの時間はあった。本当のことの中に、嘘を一つずつ混ぜただけだ。
そして王子は、確かめなかった。確かめる必要がなかったのだ。あの女が悪女であってほしかったのは、王子のほうだったのだから。
悪いことをしたとは、思っている。
けれど、後悔はしていない。
あのまま男爵家の三女で終わっていたら、ルーカスはいなかった。この馬車も、この絹の手袋も、門の前のあの歌もなかった。あの女は何もかも持って生まれ、自分は何も持たずに生まれた。持たない者が手に入れようとすれば、誰かから取るしかない。それだけのことだ。
十六年間、誰も真相を暴かなかった。
暴かれなかったのではない。誰も、調べようとしなかったのだ。公爵が娘を勘当して国外に追放したと発表した瞬間、世間はそれを「罪を認めた」と受け取った。正式な審理は開かれなかった。先王は病床で、王太子の報告と公爵家の届出を並べて、ただ署名した。
だから、記録に残っているのは、王太子の申し立てと、公爵家の勘当届と、先王の承認だけだ。罪状は、王子の言葉のまま書き写されている。その記録が、十六年間、エミリアを守ってきた。
あの女さえ、この国に戻ってこなければ。
◇
「母上」
馬車に乗りこんだところで、ルーカスが言った。窓の外では、来賓たちがそれぞれの馬車へ向かっている。
「さっきの方が、ヴェステリアの王妃陛下なんですね」
「ええ」
「すごく、きれいな方でした」
ルーカスは、窓に額を寄せて、外を見ていた。
「ラヴァル公爵家のご出身だって、先生が言っていました。この国の方だったなんて、知りませんでした」
そうだろう、とエミリアは思った。
この子は、あの歌を誰よりもよく知っている。劇も三度は見ている。それでも、黒薔薇がどの家の娘だったのかは知らない。
事件のあと、王家は、悪女の名と生家の名を公の場で口にすることを禁じた。娘を勘当して恭順を示した公爵家の体面を、守るためだった。歌も劇も、だから「黒薔薇」とだけ呼ぶ。十六年経った今、あれがどの家の娘だったかを口にするのは、古い貴族たちの内輪の話くらいのものだ。
ルーカスが七つのとき、一度だけ聞かれたことがある。黒薔薇は、本当は何という人だったのですか、と。
エミリアは、息子の髪を撫でて答えた。その方にも、家族がいらっしゃるのよ。お名前は忘れてさしあげるのが、王族の優しさなの、と。
ルーカスは目を輝かせて頷き、それきり二度と聞かなかった。母上はお優しい、と、その夜、乳母に話していたという。
「母上は、あの方とお知り合いなのですか?」
ルーカスが振り返った。
まっすぐな目だった。父親には似ていない、まっすぐな目。
「いいえ」
エミリアは、扇を閉じた。
「昔、少しお見かけしただけよ」
ルーカスは「そうなんですか」と頷き、また窓の外に目を戻した。
馬車が動き出した。
講堂の前の石段の上で、セレスティーヌが娘の髪飾りを直していた。銀の小さな髪飾りが、少し傾いていたのだろう。娘が何か言い、母親が笑う。
それから、セレスティーヌは顔を上げた。
走り出した馬車の窓越しに、目が合った。
セレスティーヌは、微笑んでいた。
◇
<アルベルト視点>
謁見の間の玉座で、アルベルトは欠伸を噛み殺していた。
昨日の入学式は、欠席した。王都の西の屋敷で、歌姫の新しい歌を聞いていたからだ。息子の晴れ姿なら、肖像画家に描かせればいい。
今日は、ヴェステリアの王妃の謁見だった。娘の留学について来た、大国の王の妻。挨拶を受けて、晩餐を共にして、それで終わる。退屈な務めだった。
ひと月前に届いた大国の書簡は、紫の封蝋で閉じられていた。
『我が妃は、此度の王女留学に伴い、貴国にて暫しの滞在を望んでいる。滞在中は、古くより我が王家と交誼あるラヴァル公爵家に世話を頼むこととした。貴国におかれては、ゆっくりと過ごさせてやってほしい』
ラヴァル公爵家の名を見ても、アルベルトは何とも思わなかった。あの家は先代の頃から、大国の使節が来るたびに屋敷を貸してきた。羊毛と塩の取引で、向こうの王家とは古いつき合いがある。大国の王妃が泊まるなら、あの家以外にない。
『なお、同家にはかつて、貴国において処分を受けた者があったと聞き及んでいる。婚約は解消され、生家からも追放されたのであるから、貴国における処分は既に済んでいるのだろう?』
その一文を読んだとき、アルベルトは笑った。
大国も、妃の宿にけちがつくのを嫌ったのだろう。悪名高い黒薔薇を出した家に、自分の妻を泊めて、あとで面倒が起きては困る。そういう念押しだ。
済んだに決まっている。あの女は、俺が捨てた。今頃は異国の修道院か、どこかの路地で朽ちているだろう。
丁重に書いておけ、と宰相に命じた。歓迎する、処分はとうに済んでいる、ゆっくりされよ、と。
書簡には、妃の名さえ書かれていなかった。目録の添え書きにはあったのかもしれない。読まなかった。他国の王妃の名など、覚える気もなかった。
「ヴェステリア王国王妃、セレスティーヌ陛下、ご入来」
侍従の声が、謁見の間に響いた。
扉が開き、一人の女が入ってきた。
深い緑のドレス。大国の宝石。高く結い上げた黒髪。
女は、玉座の前まで、迷いのない足取りで進んできた。そして、ほんの少しだけ裾を払ってから、膝を折った。
アルベルトの指が、肘掛けの上で止まった。
その癖を、知っていた。
「ロゼール国王陛下。お招きいただき、光栄に存じます」
女が顔を上げた。
十六年前、卒業夜会の大広間の真ん中で、泣きもせずに自分を見上げていた顔だった。
セレスティーヌ・ド・ラヴァル。
玉座の背に、冷たい汗が滲んだ。
かつて処分を受けた者。
ひと月前に笑い飛ばした一文が、まるで違う意味をもって、頭の中に浮かび上がった。大国は、知っていたのだ。何もかも知っていて、名も書かず、旧い家名も書かず、ただ「処分は済んでいるのだろう?」と尋ねた。
そして自分は、済んでいると答えた。自分の手で、署名して。
今さら十六年前の罪を持ち出して、この女の帰国を拒むことはできない。
済んでいると、自分で言ったのだから。
腹の底が煮えた。
