第1話 坂の上の「栄養特科」
1、潮見七海
機械油と潮の香り、そして魚の生臭さが複雑に絡み合う独特な匂いが染み付いた街。
決して良いとは思わないが嫌いではないこの匂いを全身で感じながら潮見七海はいつもこの坂道を登っている。
彼女の左側、眼下遠方には倉庫やサイロが建ち並び、そこから広がる青灰色の海には数隻の貨物船と漁船が浮かんでいる。
港と無数の坂道で構成されたこの街、平坦な土地は港周辺に極わずかしかないのがここからの眺めではっきりと見て取れる。わざわざこんな急斜面に道をつくり、そこへ家を建てて生活の場を築いてきた昔の人達は「どうかしている」と思いつつ、たとえそれが何処だろうが必要とあれば自分たちの棲家へ力ずくで変えてしまう人間の凶暴な生命力を感じる。
この街の独特な匂いも、勾配がどうかしちゃっている狂気の坂道も、きれい事だけじゃない人間の生きる事への執着を容赦なく彼女の身体に浸透させてくる。
七海はそんなこの街が大好きだ!と大きく胸を張りたいところなのだが・・・
最近、昔に比べすっかり蒸し暑くなったと言われている北国の夏、彼女の行く手に今朝も立ち塞がるのは、耳を覆いたくなるほどの蝉の鳴き声に共鳴して陽炎にゆれる最大勾配24%、100m進む度に24mも上がる坂道。
その狂気の度合いはこの街を構成する他の坂道を全く寄せ付けない。格付けするならそのランク名は『最狂』がふさわしい。
コレを目の前にするとどんなに威勢のいい前向きな気持ちも無残にへし折られて思わず後退りしてしまう。
以前、七海はこの『最狂』を完全にナメてかかり、なんとか安上がりな方法で攻略出来ないものかと、無謀にも近所の自転車屋で購入した税込5万5千円の中古原付バイクで戦いを挑んだことがある。
スタート地点は海岸沿のバス通りと『最狂』へ一直線に繋がる通称『地蔵通り』との交差点。助走距離はこれが最大だった。アクセル全開!白煙を撒き散らし七海は怯むことなく『最狂』へと勇ましく突っ込んで行ったのだが・・・
中古の非力な原付バイクは勾配24%に一瞬で返り討ちにされ、2合目にさえたどり着くことも出来ず呆気なく息絶えてしまった。
七海は残り8割以上の道程を完全に『お荷物』となった5万5千円の鉄屑を汗ダクになりながら押して登らなければならないハメとなり、職場へ到着する頃にはメイクは完全に流れ落ち全身汗でドロドロのまるでボロ雑巾のような姿になっていた。
と、いう具合に『最狂』からの洗礼をド派手に喰らってしまった七海であったが、さっそく当日朝の更衣室トークで誰の発案なのか「ゾンビライダー」という医療従事者としては不適切なセンスのあだ名を付けられ、それ以降、彼女がいない時間と場所限定で密かにそう呼ばれ続けている。
2026年、夏 (現在)
今朝もまだ目覚め率60%の七海にこの坂の狂気は一切、手を緩める事はしない。
坂の天辺にある『かもめヶ丘病院』
そこが七海の職場。
七海は深くため息をつきながら足を進める。
その姿は、小顔でスレンダー、顔立ちも整った美形の「悩める乙女」と言いたいところなのだが・・・
首元がだらしなく伸びた茶色のTシャツに、ダブダブな黒いロングスカート、お気に入りのチョット高かった赤いスニーカーと、背中にはズッシリと垂れ下がった黒い巨大リュック(いったい何が入っているのか)、そして、まるでこの世の不幸を一身に背負っているかのような『どんより顔』は既に、この坂では朝の日常風景として溶け込んでおり、周囲からは「美形の無駄使い」と噂されている。
病院まであと、約20mといったタイミング、
突然後方で勾配24%に襲われ悲鳴をあげたかのようなエンジン音が響く、そしてそれは背後からどんどん迫って来た!次の瞬間
せめてTシャツだけでも・・・
と深く後悔した時にはもう遅かった。
