それでも、生きている
口元に貼りつけたような不気味な笑みを浮かべて、院長はサラに話しかける。サラの心を掻き乱すように。
「貴女も出世したものですね、サラ。それに、どうやら彼は事情をご存じないようだ」
「事情だと?」
胡乱気に目を眇めたレンに、院長はニコニコとその『事情』とやらを語り出した。
「実はですね、サラはここにいらっしゃるブルービアード男爵の所有物になる予定だったんです」
レンの顔から表情がストンと抜け落ちた。
「所有物……だと?」
「えぇ。大金を払っていただきましたからね。それなのにサラは逃げ出したんです。男爵に身柄を引き渡す前に」
大金を払った、という言葉に、レンは目が眩むほどの怒りを感じた。サラはレンの背後で震え続けている。
「馬鹿な! 人身売買は法律で禁止されている!」
「おやおや、貴方は、よほど日の当たる場所でぬくぬくと育てられてきたようですね。裏の世界では日常茶飯事ですよ、そんなこと。そして、孤児である彼女はその大切な商品。逃げた商品は連れ戻さねば我々の信用問題に関わりますしね。しかも今回は取引に動いた額が額でしたので、捜し出すのに実に苦労しました」
「いったいいくら動かしたんだ……?」
男爵とやらの口元が動いた。その金額に、レンは驚愕するしかない。
「なんだと……? 庶民なら一生食うに困らない金額だぞ」
「そ……そんなに……?」
サラも驚愕しているところを見ると、自分が金で買われたことは知っていても、金額のことはどうやら初耳だったらしい。
「そうなんですよ。ですから、ワルシャム嬢からお話を伺ったときは驚きました。これこそまさに、天啓ではないか、と」
「……馬鹿馬鹿しい。リースのことだ。あんたらがサラを捜していることくらい、調べはついていただろうよ」
「おや、まぁ、そんなことはどうでもよろしい。問題は大金が動いた時点で契約が成立しているということでしてね。もはやサラの身柄は男爵のものなんですよ。どうか我々の商品をお返しいただきたい」
レンのこめかみが、ズキリと脈打った。視界の端で、サラの肩が小さく震えている。
「馬鹿なことを言うな。サラは商品ではないし、しかるべき場所に出れば裁かれるのは貴様らのほうだぞ」
しかし、院長も男爵もまったく頓着していなかった。
「なんとでも。世の中、お金次第でどうとでも転びます。貴方も彼女に執着しているのでしたら、男爵から買い取ればよいのですよ。確か、男爵はサラの群青色の瞳が欲しいとおっしゃっていたので、それ以外は手放しても構わないのでしょう?」
「うむ。あの両の瞳さえ手に入れば、それでよい。むしろ、ただで払いさげても構わん」
「だそうですよ。いかがなさいますか?」
「嫌ぁ──ッ!」
サラがたまらず悲鳴をあげた。ブルービアード男爵は人体収集家だった。だから、サラはあれほど必死で逃げたのだ。レンは顔を覆ってしまったサラを掻き抱くと、嫌悪に満ちた眼差しを二人の男に向けた。
「狂ってる……」
声が、思ったよりも低く、掠れていた。聞き飽きた、とでも言うように院長は首を横に振った。
「そうですか。それはどうでも、商品を返していただけますか? それとも、男爵がお支払いになられた額を貴方が支払うとでも? まぁ、もっとも薬剤師程度では一生かかっても無理でしょうが……」
「待ってくれ!」
とっさにレンは叫んでいた。確かに、これはリースの仕掛けた罠だった。レンがクリストファー家の家督を継げば、それも可能だった。だが、ここで実家に戻り、後継を受け入れることはレンの敗北とサラとの別れを意味した。
「待ってくれ……」
絞り出すような呻き声に、サラはレンがなにを考えているかを悟った。
「駄目……レン……!」
サラはとっさにレンから身を引いた。腕を振り解いて、そのまま、ソロソロと後退する。
「サラ……? なにを……」
「……私が、選びます。彼らと一緒に、行きます……」
それだけが、唯一、レンを守れる方法だった。レンの自由を。レンの心を。
「いい子ですね、サラ。さぁ、こちらに来なさい」
院長の声がサラを誘う。サラの両目から涙が溢れた。
「ごめんなさい……レン……ごめんなさい……」
レンの足は床に縫い止められたように動かなかった。