かつての臣下の娘。自分が大広間の真ん中で裁き、国から叩き出した女。その女が、自分に拒むことのできない立場で、自分の国へ帰ってきた。大国の王の妻として。大国の力を背負って。
怒鳴りつけてやりたかった。何の顔をして戻ってきた、と。
できるはずがなかった。ヴェステリアが本気になれば、この国は一冬もたない。アルベルトは、それを誰よりもよく知っていた。知っているからこそ、喉元まで上がってきた言葉を、奥歯で噛み潰した。
昨日の入学式に、エミリアは出ている。この女と、顔を合わせたはずだ。
あの女は、何も言わなかった。夫に、ひと言も。
役に立たない女だ、とアルベルトは思った。
◇
十六年前のことは、よく覚えている。
あの女は、可愛げのない女だった。
生まれだけで王子の婚約者の座に座り、成績が良いことを鼻にかけていた。少なくとも、アルベルトにはそう見えた。討論会のことは、今でも腹が立つ。たかが条約の年号ひとつ、言い間違えたくらいで、わざわざ手を挙げて訂正した。王子に恥をかかせて、何が楽しかったのか。
だから、エミリアが泣きながら打ち明けてきたとき、アルベルトは少しも驚かなかった。あの女ならやるだろう、と思った。
脅迫状を見た。あの女の字だった。侍女の証言を聞いた。押すのを見たという。ワインで汚れたドレスを見た。どれも、十分だった。
証拠を自分で確かめたかと問われれば、確かめていない。確かめる必要があったとは、今でも思わない。あの女が、そういう女だったことは、婚約者だった自分が一番よく知っているのだから。
卒業夜会で、婚約を破棄すると告げたとき、あの女は泣かなかった。顔色ひとつ変えず、「身に覚えがございません」とだけ言った。
周りの者たちが囁いた。泣きもしないのか、と。冷たい女だ、と。アルベルトも、そう思った。
父王は病床にあった。王太子として、国のために決断したのは自分だ。その夜のうちに公爵が娘を勘当し、国外に追放したと届け出てきた。罪を認めて逃げたのだ。それ以外に、どう取れというのか。
父王は翌朝、すべてに署名した。
あれは、正しい決断だった。
王国の誰もが、そう言っている。歌にまでなっている。
◇
「……久しいな」
ようやく、それだけ言えた。
「はい。陛下も、お変わりなく」
セレスティーヌは、微笑んだ。
責める色は、どこにもなかった。恨みも、怯えも、卑屈さもなかった。
アルベルトは、改めて女を眺めた。
背が、少し高くなった気がした。いや、背筋の伸ばし方が違うのだ。十七の頃のあの女は、王妃教育の教本どおりの、どこか張りつめた立ち方をしていた。今は違う。肩の力が抜けて、それでいて少しも崩れていない。深い緑のドレスが、大国の宝石が、この女のためにあつらえられたように似合っている。
声も、変わっていた。低く、柔らかく、よく通る。
煮えていた腹の底に、別の熱が混じりはじめた。
自分より上の椅子に座っている女。自分が捨てた女。
不快だった。それなのに、目が離せなかった。
◇
晩餐は、王宮の小広間で開かれた。
大国の外務官が、贈答品の目録を読み上げた。ヴェステリアの銀器。北方の毛皮。東の香料。そして、南方の赤ワインが十二樽。
「ロゼール王家の皆さまのお好みを、事前に伺っておりましたので」
外務官がそう言い添えると、セレスティーヌが静かに頷いた。
「陛下のお好みは、昔から変わらないと伺いましたので」
アルベルトは、杯を持ったまま、手を止めた。
南方の赤。学院の頃から、自分が好んできた酒だ。
覚えていたのだ、とアルベルトは思った。十六年経っても、この女は、自分の好みを覚えていた。
晩餐の途中、大国の随員の一人が、世間話のように言った。
「そういえば、お国の『真実の愛の歌』は、我が国の港町でも歌われておりますよ。船乗りたちが覚えて帰るのでしょうな」
アルベルトは、思わず笑った。
大国にまで自分の物語が広まっているのは、悪い気はしなかった。
セレスティーヌのほうを見た。
彼女は、ただ微笑んで、小さく頷いていた。
「そうか。大国でもか」
アルベルトは杯を掲げた。
「いずれ、本物の吟遊詩人に歌わせて、王妃陛下にもお聞かせしよう。港町の船乗りの歌とは、まるで違うぞ」
「楽しみにしておりますわ」
セレスティーヌは、そう答えた。
この女は、俺を責めない、とアルベルトは思った。
捨てられた男の物語を、大国でまで聞かされて、それでも微笑んでいる。俺の好みを覚えている。歌を楽しみにしているとまで言う。
この俺に未だに未練があるのだ。
そうでなければ、説明がつかない。
アルベルトは、テーブルの向こうの女を眺めた。蝋燭の光に照らされた白い首筋。杯に触れる指。
十六年前にも、あの首筋は同じところにあったはずだ。婚約者だったのだから。
一度くらい、手を出しておけばよかった。
あの頃は、可愛げのない女だと思っていた。
それがどうだ。今のあの女の微笑みを、大国の王は毎晩、独り占めしている。本来なら、自分のものだったはずの微笑みを。
隣の席で、エミリアが黙って肉を切っていた。
アルベルトは、妻のほうを一度も見なかった。
◇
晩餐のあと、寝室の前の廊下で、アルベルトはエミリアを呼び止めた。
「見たか、セレスティーヌを」
エミリアが振り返った。蝋燭の明かりの中で、その顔は少し青ざめて見えた。
「見違えたな。昔は棒のような女だったが」
「……そうでございますね」
「お前も、少しは見習ったらどうだ。あの立ち居振る舞い、あれが本物の王妃というものだ」
エミリアは、何も言わなかった。
扇を握る手に、ひどく力が入っているのが見えた。
「それにな」
アルベルトは、声を落として笑った。
「あれは、まだ俺を忘れていないぞ」
「……陛下」
「十六年も経ち、大国の王妃になって、それでもだ」
エミリアの顔から、血の気が引いた。
アルベルトは、それを見下ろして、口の端を上げた。
嫉妬か。
十年以上も連れ添って、この女がこんな顔をするのは久しぶりだった。可愛いところもあるではないか。
「心配するな。俺の妻はお前だ」
そう言って、アルベルトは自分の寝室の扉を開けた。
妻の寝室ではなく。
扉が閉まる直前、廊下に立ったままのエミリアが見えた。
まるで、そこに置き忘れられた燭台のように、動かずにいた。