屋根に不思議な形の大きなカメラを載せたストリートビュー撮影車が、無防備な七海の後から、横、そして前へと白煙を撒き散らしながらスローモーションのように駆け抜けていった。
七海を知る人間には顔のぼかし加工は全く無意味だった。
世界へ向けて公開された『かもめヶ丘病院』を背景にした無防備過ぎる彼女の背面から前面にかけての180度。
翌週には七海のいない時間と場所限定で彼女のあだ名はバージョンアップされていた。
今の時代、面と向かって人のことをあだ名で呼んでくる人間はめったにいない。しかし、ここには、時間も場所もそして人も選ばない自由な昭和生まれが一人だけいた。
「よう!グーグルゾンビちゃん!」
「腹減ってないか?プリンあげるよ ほら!」
七海が振り向くとベテラン調理師の政さん72歳がいつもの悪がきスマイルで彼女を見上げていた。
政さんは標準身長女子の七海から見てもかなり背が低い。シワさえなければ本物のわるガキだ。
「ありがとう!ごちそうさま・・」
「あッ、でも、政さんコレ、また病院の食材使ってないよね?」
「かたいこというなよグーグルゾンビちゃん!残り物をチョットだけダヨ」と、悪がきスマイルのギアを更に一段上げてみせてくる。
七海はいつかビシッと注意しなければと思ってはいるのだが、いつもこの悪がきスマイルと美味しい賄賂にすっかり丸めこまれてしまう。
「冷蔵庫に入れといてランチのデザートにでもしなよ!グーグルゾンビちゃん」
悪がきスマイルはトップギアに入っている。
「あ、ありがと」
彼女は今日もまたこの自由な老人を野放しにしてしまった。
「で、グーグルゾンビちゃん!また一発かましたんだって!やるね〜」
悪がきはニヤリと七海を見上げている・・・
ついに七海の眉間にシワが寄った。
「政さん、なんちゃらゾンビってしゃべりたいだけだべ!ソレもうやめてけれ!」
「全然おもしれくね〜ど!」
七海は坂のふもとの小さな漁師町で元漁師の祖父と元小学校教諭の祖母に育てられ、現在も3人で暮らしている。
訛りの強い祖父の影響なのか?七海は普段は標準語?なのだが興奮すると思いっきり訛る癖がある。
自分が今、訛っていたことに気付き一瞬、恥じらいの表情を浮かべると物理的な上から目線で政さんをにらんだ
「悪かったよ、七海ちゃん!そんなに怖い顔すんなよ」政さんは少しだけ涙目になっている。悪がきは女性に嫌われることが何よりもこたえるらしい。と言うか政さんは一応七海を女性と認識しているみたいだ。
2,相生 桜
北海道、札幌にほど近い港町にある最大勾配24%の坂道はその昔、海岸沿いを埋め立てた道路が出来るまで、小さな漁師町を市街地と結ぶ唯一の道だった。
天辺には、かつて大きな小学校があり1000人もの子供たちが元気に通う活気に満ちあふれた坂道だったのだが、今から5年前、小学校は少子化が原因で惜しまれつつも150年以上の歴史に幕を閉じた。
その跡地へ2年前に設立したのが、この「かもめヶ丘病院」。
長期にわたる療養や医療的管理が必要な患者を受け入れる慢性期病院である。
まさに少子高齢化の象徴のような病院だ。
この「かもめヶ丘病院」では設立当初からある実験的な新部署の立ち上げが一人の異色な経歴を持つ管理栄養士を中心に進められていた。
その部署名は「栄養特科」
医学的指示を厳格に守る『療養食』
性質上、その味気なさに食への執着を失い衰弱していく長期入院患者は少なくない。そんな彼らの心の問題に寄り添い医学的なエネルギー計算や減塩指示を徹底的に守りつつ、巧みな心理分析により心の奥底に眠る食への執着、生きる執念に再び火を灯す事を使命とした日本初の専門チーム・・・
言わば、栄養と人間心理の精鋭集団である。
その理念は、
「食べてもらえて初めて栄養になる」だ。
