雪の日の来訪者
それでもサラはまだ気にしていた。
「でも家、捨てたって……そんな、簡単に……」
「そんな簡単に言ってしまっていいのか、って? 当たり前だろ。親父にも宣言してきてやったけど、俺が欲しいのは温かい家庭なの。気立てのいい奥さんに、可愛い子供たち。多少貧しかろうが愛情に満ちた幸せな暮らし。最高だろ? サラと一緒なら、絶対叶う気がすんだよなー」
それは、サラも同じ気持ちだった。レンと一緒なら、そんな夢のように温かい家庭も、夢ではなくなる気がする。そんな夢のような幸せを、思い描いても許されるのだろうか。
気づけばサラの群青色の瞳から涙がこぼれ落ちていた。
「サラ?」
どこか慌てたような声が上から降ってくる。ポロポロと涙をこぼしながら、サラは言葉を紡いだ。
「私が……そんな……夢みたいな、幸せ……欲しがっても、許されるのかな……」
ハシバミ色の瞳が驚いたように見開かれて、そのあと、優しげに微笑んだ。
「許されるとか、許されないとか、そんなの関係ねぇよ。一緒に、幸せになろうぜ?」
「うん……!」
大丈夫。レンと一緒なら。どこまでだって、きっと歩いていける。サラはそう信じた。
レンも、自分の腕の中にいる最愛の女性をギュッと抱きしめて、そう信じていた。
その幸福が、あまりにも静かで、穏やかで、完成されすぎていることが、サラには少しだけ怖かった。
人はこんなにも満たされていて、許されるのだろうか。
幸福はいつも、失う前触れを連れてくる──サラはそう学んできた。
そんな考えを打ち消すように、サラはレンの胸元に顔を埋め、深く息を吸った。
ここにある温もりが本物であることを、何度も確かめるように。
孤児院で過ごした日々では、なにかを得るたびに、必ず代わりに失うものがあった。
優しくされた翌日には突き放され、期待した分だけ、失望は深く刺さった。
だからサラは知っている。幸福は、永遠を約束してくれない。それでも今は、この腕の中だけは信じたかった。
失う痛みを恐れるより、与えられた温もりを抱きしめることを選びたかった。
たとえこの先、どんな嵐が待っていようとも。
*
レンが帰ってきて、薬局も再開した。街の人々は、腕利きの薬剤師の帰還と、その優秀な助手の仲直りを心から喜んだ。
「クリス先生、アンタやるじゃないか。見直したよ。半月ちょっとも留守にしておいて、ようやく帰って来たと思ったら、次の日にはサラちゃんの左手の薬指に指輪がはまっているんだから。しかも『連理』だなんて、いやだよ、こっちが照れちまうねぇ」
「どーも」
小母さんに男気を褒められたレンは嬉しそうにしている。ちなみに仕事のときは薬剤の調合の邪魔になるので、レンの指輪は革紐で首にぶらさげてある。サラも料理のときだけは外していた。
「もー、料理美味いわ、人は優しいわ、サラは可愛いわ、こっちサイコー。シャバに出た悪党の気分」
「今、さりげなくっていうか思いっきり惚気たね。まぁ、確かにサラちゃん可愛いし、料理もすんごい上手くなったしねぇ。誰のためだと思ってるんだい、この果報者」
「だよなー。あー、今、俺マジ幸せだ」
放っておくと際限なく惚気られそうなので、小母さんは話題を変えた。
「そう言えば、アンタ、サラちゃんから聞いたかい? アンタの留守中に、あのお嬢さんが来て……」
「あぁ、俺と関わるなって言った話だろ? 聞いたよ」
「大事なのはそこじゃないよ。あたしが聞いた話では、あのお嬢さんはサラちゃんに、こう言ったんだよ。『命が惜しければ』今後一切アンタに関わるなって」
レンの顔色が変わった。なんだと? サラはそこまでは言わなかった。身分違いだのなんだのといった話はしたが、命に関わるとは聞いていない。
「その様子じゃ、やっぱり聞いていなかったんだね。しかも、サラちゃん、そう脅されたにも関わらず、きっぱり断ったそうじゃないか。アンタ、本当にあの子を守ってやれるんだろうね?」
サラはあのとき、なんと答えた? リースからなにもされなかったか、と聞いたあのとき。
『大丈夫。でも……それから一週間は凄く怖かった……』