◇
<エミリア視点>
ラヴァル公爵家の交流会は、娘の帰郷を祝うという名目で開かれた。
十六年前に勘当したはずの娘の帰郷を、公爵家が祝う。
その奇妙さを口にする者はいなかった。相手は大国の王妃であり、公爵は、表向きずっと王家に忠実だった。王家が招待を受ければ、貴族たちも来ないわけにはいかない。
エミリアは、王家の代表として出席した。夫は、後から顔を出すと言った。
公爵邸の広間は、古い家らしい落ち着いた造りだった。暖炉の上に、代々の当主の肖像が並んでいる。
客たちは、杯を手に、それぞれ小さな輪を作っていた。輪と輪のあいだを、セレスティーヌが、父親の公爵とともにゆっくりと巡っている。
どの輪も、彼女が近づくと、少しだけ形を崩した。
礼はする。笑顔も作る。話だけが、長く続かない。彼女が離れていくと、輪はもとの形に戻り、何人かが目を見交わす。
エミリアの近くの輪で、誰かが小声で言った。
「黒薔薇の方、ね」
エミリアは、杯を唇に運んだ。
安堵が、喉を落ちていった。世間は、まだ覚えている。十六年分の歌が、そう簡単に消えるはずがない。
◇
セレスティーヌが最初に足を止めたのは、窓辺の長椅子だった。
そこに、ブランヴィル伯爵家の老夫人が座っていた。七十を過ぎて、杖を手放せなくなっている。
十六年前、あの女の悪評を、いちばん大きな声で広めたのがこの夫人だった。サロンからサロンへ、黒薔薇の噂を運び歩いた。エミリアは、そのことをよく知っている。夫人のサロンで、涙ながらに打ち明け話をしたのは、エミリア自身だったから。
セレスティーヌは、夫人の前で膝を折った。
「ブランヴィル伯爵夫人。お久しゅうございます」
夫人は、杖を握ったまま、硬い顔で見上げた。
「……ヴェステリアの王妃陛下」
「伯爵様のことを、父から聞きました。三年前の冬に」
夫人の口元が、わずかに動いた。
「伯爵様のお庭の白い薔薇を、覚えております。たしか、南の修道院から苗を分けていただいた品種で、伯爵様がご自分で接ぎ木をなさっていた。学院の頃、一度だけ見せていただきましたの。あれは、今も咲いておりますか」
夫人は、しばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「……よく、覚えていらしたこと」
それだけだった。夫人は杖を突いて立ち上がり、会釈もそこそこに、別の部屋へ移っていった。
セレスティーヌは、気を悪くした様子もなく立ち上がり、次の輪へ向かった。
エミリアは、夫人の背中を目で追った。
勝った、と思いかけた。あの夫人は、まだ許していない。
けれど、その日以降、夫人はもう一度も「黒薔薇」とは言わなかった。
ほかの客がその言葉を口にしたとき、夫人が黙って杖の先で床を一度叩いたのを、エミリアだけが見ていた。
◇
エミリアにも、務めがあった。
王家の代表として、主催の公爵に祝辞を述べる。広間の中央で、杯を掲げて。
祝辞の文は、前の晩に三度書き直した。言葉の選び方、息継ぎの場所、杯を掲げる高さ。十年かけて身につけたものを、ひとつ残らずそこに込めた。
「ラヴァル公爵閣下。ご息女の、つつがなきご帰郷を、王家を代表して心よりお祝い申し上げます」
完璧だった。自分でもそう思った。
拍手が起きた。
公爵は、深々と礼を返した。
「王妃陛下のお言葉、身に余る光栄にございます」
穏やかな声だった。礼も、言葉も、非の打ちどころがなかった。
ただ、顔を上げた公爵の目は、少しも笑っていなかった。
エミリアは、杯を下ろしながら、背中に汗が伝うのを感じた。
この老人は、知っているのかもしれない。何もかも。
◇
財務卿のデュラン伯は、暖炉の前で、羊毛の話をしていた。
「北の牧場の羊毛が、この二年、まるで売れんのです。関税を下げても、買い手がつかない。商人どもは、品質が落ちたと言いますが、そんなはずはない」
輪の中にセレスティーヌがいた。彼女は、伯の愚痴を遮らずに最後まで聞いた。
それから、静かに尋ねた。
「冬のあいだ、北の運河は何か月凍りますの?」
「……三か月、いや、年によっては四か月ですな」
「北の織物組合とは、直接お取引をなさっています?それとも、王都の商会を通して?」
「王都の商会を通しておりますが」
「関税をお下げになったのは、いつでしたかしら」
「昨年の、春です」
セレスティーヌは、少し考えた。
「ヴェステリアの北部でも、二年前から、織物の産地がひとつ増えましたの。ご存じかもしれませんけれど。運河の凍る時期と、向こうの買い付けの時期が、ちょうど重なっているのかもしれませんわね」
デュラン伯は、言葉に詰まった。
セレスティーヌは、答えを押しつけなかった。
「大国の通商院に、羊毛のことが分かる者がおります。もし、よろしければ、ご紹介いたしますわ」
「……検討いたしましょう」
伯は、そう言って杯を傾けた。愛想のない返事だった。
セレスティーヌは「ええ、いつでも」とだけ言って、輪を離れた。
それで終わったように見えた。
だが、しばらくして、エミリアは見た。デュラン伯が、広間の隅で侍従を呼び、何かを書き留めさせているのを。その会話の中に、運河、という言葉が聞こえた。
◇
夜が更けて、広間の空気がほどけはじめた頃だった。
若い令嬢が一人、絨毯の端につまずいた。
手にしていた杯が、宙に跳ねた。赤ワインが弧を描いて、すぐそばにいたセレスティーヌのドレスに、胸元から裾まで、まっすぐに降りかかった。
広間が、凍った。
令嬢は、真っ青になって立ちすくんでいた。まだ十六か十七だろう。社交の場に出て、日が浅いのが分かる。震える唇が、言葉を探して、何も見つけられずにいた。
大国の王妃のドレスに、ワインをかけたのだ。この娘の家は、明日から社交界で口をきいてもらえなくなるかもしれない。
セレスティーヌは、自分のドレスを見下ろした。
それから、令嬢の手を取った。
「お怪我はなくて?」
令嬢が、目を見開いた。
「ほら、こちらにいらっしゃい。絨毯の端は、昔から滑りやすいのよ。わたくしも、子どもの頃、ここで転んだことがあるの」
セレスティーヌは、笑っていた。困ったように、可笑しそうに。