既存の「栄養科」と新設の「栄養特科」、両者は理念を同じとするが、その役割は明確に区分されている。
「栄養科」は、この理念に基づき栄養学、調理技術を駆使して、患者に食べてもらえる食事を追求する。
これに対して、
「栄養特科」は、分野の境界線を越えた分析で、患者自らが食べようとする(生きようとする)心を追求する。
つまり・・・
「栄養特科」は、患者さんが食べようとするきっかけを見つけるのがお仕事という事だ。
この「栄養特科」を立ち上げから全てを一任されているのが相生 桜。
彼女は過去にとある医療施設に管理栄養士として勤務していたが、たった1年で退職。
医学部学士編入を行い7年をかけて精神科専門医の資格を得るという異色の経歴を持っている。
彼女の強いこだわりで「かもめヶ丘病院」では医師としてではなく、あくまで管理栄養士として「栄養特科」を指揮しているのだが、この新設部署の設立は優秀な医師でもある桜の熱心で地道な働きかけが上層部を動かし実現したものらしい。
2025年、春(1年前)
「栄養特科」が発足し、ちょうど1年が経過しようとしていた頃。
日本で初めての試みでもあり前例がほとんどないため、思いがけない問題がまれに発生することはあったものの、桜の適切な対応で「栄養特科」はその役割を順調に果たし始めていた。
しかし、院内でも特に難易度の高い問題を抱えた患者たちを一手に引き受けその「心に寄り添う」のは当然、言葉で言うほど簡単なことではない。
室長を務める桜はこの一年間の激務で心身共に疲労困憊していた。
極度のストレスと多忙から重度の味覚障害と拒食症状を発症しており、何を食べても紙を噛んでいるような無味無臭の感覚。食べ物を口に入れるだけで激しい嘔吐感に襲われ、体重は30キロ台まで落ち込んだ。
「食」を通して患者を救うはずの管理栄養士である自分が、食を受け付けなくなっているという恐怖と恥辱。桜は誰にも相談できず、ほぼ点滴だけで栄養を補給していた。
そしてこの新部署へ誰よりも強い情熱を持つ彼女は「今、私が頑張らねば」と、それを周囲には絶対に悟られないよう常に毅然を装い何食わぬ顔で業務にあたっていた。
そして、それに気づく者は誰一人いなかった。
昨年新卒で採用された新人管理栄養士、潮見 七海は先輩に連れられて、あるカンファレンスに出席していた。
「潮見さん、相生室長は超厳しい人だから、いつもみたいにボーっとしたり、関係のない質問とかしちゃだめだよ!ちゃんと空気よんでね!」先輩の高島 幸は耳元でそう囁き七海を牽制している。
七海は、「栄養科」ではきちんと仕事はこなすものの、大切な打ち合わせ中に突然頭に浮かんだ「とんちんかんな質問」をしてみんなを困惑させたり、先輩が忙しく動き回っている時に病室で患者の足をじっと見つめているなど、「空気が読めない不思議ちゃん」という評価受けている。
「はい、わかりました・・・」と気のない返事をする七海
高島は「やれやれ」と諦めのため息をついて肩を落とした。
開始5分前、看護師、言語聴覚士、作業療法士など、十数名の出席者は、既にほぼ全員着席していたのだが、前の業務が押していた桜は開始1分前にようやく姿を現した。
「お待たせして申し訳ありません」入り口で一礼する桜
背筋は隙なく伸ばされ、無駄な装飾のないシンプルな白衣にグレーのタイトなスタンドカラーシャツ、透明で涼やかな瞳には、細身のメタルフレーム
そして、艶のある黒髪は肩の上で潔く揃えられたボブヘア・・・
過酷な臨床現場で培われた彼女の「鋭敏な科学者の知性」が一目でここに居る全員に伝わった。
七海は初めてのカンファレンスに、ついさっきまで多少は緊張している様子だったが、桜が入室するなりその瞳は急変した。何処か遠くを見つめるようではあるのだが、鋭さをもつ独特な視線、それは桜の姿を入室してから一瞬も逃さず追っていた。決して桜に見惚れているわけではない何かを見定めるような鋭い眼光が瞳の奥に映っていた。