一週間、怖かった──答えはひとつしかない。いつ殺されるかもわからない恐怖に怯えていたのだ、と今更になって知る。それは、いったいどれほどの恐怖だったのか。
しかも、レンとともに在ると決めた以上、ずっとその恐怖はついて回るのである。それなのに、レンが帰ってきてからはずっと嬉しそうで、そんな素振りは微塵も見せずに。
「っ──あのバカ!」
「アンタ、あの子の傍を離れるんじゃないよ。昼間だろうがなんだろうが、絶対に一人で出歩かせちゃいけない」
「わかってる。小母さん、教えてくれてマジで恩に着る。サンキュな!」
「忠告が間に合ってよかったよ。じゃあ、あたしは帰るからね」
小母さんが帰っていったあと、レンは一人で考え込んでいた。ちなみにサラはキッチンか寝室にいるはずなので、心配はいらなかった。
リースはサラを命の安全を盾に脅した。父親にはサラが死んだらレン自身も生きてはおらず、伯爵家も終わりだ、ということを吹き込んでおいたので、下手な行動には出ないだろう。
だが、たとえそのことが父親からリースに伝わっているとしても、リースがどう出るかはわからなかった。一時の感情で短絡的な行動に出るのが彼女だ。
「くそっ、厄介な……」
行動が読めないのは非常に厄介だった。とりあえず、リースがやりそうなことは片っ端から警戒する必要がありそうだ。住所はすでにバレているが、今更引っ越したところで状況はほとんど変わらないだろう。むしろ街の人の理解と協力が得られるという点では、今の町と家に住んでいるほうがメリットは大きい。
「レン、食事の準備ができたよ」
「サンキュ、今行く」
奥に続く扉を開けてキッチンに入ると、サラがレンを待っていた。
「お、美味そう。いただきます」
「……いただきます」
しばらく黙って食事をしていた二人だったが、レンは思い切ってサラに聞いてみた。
「なぁ、サラ。あのさ、俺の留守中にリースが来たって言ってただろ? 脅されたこと、なんで黙ってた?」
サラが食事の手を止めた。こちらをチラチラと窺っている。まるで出会ったときみたいだとレンは思った。
「……怒らない?」
「怒らない」
「あのね……レンの傍を離れるって選択肢は私にはないから……言っても心配かけるだけだと思ったの……」
レンはその理由に怒るよりも呆れてしまった。実は嬉しかったりするのは秘密だ。
「いや、それさ、他人から聞かされるほうがよっぽど心配するだろ」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。別にお前悪くないし。ただ、命の危険があるのなら言ってほしかった。手放すことだけはできなくても、一緒に気をつけることはできるだろ?」
「うん……」
サラは、しゅん、と項垂れた。そう言われればそうだ。自分一人で警戒するのには限界がある。レンが理解してくれているからこそできることもあるだろう。
「次から……気をつける……」
「……まぁ、次、なんて事態、ないことを祈るしかないんだけどな」
コクリ、とサラが頷く。
「基本的には、俺の傍を離れない、一人で出歩かない、近づいてくる見知らぬ人間に注意、ってとこか」
「はい……」
「あとは、状況次第だな。俺を殺す気はないようだから、食べ物や飲み物なんかは大丈夫だと思うが、気をつけるに越したことはねーよ」
なにかを考えているような表情でサラはもう一度頷き、そしてポツリと呟いた。
「レンは……」
「ん?」
「手放す、とは言わないでいてくれるんだね」
「当たり前だ。手放したところで、お前の命が守られる保証があると思うか? どっちみち、命がないのなら手元に置いておく。たとえそれが俺の我儘だと責められようとな」
文句あるか、とばかりにサラを見て、レンは息を呑んだ。
「嬉しい……」
そのとき、サラが浮かべていた淡い笑みに、レンは時と場合を忘れて見惚れた。儚げだが嬉しそうにはにかんだ笑み。蕾が綻ぶような、そんな笑顔に。
「その顔は反則だろ」