泣きじゃくりながら、ごめんなさい、と繰り返すサラを、ブルービアード男爵は感情のない瞳でじっと見つめていた。サラは院長の隣に並んだ。
「では、商品は無事に回収し終わりましたので、我々はこのへんで失礼いたします。どうも、お邪魔いたしました」
今度こそ逃げないように、サラの片方の手には手錠がかけられる。もう片方は院長とつながっていた。
冷たい金属の感触が、はっきりと伝わってきた。これで終わりなのだと、頭のどこかで冷静な声が告げている。
それでも不思議と、後悔はなかった。レンが生きて、自由でいてくれるなら、それでいい。
自分がいなくなっても、彼の人生は続く。
──それだけを、胸の奥で、何度も繰り返した
そのたびに、左手の指輪がかすかに触れた。あれは約束ではない。ただの証だと、レンは言った。
それでも、サラにとってその指輪はレンの想いそのものだった。
「さぁ、帰りますよ、サラ。レナード氏にお別れを」
ただ呆然と動けずにいるレンに、それでいい、とサラは泣き笑いのような表情を浮かべた。
「……さようなら……レン……今まで……ありがとう……」
そうして、サラはレンの前から姿を消したのだった。
*
ブルービアード男爵の屋敷に連れて行かれたサラは、もうすでに覚悟していた。このまま隙を見て、両目を抉られる前に己の命を断とう、と。
だが、自傷他害の可能性を持つ物は、サラの周囲からことごとく排除された。しかも、サラへの対応といえば、この部屋で過ごすように、と通された部屋は簡素だったが清潔な場所で、食事は日に三食、きちんと与えられた。もちろん風呂もトイレも完備されている。
一日に一度、男爵が顔を、否、瞳を見に来る以外は、待てど暮らせど、両目を抉られるような気配はない。耐えきれなくなって、ついにサラは男爵に向かって疑問を口にした。
「あの……男爵……」
「なんだね?」
訊き返す声も、知らなければ人体収集家だとは思えないほどに、穏やかなものだった。
「その……私の目は……」
「君の両目は抉らない」
「え……?」
返ってきたのは、予期せぬ言葉だった。
「生きて動いている君を見て、あの日、初めて美しいと思った。その瞳の美しさは、きっと君が生きているからなのだろう……そう考えたら、抉れなくなった」
「男爵……」
言葉を理解するまでに、わずかな時間がかかった。拍子抜けと同時に、足の力が抜けそうになる。だが安心よりも先に、別の恐怖が胸を締めつけた。
──生かされる、ということは、ここに留め置かれるということだ
逃げ場はない。それでも、生きている。サラは小さく息を吸い、静かに頷いた。
「それに、君はあのクリストファー家の御曹司からずいぶんと大切にされていたようだね。私にはわかるよ。磨かれた美貌と教養。その身に叩き込まれた礼儀作法。君のそれは、上流階級出身の者にも決して引けは取らない。彼が、大切に、大切にしてきた宝物。それは私にも覚えのある感覚だ」
そこで一旦言葉を切ると、男爵はわずかに笑った。その瞬間だけは、両目の酷薄な光が薄れたようだった。
「少し……昔話をしてもいいかな?」
「はい……」
「私には、かつて心から愛した女性がいてね。春の陽だまりのように温かで、優しく、聡明で、美しい女性だった。今の君のように」
男爵はサラの瞳を眩しそうに見つめて昔話を続けた。サラは、ただ黙って耳を傾けた。
「私は彼女を深く愛したし、彼女も私を愛してくれた。幸せだった。だがね、そんな幸せは長くは続かなかった」
男爵の表情に暗い影が差す。
「ある日突然、彼女は殺されてしまった。無残に身体中を切り裂かれて。彼女の美しい髪も、知性をたたえた瞳も、優しい顔も、温かな命も、すべてが失われていた」
「酷い……」
「私が人体収集に嵌まり始めたのはそれからだったよ。守らなければ、人間の美しさはすべて消えてしまうと思ったんだ。だが、どれだけ美しいものを集めても、彼女は戻ってこない……もう、永遠に」
両の瞳に残酷な光が戻ってきたような気がした。だが、男爵が笑えば、それはまたすぐに薄れた。
「はは、無様だな。今の私を彼女が見たら、カンカンになって怒るだろうか。それとも、涙を流して悲しむだろうか。それとも……心から軽蔑してしまうだろうか……」
「……」