桜は着席し、七海の独特な視線に気付き一瞬目を合わせたが、気にする素振りを見せずにそのままカンファレンスを始めた。
横にいた高島がようやく七海の様子に気付き彼女の肩を前後に揺すり慌てて小声で七海を制している。
「どうしてあなたはいつも・・・」と言いかけたその時、七海は静かに席を立ち一礼してカンファレンスルームを出ていった。
ちらりとそちらへ視線を向けた桜へ高島は小声で「大変申し訳ありません」と頭を深々と下げていた。
その日の昼下がり「海風公園」にて
「かもめヶ丘病院」に隣接する「海風公園」は、七海の通勤コースである坂道の傾斜に沿って上に伸びる緑豊かな公園だ。
栗の木が沢山あって秋には栗拾いを楽しむ事が出来るのでその時期は七海の姿を良く見かける。
敷地は広大だが傾斜が激しく平坦な場所は天辺にある「かもめヶ丘病院」の敷地とその隣にある陸上競技場だけしかない。その上、北側面は断崖絶壁となっていてフェンスを乗り越えるような不届き者に命の保証はない。「市民の憩いの場」にしては若干ワイルドな仕立てになっている。
その代わり、この北側から見おろす港の風景は大迫力で、時間毎にこの街の力強さと美しさの両方を感じる事が出来る。
冬から春への変わり目の時期、北国にしてはめずらしく暖かい風がそよぎ、栗林を散策する人々や港の風景を楽しむ人々を包んでいた。
桜はその片隅のベンチに腰掛け港の向こう側、遥か遠くに目を向けていた。
その姿はガックリと肩が落ちカンファレンスで見た「鋭敏な科学者の知性」は感じられない。
膝の上には乾燥してパサパサになったコンビニのサンドイッチが手をつけられずに置かれている。
「室長、お疲れ様です」
突然背後から声をかけられた桜は反射的に振り向いた。
そこには何か大きな物を抱えて病院側から無表情にこちらを見おろす七海がいた。
桜は毅然に振る舞おうと慌てるが全く空気を読まない七海はズカズカと歩み寄り許しも得ずに桜の隣へ腰を下ろした。
驚きこちらを凝視する桜とは目を合わせず七海は少し沈黙してから突然口を開いた。
「亜鉛不足と極度の神経疲労。味覚が死んでます」
「それに・・・胃が食べ物を拒絶している」
ズバズバと核心を突く七海に、桜は冷や汗をかいた。
「な、何を言っているの。私はただの寝不足で・・・」
「嘘だ!」
七海は桜の言葉を遮った。
「食うのが怖いんだべ!味がしねくなって、吐き気がして、自分が管理栄養士失格みてえで悔しくてしかたねんだべ!」
容赦のない言葉。空気など一切読まない。だが、その言葉に悪意や軽蔑は欠片もなかった。七海が見ているのは桜の「立場」でも「プライド」でもなく、ただ眼の前で命の火が消えかかっている「一人の人間」そのものだった。
つい興奮して訛ってしまった事に恥じらいを浮かべ冷静になろうと深呼吸をしてから七海は病院の厨房から抱えて来た大きな保温容器を桜と自分の間にどっかりと置いて小さなお椀へ何かを注ぎ入れ無言で桜へ突き出した。
それは、茶色いスープだった。
「飲んでください」
「無理よ・・今は何も喉を通ら・・・」
七海の眉間に再びシワが寄った
「つべこべ言わねで飲んでけれ! ワタシが今、あんたのためだけに作ったんだ!」
叫ぶような七海の勢いに押され、桜は震える手でお碗を受け取った。
スープの表面には、ほんの少しの煎りごまと、すりおろした生姜、そして焼き網で焦げ目をつけた梅干しの欠片が浮いていた。
桜は恐る恐る、匙を口に運んだ。
最初の一瞬、やはり味はしなかった。
だが・・・
舌の奥に届いた瞬間、焼き梅の強い酸味と生姜の刺激が、麻痺していた味蕾を強烈に叩いた。続いて、丁寧に引き出された昆布の芳醇な旨味とごまの香ばしさが、冷え切っていた口腔内に一気に広がっていく。