「大丈夫よ。赤は、わたくしの好きな色なの」
広間の空気が、ゆっくりとほどけた。誰かが小さく笑い、誰かが侍女を呼び、誰かが令嬢の肩を抱いた。
そのとき、エミリアのすぐ後ろで、年配の婦人が連れに囁いた。
「……ねえ。昔、あの方が、男爵家のお嬢さんにワインをかけたという話、あったわね」
「ええ、夜会の前に、ってね」
「あの方が、そんなことをなさるかしら」
連れの婦人は、すぐには答えなかった。
「さあ……昔のことですもの」
それだけだった。二人は、すぐに別の話題に移った。誰も結論など出さなかった。ただの、取るに足らない立ち話だった。
だが、エミリアにはそうは聞こえなかった。
広間じゅうが、その話をしているように聞こえた。暖炉の前の輪も、窓辺の輪も、楽団の近くの輪も。笑い声のひとつひとつが、自分のほうを向いている気がした。
誰も、エミリアを見ていなかった。見ていないことは、分かっていた。
なのに、首筋に視線を感じた。扇を持つ手のひらが、手袋の中で湿っていた。
あのワインは、自分で注いだのだ。
控えの間で、誰もいないのを確かめて。
あの女は、今、他人にワインをかけられて、笑って許した。
それを見た人たちが、昔の話を思い出している。
何も証明されてはいない。誰も何も言っていない。
それなのに、エミリアの足は、床に縫いとめられたように動かなかった。
◇
──セレスティーヌには、できたのに。
夫の声が、耳の奥でよみがえった。結婚して二年目の春、初めての外交晩餐で、隣国の大使夫人の名前を一つ言い間違えたときのことだった。夫は笑って言った。笑いながら、言った。前の婚約者には、できたのにな、と。
それから何度、同じ言葉を聞いただろう。
あの女が、この広間で一晩のうちにしてみせたこと。
老夫人の亡き夫の薔薇を覚えていること。財務卿の愚痴の中から、本当に聞くべきことを三つ選んで聞くこと。ワインをかけられて、相手の怪我を先に気遣うこと。
どれも、エミリアが本番では半分もできなかったことだった。
あの女は、息をするように、それをしている。
◇
帰り際、玄関の広間で、セレスティーヌに呼び止められた。
ドレスは、深い紺のものに着替えていた。
「今夜は、ありがとうございました。王家を代表して、父に祝辞を」
「……いいえ。当然のことですわ」
「王妃のお務めは、大変でしょう」
セレスティーヌは、エミリアの手を両手で包むように取った。温かい手だった。
「わたくしは、こちらでは教わったことの半分も使わずに終わってしまったけれど」
労いの言葉だった。少なくとも、そう聞こえる言葉だった。
あなたは、全部使えているのね、と。
あるいは、あなたが私から奪ったものは、私が使うはずだったものよ、と。
エミリアは、微笑みを返した。
「ヴェステリアで、存分にお使いになったのでしょう」
「ええ。おかげさまで」
セレスティーヌは、手を離した。
帰りの馬車の中で、エミリアは手袋を外した。
左の手のひらに、爪の形の赤い跡が、四つ並んでいた。
◇
夕食の席で、ルーカスは王女の話ばかりした。
「算術の時間に、先生が黒板に書いた答えが一つ違っていたんです。誰も気づかなかったのに、オデット殿下だけが手を挙げて、『恐れ入りますが、三行目の繰り上がりが誤っています』って」
ルーカスは、パンをちぎる手を止めて、身振りまでつけて話した。
「先生、真っ赤になってました。でもオデット殿下は、ちっとも得意そうじゃないんです。座ってから、もう次の問題を解いてました」
エミリアは、スープの匙を持ったまま、息子の顔を見ていた。
先生の誤りを、人前で正した。
どこかで聞いた話だった。
「乗馬の時間も、誰より速かったんです。ヴェステリアでは、王女も騎兵の訓練を受けるんですって。僕、二馬身も離されました」
「まあ」
「それに、話しかけても、返事がそっけないんです」
ルーカスは、少し頬を染めて笑った。
「でも、そこがいいんです。ほかの令嬢たちみたいに、僕が王子だからって、きゃあきゃあ言わないんです」
エミリアの指先から、匙が皿の縁に触れて、小さく鳴った。
そっけない。
それが、いい。
──三度話しかけられたら、一度だけ笑う。目が合ったら、先にそらす。
十六年前、自分が王子に対してしていたことだった。
王子はあの頃、エミリアのことを、友人たちにこう話していたという。ほかの令嬢みたいに、俺が王子だからって寄ってこない、と。だから、いいんだ、と。
背筋に、冷たいものが這い上がった。
◇
「母上」
ルーカスが、急に声の調子を変えた。何か思いついたときの顔だった。
「オデット殿下のお母上、セレスティーヌ陛下も、昔この学院に通っていらしたそうです」
エミリアは、匙を置いた。
「ラヴァル公爵家のご出身だから、当たり前ですよね。殿下が教えてくれました。母上がとても成績がよかったって、先生方がまだ覚えているんだそうです」
ルーカスは、無邪気に首をかしげた。
「母上と、同じ頃じゃありませんか?ご存じでしたか?」
この国には、公爵家が四つある。黒薔薇がどの家の娘だったか、この子は知らない。学院の教師たちも、王家の禁令を知っているから、口にはしないだろう。
けれど、同じ頃に、同じ学院にいた。それだけで、いつか誰かが、二つの話をつなげてしまうかもしれない。
「……そうね。学年が違ったから、あまり覚えていないけれど」
二つ目の嘘だった。
確かに学院は年齢順に入学する訳ではないので同じ年齢でも学年が違うことはある。
しかし、自分とセレスティーヌの学年は、同じだった。
ルーカスは「そうなんですか」と言って、それ以上は聞かなかった。デザートの焼き林檎が運ばれてきて、息子の関心はそちらに移った。
エミリアは、自分の皿の焼き林檎に、一度もフォークを入れなかった。
◇
王妃として、学院を視察する機会は、年に二度ある。
その春の視察を、エミリアは予定より一月早めた。理由は、誰にも言わなかった。
学院長の案内で、東棟の廊下を歩いた。窓の外に、中庭が見える。昼休みで、生徒たちが芝生の上に散らばっていた。
噴水のそばに、ルーカスがいた。
オデットと、二人で立っていた。