「彼と君を見ていたら、まるで若い頃の私たちを見ている気がしてね。忘れていた感情を思い出したようだ。だから、生きている君たちをもっと見ていたくなった。おかしな話だろう?」
自嘲気味な笑みを浮かべる男爵に、どうやら昔話は終わったようだと判断すると、サラは静かに口を開いた。
「……僭越ながら、よろしいでしょうか」
「なにかな?」
男爵の瞳に冷酷な光が戻った。おそらく余計なことを言えば殺される。だが、もうあとには引けなかった。
「……男爵がそれほどまでに深く愛し、強く愛された方です。きっと、物凄く悲しんで、それから、お怒りになると思います。そして、一緒に歩いていける方法をお考えになるでしょう」
男爵が目を見開いた。沈黙が満ちる。やがて男爵は、くつくつと笑い出した。自分はそれほどおかしなことを言っただろうか。サラが首をかしげたときだった。
「ありがとう……まさか、そんなことを言われるとは思わなかったよ。やはり、君は、生きて動いているほうが断然素晴らしいね」
「……光栄です」
内心複雑だったが、サラはそう答えた。男爵はいいことを思いついた、とばかりにサラに笑顔を向けた。
「君に頼みがある」
「なんでしょうか」
ある程度、覚悟はしていたが、男爵の次の言葉は少々意外だった。
「私が生きている間だけでいい。もう、どうせ長くはない。だから、私の傍にいてくれないか。もちろんこれまで通り、一日一回その瞳を眺められるだけで満足だ。話し相手をするもしないも好きにするがいい」
「!」
「どうかな? 私が死ねば、君は自由だ」
どうやら、考える時間をくれるつもりはなさそうだ。どちらにしろ、サラから手を離した以上、レンとはもう二度と会えないのだ。サラは覚悟を決めた。
「……わかりました」
それでも。
──理解してはいけない
この人の悲しみは、サラを縛る理由にはならなかった。
*
二人の男とサラが姿を消してから、レンは腑抜けたような状態だった。心配して様子を見にきた近所の人たちにも、その憔悴ぶりは明らかで。
「アンタ、あんまり寝てないんだろ? 少しは寝ないと身体が保たないよ、クリス先生」
小母さんも細々とレンの世話を焼きに来てくれた。
「……わかっているだろうけど、あえて言うよ。アンタが今、一番しちゃいけないことってなんだと思う?」
「サラを、助けてくれと、実家に、頭をさげること……」
ボソボソとレンが答えた。小母さんはそれを聞いて、うん、と頷いた。
「サラちゃんがその身と引き換えに守ってくれた自由だろ? それを自分から手放しちゃあいけないよ」
「俺は……サラを守れなかった。愛していたのに……何故、あのとき俺はサラの手を離してしまったんだ……」
「後悔するのはわかるけど、サラちゃんが必死で守ったのはアンタなんだ。もっと自分を大切にしなよ」
小母さんが帰ってからも、レンは必死で考え続けていた。なにか、自分にできること。サラのために、なにか。
「サラ……」
それは、サラの無事を信じて生きることだった。生きてさえいれば、いつかはまた会えるかもしれない。そして、再び出会えたら、今度こそ守り抜く。
自分はこれまで、あまりにも知らなさすぎた。どれだけ反抗してみせても、所詮レンは恵まれた富裕層の子供のままだった。
世界は広く、闇に満ちている。その闇からも、サラを守るためにはどうすればいい? 答えは簡単だった。世界を知り、闇を知り、自由に動けるだけの権力と財力を手に入れればいい。
これは、人生そのものを賭けた勝負だった。レンが折れて実家に助けを求めればレンの負け。実家のほうが頭をさげて戻ってくれと頼んできたらレンの勝ち。もう、弱みを見せるわけにはいかない。時間との勝負だった。
それからの日々は、驚くほど静かだった。朝になれば薬棚を整え、夜になれば空の寝台を見つめる。
何度も名前を呼びそうになり、そのたびに唇を噛みしめた。
待つことは、止まることではない。前へ進むために、耐える時間なのだと、レンは自分に言い聞かせた。サラが戻る場所を、失わせないために。
大富豪・クリストファー伯爵の死が公表されたのは、それから一年後のことだった。
2026/01/05
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