「っ……!」
嘔吐感は来なかった。代わりに、唾液がじわじわと溢れ出し、胃の奥が「もっと欲しい」と小さく鳴った。
「これ、なに・・・?」
「焼き梅干しと生姜の出汁です。味が分からなくなった舌には、塩分じゃなくて『香りと強い酸味の刺激』でスイッチを入れるんだと・・・前に政さんが」
「それと、隠し味にうちのばあちゃんが作った熟成味噌をほんの少し」
そう伝えると七海は桜からそっと視線をそらし、遠くの海をみつめながら
「明日1日、絶対に休んで下さい。私との約束です」と囁いた。
桜の澄んだ瞳が涙で満たされ細身のメタルフレームをくもらせた。
味がすることへの感動と喜び。
そして何よりも自分の苦しみに気づいてもらえたことへの安堵。
いろんな気持ちが入り乱れて桜はいつものようにうまく感情をコントロールできなくなっていた。
「美味しい・・・潮見さん・・・すごく、美味しい・・・」
そこには鋭い瞳の冷静な科学者ではなく、泣きじゃくる少女がいた。
しかし・・・
こんな場面でも七海は空気が読めない?というよりは読まないのか?
泣きじゃくる桜の横で七海はぶっきらぼうに・・・
「あっ、コレ全部差し上げます。家に持って帰ってください。保温容器の返却は明後日の午前中までに厨房へお願いします」と、
一方的にそう告げてその場を立ち去って行った。
桜は、さらに感情がぐちゃぐちゃに入り乱れて涙を流し、
泣きながら笑っていた。
「まったく!こんな大きいものどうやって家まで持って帰れっていうの?」
桜の笑い声は春のそよ風にのって「海風公園」から海へ駆け抜けていった。
「食への執着」を失いかけていた自分を、この若い管理栄養士が力ずくで引き戻してくれたという事実。
潮見七海は「空気が読めない」のではない。彼女は目の前の人間が発するSOSの波長に全感覚を集中させ、消えかけている「生への執念」の残り火を見つけ出し、そこに薪をくべる天才なのだと。
桜はその夜、スープを最後の一滴まで飲み干した。
それから、1週間後、
「空気が読めない管理栄養士」潮見七海は相変わらず周囲を困惑させていた。
「潮見さん!いつまでソレ磨いてるの!チョットこっち、手伝って!」と叫んでいる高島。
七海は、「はい、わかりました」と、お得意の気のない返事を返し、厨房でこの前使った大きな保温容器を無心に磨き続けていた。
高島の諦めのため息が聞こえる。
その時、内線の電子音が鳴った。
「潮見さん!内線!!出て!!」と高島がまた叫んでいる。
「しょうがない」とばかりに保温容器を棚へ戻し七海は内線に出た。
「はい、栄養科、潮見です」
「お疲れ様です。特科、相生です」
桜の体調は順調に回復している事が、その声の様子で七海に伝わった。
「あっ、お疲れ様です」
「潮見さん、この前は本当にありがとう。この後、少し時間もらえないかな?申し訳ないんだけど・・・できれば今、特科へ来てもらえない?」
「えっ今ですか?」
七海は一瞬、間を空けて
「わかりました今、伺います」
と伝え内線を切った。
いかにもこの先の予定を確認しましが大丈夫みたいですという演出が小賢しい。
高島へ行先を伝え、「何か美味しいものでもご馳走してくれるのだろうか?」そんなことを考えながら七海は地下にある栄養特科へ向かった。
その前日、
栄養特科では・・・
「私は反対です。あんな空気の読めない人間に私たちの業務が務まるとは到底思えません!」桜の右腕、栄養特科管理栄養士の石山 緑は桜へ詰め寄っていた。
七海のことで揉めている。
桜が七海を栄養特科へ引き抜きたいと石山へ告げたのだ。
桜は七海の思いもよらない一面を見せつけられ、その能力によって救われたのだから彼女を自分の部署へ引き抜きたいと考えるのも当然だろう。