ルーカスは、身振り手振りで、何かを一生懸命に話していた。頬が赤い。声までは聞こえない。
オデットは、本を胸に抱えて、礼儀正しく頷いていた。ときどき、短く何か答える。
エミリアは、窓辺で足を止めた。
オデットが、ふと顔を上げて、塔の時計を見た。
それから、またルーカスに目を戻した。
──目をそらした。
ルーカスが、何か言った。自分の額を叩いて、照れたように笑っている。何か失敗した話でもしたのだろう。
オデットが、初めて笑った。口元を本で隠して、小さく。
──三度に一度、笑った。
噴水の向こうから、別の女生徒がオデットを呼んだ。オデットはすぐにルーカスに会釈をして、そちらへ駆けていった。
ルーカスは、噴水のそばに一人で残された。少しのあいだ、オデットの背中を見送っていた。
──先に、離れた。
「王妃陛下?」
学院長が、怪訝そうに呼んだ。
エミリアは、窓から目を離した。
「……いいえ。王太子が、よく馴染んでいるようで、安心しましたわ」
声は、ちゃんと出た。
あの娘は、セレスティーヌの娘だ。
あの女の娘が、あの女の顔で、私のやり方を使っている。
そう考えてから、エミリアは自分の考えにぞっとした。
けれど、一度そう見えてしまったものは、もう、ほかの形には見えなかった。
◇
帰りの馬車には、ルーカスも乗った。午後の授業がない日だった。
ルーカスは、窓の外を見ながら、ずっと上機嫌だった。
王宮の門が見えてきた頃、思い出したように言った。
「母上。今度の休みに、劇場に行ってもいいですか?」
「劇場?」
「オデット殿下が、『白百合と黒薔薇』をご覧になったことがないって言うんです」
エミリアは、扇を握った。
「この国に来たら、一度は見ておくべきですよって言ったら、殿下が、それなら見てみたいって。だから、お誘いしたんです。王家の桟敷でご一緒できたら、殿下にも喜んでいただけると思って」
ルーカスは、得意げだった。初めて、自分の手で何かを成し遂げた子どもの顔だった。
「父上と母上の物語を、殿下にも知ってほしいんです」
黒薔薇の役は、王女の母親だ。
エミリアの頭の中で、物事が勝手に連なっていった。
王女が劇を見る。帰って、母親に話す。母親が、娘に本当のことを話す。黒薔薇は、お母さまよ。娘が、学院でルーカスに話す。あなたのお母さまは、ね。
ルーカスが、自分を見る。この子が、自分を見る。今のように、まっすぐな目ではなく。
「母上?」
馬車が王宮の門をくぐった。
車輪が石畳を叩く音が、急に大きく聞こえた。
「……考えておくわ」
それしか言えなかった。
その夜、エミリアは眠れなかった。
◇
「劇場は、だめよ」
翌朝、エミリアは朝食の席でそう言った。
ルーカスは、パンを持ったまま、きょとんとした顔をした。
「どうしてですか?」
「王女殿下には、あの劇はふさわしくないわ」
「でも、殿下は見てみたいって」
「大国の王女殿下をお連れするなら、もっと格式のある演目があるでしょう。宮廷楽団の演奏会とか」
ルーカスは、少し考える顔をした。
やがて、困ったように言った。
「でも、母上はいつもおっしゃっていたじゃありませんか。外交は、相手を知ることから始まるって。相手に、こちらの国を知ってもらうことも大事だって」
エミリアは、言葉に詰まった。
自分が教えたことだった。この子が八つのとき、外国の使節を迎える席で、何も話せずに黙りこんでしまったことがある。その夜、エミリアは息子を叱った。王族が黙っていては、国が黙っているのと同じだと。相手を知りなさい。こちらを知ってもらいなさい。
この子は、それを忠実に覚えていた。
「あの劇は、この国の誇りの物語でしょう?父上と母上の」
「……それでも、だめなの」
「どうしてですか」
理由は、言えなかった。
「とにかく、だめよ」
ルーカスは、黙ってパンを皿に置いた。
それから、「分かりました」と言った。
◇
それから数日、ルーカスは劇場の話をしなかった。
しないからこそ、エミリアは不安になった。諦めたのか。それとも、母親に言わずに行くつもりなのか。
学院でのことは、エミリアには見えない。息子が誰と話し、どこへ行き、何を約束しているのか、何ひとつ分からない。
エミリアは学院長に頼んで、自分付きの侍女の一人を、学院の雑用係として入れさせた。王家は学院の後援者であり、王妃の頼みを断る学院長はいない。王太子殿下のご様子を、それとなく知らせて、と。
三日目の夕方、ルーカスが、エミリアの居間の扉を叩いた。
「母上」
顔が、強張っていた。
「学院に、王宮の侍女がいました。母上付きの、マルトです。廊下の掃除をしていました」
エミリアは、刺繍の手を止めた。
「僕を、見張らせているんですか」
「……心配だっただけよ」
「劇場に行かないかどうか、ですか」
ルーカスの声が、少し震えた。
「僕、行かないって言ったじゃないですか。母上が、だめだって言ったから。理由も教えてもらえないのに、ちゃんと、殿下にお断りしたんです」
息子の目に、涙がにじんでいた。
泣くまいとして、顎に力を入れているのが分かった。
「母上は、僕を信じていないのですか」
エミリアは、立ち上がりかけた。
抱きしめればいい。そう思った。ごめんなさい、と言えばいい。
けれど、ごめんなさいの次に、なぜ、と聞かれたら。
「……あなたのためよ」
ルーカスは、何も言わなかった。
一礼して、部屋を出ていった。
その日から、ルーカスは王女の話をしなくなった。
夕食の席で、学院の話を聞いても、「普通でした」としか答えない。算術の話も、乗馬の話も、しなくなった。
話さないことが、話していた頃よりも、ずっと恐ろしかった。
この子が何を考えているのか、エミリアにはもう分からなかった。
◇
王妃主催の茶会は、毎年春に開かれる。
招待客の名簿に、大国の王妃の名を載せないわけにはいかなかった。
王宮の南の温室に、二十人ほどの貴婦人が集まった。エミリアは主催者として、一人ひとりに声をかけ、茶菓子の皿が空かないように目を配った。
セレスティーヌは、ブランヴィル伯爵夫人の隣に座っていた。老夫人は、相変わらず硬い顔をしていたが、席を立とうとはしなかった。