しかし、石山からしてみれば、普段から空気が読めない不思議ちゃんである七海を引き抜こう!などという桜に対して「あんた、いったいどうしちゃったの?」となるのもまた当然である。
桜は石山だけに「海風公園」での出来事を打ち明け、何度も説得を続けているのだが、彼女は頑としてそんな話はにわかに信じられないの一点張りだった。
しかし、桜も絶対に引けない、どうしても七海を自分の元へ置きたかった。
そこで、このままではらちが明かないと
明日、七海をここへ呼んであの時七海はどのような根拠をもって桜がおかれていた状況を見極めたのか、それを二人で直接、七海から聞き取りを行い、その内容で判断しようということでお互い歩み寄ったらしい。
そんな事とは全く知らずに七海は、まだ「ご馳走にありつけるのでは?」などと考えながら栄養特科のドアをノックしていた。
「どうぞ」
桜の返事が聞こえる
「失礼します」
七海がドアを開けると
にこやかにこちらへ笑顔を向ける桜と
それとは対照的に、七海を頭の先からつま先まで鋭い目つきで観察する石山が立っていた。
七海は桜に促されテーブルを挟み桜と石山の向かい側へ着席する。
石山が醸し出す威圧的な空気を七海は全く読めないので彼女もまた「ご馳走にありつける?」と、桜と同様、にこやかな表情だ。
桜が切り出した。
「潮見さん、忙しいところ来てくれてありがとう」
「実はこの前「海風公園」であなたに詰め寄られた時・・・」
「あの時、潮見さん凄い迫力だったものだから あっさり、全てあなたの言う通りですって、なっちゃったでしょ」
「それで、あなたが私の異変にどうやって気付いてくれて、何を根拠に症状を見定めたのか、それをどうしても聴きたくて今日、来てもらったの」
「それ今、話してもらえるかな?」
七海はキョトンとした表情で
「えっ?」と、なって困惑している。
すかさず石山が意地悪な口調で七海に詰め寄った。
「特に根拠はないとか?」
「それとも当てずっぽうとか?」
七海は一瞬、石山へ視線を向けるが直ぐにうつ向き、そして噛み締めるように話し始めた。
「根拠もなにも、そんな事、皆んなもわかってるでしょ?」
「だって室長の胃の音、腸の音、呼吸の音とリズム、他の人とは全然違ってた。あんなの皆んなもおかしいって思いましたよね?」
「1分間に呼吸する回数が多すぎる。浅くて速い呼吸。自律神経が乱れて胃腸の動きが完全に止まっていると感じました」
「それにあの時、室長の指先。爪の根元が白くて表面に縦筋が入ってた」
「亜鉛も鉄も完全に欠乏しとるサインですよね」
「それで、悪いとは思ったんですけど、あの日カンンファレンスルームを出てから直ぐに、この部屋に入って確かめたんです。
あの時間は毎日、室長の検食が終了している時間です。
このテーブルの上にあった検食のお盆。
汁物の器の縁に、一口だけ跡があって、でも、具材は手つかずのまま表面が乾いて崩れていました。
室長はどんなに時間がなくたって、どんな事でもきちんと最後までやりきる人です。検食をいいかげんに終わらせるなんて考えられません。
一口すすった瞬間、味がしなくて吐き気がして、それ以上箸が進まなかったのだと思いました」
「この部屋へ勝手に入って確かめたのは、やりすぎたと思います。ごめんなさい!」
「でも、体や心が弱っている人の体の動きや音やリズムや色って誰でも、すぐ分かるじゃないですか?ただそれだけです。根拠なんて、そんなすごいものじゃないです」
桜と石山はキョトンとした視線を七海へ向け
「ふつう、それ、誰もわからないよ・・・」
と、なっている。
そしてこの後、二人が出した結論は・・・
「あいつ、ハンパねえ〜!」だった。
翌週、辞令が職員通路の掲示板へ貼り出された。
現 栄養科 管理栄養士 潮見 七海 栄養特科へ異動を命ずる