話題が、王都の劇場のことに移った。誰かが、この春の新しい演目の話を始めたのだ。
「そういえば」
セレスティーヌが、茶器を置いて言った。
「『白百合と黒薔薇』、まだ上演されているのですね。こちらへ来てから、何度も看板を見かけましたわ」
温室の中の空気が、ほんの少しだけ固くなった。
「黒薔薇を演じている女優さん、とてもお上手だと伺いました。冷たくて、美しくて、ぞっとするほどだとか」
セレスティーヌは、穏やかに微笑んでいた。
「いつか、拝見したいものですわ」
誰も、何も言わなかった。
エミリアは、茶器を持ったまま微笑んでいた。微笑みが、顔に貼りついて剥がれなかった。
脅されたわけではない。
あの女は、劇の話をしただけだ。女優を褒めただけだ。いつか見たいと言っただけだ。
エミリアの耳に届いたのは、別の言葉だった。
いつでも話せるのよ。誰にでも。あなたの息子にでも。
◇
夫は、ほとんど毎日のように、ラヴァル公爵邸へ出かけるようになっていた。
表向きは、大国との通商の打ち合わせだという。公爵邸の侍従が、王宮の侍従にこぼしたところによれば、陛下はいつも王妃陛下のお茶の時間を狙っていらっしゃる、とのことだった。
セレスティーヌのほうから招いているのかどうかは、分からなかった。分からないことが、エミリアの胸を焼いた。
ある夜、夫の書斎を訪ねた。
「陛下。最近、ラヴァル公爵邸によくお出かけですのね」
「通商の話だ」
「そうでございましょうとも。ただ、あまりお近づきになりすぎますと、ヴェステリアの国王陛下がお気を悪くされるかもしれませんわ」
夫は、書類から顔を上げた。
そして、笑った。
「嫉妬か」
「そういうことでは」
「見苦しいぞ、エミリア。お前らしくもない」
夫は椅子の背にもたれ、愉快そうに妻を眺めた。
「あれが俺を忘れられんのは、仕方あるまい。十六年経っても、俺の好きな酒を覚えていた女だ。大国の王も、所詮は二番目の男よ」
「陛下」
「心配なら、お前ももう少し、あれを見習うことだな」
翌日、夫はいつもより早い時刻に、公爵邸へ出かけていった。
その翌日も。
エミリアが止めようとしたせいで、夫はかえって楽しんでいるようだった。妻が気にしている。それが、夫にはたまらなく面白いのだ。
◇
その夜、エミリアはルーカスの部屋の前に立った。
扉を叩こうとして、手を上げた。
何を話せばいいのか、分からなかった。劇場のことを謝るのか。謝って、それから何を言うのか。
扉の向こうから、小さな声が聞こえた。
ルーカスが、何か口ずさんでいた。
身分の垣根を越えて
王子は白百合の手を取った
あの歌だった。
息子は、その先の節を、少し調子外れに続けた。劇の中で、白百合と王子が初めて踊る場面で流れる歌だ。劇場で聞かなければ、覚えていないはずの節だった。
行ったのだろうか。
母親に黙って、劇場へ。王女と一緒に。
それとも、ずっと前に見た劇の歌を、ただ思い出しているだけなのか。
聞けばいい。扉を叩いて、聞けばいい。
エミリアの手は、扉の前で止まったまま、いつまでも下りなかった。
◇
学院の創立記念の夜会は、毎年、上の大広間で開かれる。
在校生と、その家族と、学院に縁のある貴族たちが招かれる。王太子が在籍している年は、王家も揃って出席するのが慣わしだった。
大国の王女が在籍している今年は、その母親も。
エミリアは、大広間の入口に立った。
十六年ぶりではない。王妃になってから、何度もこの広間で夜会に出た。そのたびに、何も感じないように努めてきた。床の模様も、天井の絵も、窓の位置も、ただの夜会の広間だと思うようにしてきた。
今夜は、それができなかった。
あの夜、自分はあの柱の陰に立っていた。王子の腕に手を添えて。
あの女は、広間の真ん中に立っていた。一人で。
今夜、広間の真ん中には、セレスティーヌがいる。
大国の王妃として。何人もの貴族に囲まれて。
ブランヴィル伯爵夫人が、彼女の隣で杖を突いていた。財務卿のデュラン伯が、何か熱心に話しかけていた。ワインをこぼしたあの若い令嬢が、母親に連れられて、恥ずかしそうに挨拶をしていた。
輪は、もう崩れなかった。
◇
「諸君」
宴もたけなわの頃、夫が玉座代わりの椅子から立ち上がった。
「今宵は、特別な余興を用意した」
広間の中央に、一人の男が進み出た。王都で一番の吟遊詩人と言われる男だった。弦を十二本張った、立派なリュートを抱えている。
「ヴェステリアの王妃陛下に、約束していたのでな」
夫は、セレスティーヌのほうへ杯を掲げた。
「我が国の『真実の愛の歌』だ。大国の港町で歌われているような、船乗りの崩した節ではない。本物を、お聞かせしよう」
夫は、セレスティーヌの真向かいの席に、わざわざ椅子を移させて腰を下ろした。歌が、彼女の正面から、自分の背中越しに聞こえるように。
エミリアは、扇を握った。
やめて、と言いたかった。
言えるはずがなかった。王が自分の物語を、自分の広間で歌わせる。それを止める理由を、王妃は持っていない。
吟遊詩人が、弦を鳴らした。
身分の垣根を越えて
王子は白百合の手を取った
夫は、満足げに頷いた。王子が出てくる節のたびに、目を細めた。ときどき、小さく口ずさんだ。
黒薔薇の棘で傷ついた
小さな白百合の手を
黒薔薇の節に差しかかったとき、夫は、一番いい笑顔で、セレスティーヌを見た。
エミリアは、思わず目を伏せた。
十六年前、大勢の前で婚約を破棄し、罪人として追放した女。その本人を目の前にして、あの夜を称える歌を聞かせているのだ。
しかも夫は、誇らしげに笑っている。
近くにいた老伯爵が、手にしていた杯をそっと置いた。その隣の夫人は、扇の陰で何かを囁き、夫に視線でたしなめられた。
セレスティーヌは、変わらず微笑んでいた。
その笑顔が、エミリアにはたまらなく恐ろしかった。
歌が終わった。
拍手が起きた。まばらな拍手だった。去年までのこの夜会なら、広間じゅうが手を叩いていたはずの歌だった。
夫だけが、立ち上がって拍手していた。
広間の空気に、少しも気づかずに。誇らしげに。
エミリアは、その拍手の音の中に、何かが軋む音を聞いた。
十六年かけて磨き上げた物語に、初めて入った、細いひびの音だった。
◇
余興のあと、夫はセレスティーヌのそばへ行った。
エミリアは、少し離れた柱の陰から、二人を見ていた。
夫が何か言った。セレスティーヌが、穏やかに答えた。
夫が、笑った。
エミリアは、その笑顔を知っていた。
学院の中庭の、古い樫の木の下のベンチ。夕方の、人のいない時間。
まだ王子だったあの人が、エミリアにだけ向けていた笑顔だった。少し首を傾けて、口の片端だけを上げて、目尻に小さなしわを寄せる。
結婚してから、その笑顔を向けられたことは、一度もなかった。
今、それが、あの女に向けられていた。
エミリアは、扇を開きかけた。
夫が、セレスティーヌに一礼して離れていった。セレスティーヌは別の客に話しかけられ、そちらへ向き直った。二人のあいだに、人の流れが割りこんだ。
エミリアは、息を吐いた。
ほんの、短いあいだだった。何も起きなかった。夫は笑っただけだ。あの女は答えただけだ。
大丈夫。
そう思って、顔を上げた。
◇
窓辺に、ルーカスがいた。
オデットの前に立って、頬を真っ赤にして、何かを話していた。身を乗り出して、両手を動かして。
あんなふうに夢中になって話す息子を、エミリアはもう何週間も見ていなかった。自分の前では、話さなくなっていたから。
オデットは、扇を閉じたまま、礼儀正しく頷いていた。
隣に、同じ年頃の令嬢が一人いる。オデットはときどき、そちらへ話を振った。それから、閉じた扇の先で、壁に貼られた夜会の進行表を一度だけ指し示した。次の曲が何か、確かめるように。
ルーカスは、オデットの返事が短いほど、身を乗り出した。
エミリアは、動けなくなった。
十六年前。この広間の、何度目かの夜会で。
自分は、王子の前でああして立っていた。話しかけられるたびに、少しだけそっけなく返して。ときどき、隣の友人に話を振って。王子の熱が、焦れて、もっと燃え上がるように。
王子は、あの夜の自分の前で、ちょうど今の息子と同じ顔をしていた。
三度に一度。目をそらす。先に離れる。
ああ、同じだ。
あの子は、セレスティーヌの娘だ。
自分が、あの女から王子を取った。その同じ場所で、あの女の娘が、自分の息子を取っていく。
立場を、入れ替えて。
あの態度だけでは、王女が何を考えているかなど分からない。ただそっけないだけなのかもしれない。息子が、勝手に夢中になっているだけなのかもしれない。頭のどこかでは、そう思っていた。
けれど、思うことと、見えるものは、別だった。エミリアの目には、十六年前の夜が、そっくりそのまま、裏返しになって映っていた。
夫は、あの女に、昔の笑顔を向けた。
息子は、あの女の娘に、昔の夫と同じ顔をしている。
自分が手に入れたものが、ひとつ残らず、あの女のほうへ顔を向けている。
何も、奪われてはいないはずだ。
夫は、今も自分の夫だ。
息子は、今も自分の息子だ。
王妃の冠も、宮殿も、門の前で歌われる歌も、まだ全部、自分のものだ。
それなのに。
◇
エミリアは、扇を開いた。
口元を隠した。
王妃が夜会の広間で、顔を崩すわけにはいかない。それだけは、十年かけて体に叩きこまれていた。目元に、笑みを残す。背筋を、伸ばしたままにする。
扇の内側で、唇がわなないていた。
いや。
いやよ。
私のものよ。全部、全部私が取ったのよ。私が、自分の手で。あの女から。返さない。誰にも返さない。お願い。お願いだから、こっちを見て。ルーカス、こっちを見て。お母さまを見て。アルベルト、私を見て。私を、見て。
声には、ならなかった。
扇の上の目元は、穏やかに微笑んだままだった。
◇
大広間の向こう側で、セレスティーヌがこちらを見ていた。
人の流れの、ちょうど切れ目だった。
大国の王妃は、まっすぐにエミリアを見て、微笑んでいた。
そして、手にしていたグラスを、ほんの少しだけ持ち上げた。
◇
<セレスティーヌ視点>
ラヴァル公爵邸の、二階の窓辺は、昔から彼女の場所だった。
夜会から戻り、ドレスを脱ぎ、髪をほどいてから、セレスティーヌはその窓辺の椅子に腰を下ろした。窓の外では、王都の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。
扇の陰の、あの目を思い出した。
口元は隠していた。目元は微笑んでいた。完璧だった。十年かけて、よくあそこまで仕上げたものだと思う。
ただ、目の奥だけは、隠せていなかった。
泣き叫んでいた。
何も奪われていないのに、何もかも奪われた者の目をしていた。
セレスティーヌは、窓硝子に指先を当てて、微笑んだ。
ずいぶん、時間がかかったこと。
◇
十六年前の夜のことは、一日も忘れたことがない。
卒業夜会の大広間。
楽団の音が止まり、王子が広間の真ん中に進み出た。その腕に、男爵家の娘の白い手が添えられていた。
「セレスティーヌ・ド・ラヴァル。貴様との婚約を、今この場で破棄する」
王子は、勝ち誇った顔をしていた。
脅迫状が読み上げられた。自分の字に似せた、自分の書いていない文字。侍女が進み出て、階段で押すのを見たと言った。男爵家の娘が、ワインに汚れたドレスの胸元を押さえて、震えていた。
王子の腕の陰で、その娘が一瞬だけ、口の端を上げたのを見た。
あの笑みは、今でも目を閉じれば思い出せる。
「身に覚えがございません」
それしか言えなかった。それ以外の言葉を、知らなかった。
王妃教育の教師たちは、どんなときも取り乱してはならないと教えた。人前で泣いてはならないと教えた。
しかし、泣き方は教えてくれなかった。
泣きもしないのか、と誰かが囁いた。
冷たい女だ、と別の誰かが言った。
同情するふりをして、扇の陰で、面白い見世物を見る目をしていた貴婦人たち。翌朝には、もう広場で歌になっていた。最初に誰がその節を作ったのかは知らない。知りたいとも思わない。
その夜のうちに、父の馬車が裏門に来た。
勘当をし、国外へ追放したと届けを出す。お前を守るには、それしかない。
父はそう言って、娘を馬車に押しこんだ。父の手は、震えていた。
国境を越えたのは、明け方だった。雨が降っていた。
◇
ヴェステリアで、父の古い知人の家に身を寄せた。
名を伏せて、王都の施療院で働いた。することがなければ、頭がおかしくなりそうだったから。帳簿をつけ、寄付を集め、薬の仕入れの値を下げさせた。王妃教育で覚えたことが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
施療院の視察に来た王子が、帳簿をつけている女に目を留めた。
それが、今の夫だった。
求婚されたとき、すべてを話した。婚約破棄のことも、追放のことも、自分の名も。断られるつもりだった。
夫は、黙って最後まで聞いた。それから、言った。
「それで、君はどうしたい」
答えられなかった。
夫は、彼女の手を取った。
「復讐したければ、好きにすればいい。私は止めない。君がそれで気が済むなら、そのくらいの力は、この国にはある」
その夜、胸の奥に、火が灯った。
黒い火だった。
自分の中に、こんなものがあったのかと思った。王妃教育で、きれいに磨き上げられていたはずの心の底に。誰にも見せたことのない、冷たくて、熱い、黒い火。
怖いとは、思わなかった。
ただ、ああ、これが私なのだ、と思った。
◇
窓辺の小卓の上に、手紙が一通、置いてある。
大国に残してきた、十になる息子からだった。字はまだ大きく、ところどころ綴りが間違っている。剣の稽古で教官から一本取ったこと。厨房の猫が子を産んだこと。最後の行に、少し小さな字で書いてあった。
『おかあさま、はやくかえってきて』
セレスティーヌは、その一行を、指でなぞった。
愛おしかった。胸が痛むほど、愛おしかった。
夕方、学院から帰ってきたオデットは、靴を脱ぎながら文句を言っていた。
「お母さま、学院の食堂の焼き菓子、本当にまずいのよ。粉っぽくて。ヴェステリアの厨房のほうが、百倍おいしいわ」
それから、思い出したように付け加えた。
「あと、ロゼールの王太子殿下、またお話しにいらしたわ。悪い方じゃないのだけれど、話が長くて。次の授業に遅れそうだったの」
娘は、そう言って肩をすくめただけだった。
あの少年の熱に、娘は少しも気づいていない。気づいていても、興味がない。セレスティーヌは、それを知っている。
夫は、毎週欠かさず手紙をよこす。政務の合間に、自分の手で書いた短い手紙。君がいないと、宮殿の夕食が静かすぎる、と。
幸福だった。
十六年前には想像もしなかったほど、幸福だった。この国で奪われたものの、何倍ものものを、あの国で与えられた。
それでも、胸の奥の黒い火は消えなかった。
娘が生まれた夜も。息子が初めて歩いた日も。夫と並んで、大国の民の歓呼に手を振った朝も。
胸の奥で黒い火は、静かに燃え続けていた。小さくなることも、揺らぐこともなく。
◇
セレスティーヌは、この数週間のことを思い返した。
自分からは、何もしていない。
入学式の朝、大広間の話をした。あれは、選んで口にした言葉だ。あの女が、どんな顔をするか見たかった。
茶会で、劇の話をした。あれも、選んだ。黒薔薇の女優を褒めた。いつか見たいと言った。脅してなどいない。本当に、いつか見てみたいと思っている。
けれど、それだけだ。
赤ワインを選んだのは、外務官だった。小国の王家の好みを調べるのは、あの者の仕事だ。あの男がそれを、愛の証だと勝手に取り違えた。
歌を歌わせたのは、あの男自身だった。随員の世間話を聞いて、自分から約束して、自分で吟遊詩人を呼んで、自分で真向かいに座った。わたくしは、頷いただけ。
ブランヴィル夫人の伯爵様の薔薇は、本当に覚えていた。デュラン伯の運河の話は、本当にヴェステリアでも起きていることだ。ワインをこぼした娘の手を取ったのは、本当に、怪我をしていないか心配だったからだ。
王妃として、当然のことをしただけ。
この国でも、大国と同じように。
それだけで、十六年前に自分を笑った人たちが、目を伏せるようになった。
それだけで、あの男は勝手に勘違いし、あの女は勝手に怯えた。
何もしなくていい。
本当のことをしているだけで、あの二人は、自分たちで自分たちを追い詰めていく。それを、少し離れたところから、微笑んで見ていればいい。
こんなに、楽しいことはなかった。
◇
それでも、足りなかった。
夜会の場で、あの女の敗北を見届けた。扇の陰の、泣き叫ぶかのような目を見た。
それなのに、胸の奥の黒い火は、少しも小さくならなかった。
当然だ、とセレスティーヌは思った。
あの夜、広間にいたのは、あの女一人ではなかったのだから。
次は、あの男だ。
自分がまだ愛されていると信じている男。十六年前に捨てた女が、今も自分を想って微笑んでいると思いこんでいる男。あの思い込みを、どこまで大きく育ててから、折ればいいだろう。
大国の王の妃が、小国の王に、何を言えば。何を言わずにいれば。
その次は、あの子。
ルーカス。父親によく似た熱で、娘を見る少年。
あの子には、何の罪もない。十六年前には、生まれてもいなかった。母親の嘘も、父親の愚かさも、何ひとつ知らずに、あの歌を誇りに思って育った子ども。
セレスティーヌは、それを知っている。
知っていて、それでも、その名を胸の中で数えた。
あの子は、あの二人の、いちばん大切なものだから。
それから、この国の人々。
十六年間、あの歌を歌ってきた人たち。酒場で、市場で、婚礼の席で、学院の門の前で。子どもに、言葉より先にあの節を教えた人たち。
誰が最初に歌ったのかは知らない。知りたいとも思わない。
あの家族の絶望の先に、この国の人々の絶望の声が国を満たす時、この黒い火はどうなるのだろうか。
◇
<セレスティーヌ視点>
窓の外で、最後の灯りが消えた。
大国の書簡には、滞在の期限は書かれていない。ゆっくりさせてやってほしい、と夫は書いてくれた。小国の王は、それを断れない。
セレスティーヌは、窓硝子に映る自分の顔を見た。
穏やかに、微笑んでいた。
十六年前、あの広間で凍りついていた娘の顔は、もうどこにもなかった。
「急ぐことはないわ」
誰もいない部屋で、小さく言った。
「時間なら、いくらでもあるのだから」