手を伸ばしてサラの頬に触れる。食事中なので、それ以上はしない。だが、許されるなら抱きしめて腕の中に閉じ込めてしまいたいくらいに、愛おしさが溢れて仕方がなかった。
*
それから半年は何事もなく過ぎた。街は相変わらず平穏で、人々は二人の存在を当たり前のように受け入れていた。
サラの左手の指輪は、いつしか誰もが知る印となり、冷やかしや祝福の言葉を向けられることも増えた。
それでもレンの胸の奥に、消えない違和感が残っていた。
嵐の前ほど、空は澄み渡る。なにも起きない日々が続くほどに、起きるべきなにかが、じっと息を潜めている気がしてならなかった。
「リースのヤツ、動かねーな。あいつがそう簡単に諦めるはずがねぇ。とすれば、時機を窺っているか……」
「時機を……?」
「あぁ。必ずなにか企んでいやがる。サラ、絶対に一人で行動するなよ」
さらに冬、年が明けた頃には、外は一面の銀世界だった。
「こんだけ雪降ってりゃ、さすがに患者は来ねーだろ。サラ、薬局閉めるから、片づけ手伝ってくれ」
「はーい」
奥のキッチンで昼食の準備をしていたサラが扉から顔を出した。レンが扉の向こうのテーブルに視線をやると、もうほとんどできあがっているようだ。
「いい匂いだな」
「うん、あとスープをよそって終わりかな」
外はしんと静まり返っていた。雪は音を吸い込む。足音も、気配も、すべてを白く覆い隠してしまう。
レンはふと、理由もなく背筋に冷たいものが走るのを感じた。
患者が来るはずがない時間帯。それでも、外の雪を踏みしめる、はっきりとした足音がした。
そして──ノックの音が、その予感を現実に変えた。
「うん? 患者か?」
レンが扉を開けると、そこには黒いスーツに身を包んだ二人の男の姿があった。彼らの顔を見たサラがヒュッと息を呑む気配が伝わってきた。
次の瞬間、ガチャンと重い音がして、サラが片づけていた薬草の入ったビンが床に落ちて割れた。
「おい、大丈夫か? サラ」
レンが声をかけるが、サラはレンのほうを見ていない。怯えた視線は二人の男に向かったまま。
やがて片方の男がゆっくりと口を開いた。年の頃は、壮年に差しかかるかどうか。髪をオールバックに撫でつけて、紳士然としているのに、どこか酷薄そうな光をその目に宿した男だった。
「やれやれ。三年もかかってしまったが、ようやく君を見つけたよ。サラ・スノウ」
「貴方は……あのときの……」
「今年で十七歳か。ずいぶんと大人になったものだが、その群青色の瞳の美しさは、あのときから変わらない」
「嫌っ……!」
サラは小さく悲鳴をあげるとレンの背中に隠れた。腕に縋りついてくる手がカタカタと震えていることに気づいたレンは背後のサラを庇うように軽く腕を広げた。
「スノウ?」
「孤児院ではそういう風に名前を決めていたのですよ。たとえば、フェア、クラウド、レイン、ウィンド、スノウ、というように。そうですよね、サラ?」
「院長……先生……どうして……ここに……」
サラに院長と呼ばれた男は、もう一人の男とほぼ同年代くらいかやや若い。ニコニコと顔に笑みを浮かべてはいるが、どこか全体的に冷たい印象を受ける男だった。
「ふふ……それはですね、とあるレディに教えていただいたのですよ。サラという名の少女がここにいる、と」
レディという言葉に、レンが反応した。
「……リースか!」
「おや、バレてしまいましたか。えぇ、そうです。リース・ワルシャム嬢からの依頼でして……サラをレナードという男性から引き離せるなら、どんな手を使っても構わない、とのことでしたので、ブルービアード男爵にお声がけしたのですよ。男爵は大層サラにご執心でしたので」
院長はあっさりと内情を暴露した。裏になにかありそうだが、レンはあえて平静を装って尋ねてみた。
「ふーん。で、俺の婚約者になにか用か?」
レンはあえて『婚約者』という言い方をした。サラに手出しさせないための方便だった。院長は目を丸くしたようだった。
「ほう……婚約者とは。これは意外でした」
「そうか? 来年には入籍する。今さら返せと言われてもまからんぞ」
強気に出るレンとは裏腹に、サラの震えは止まない。院長はそんなサラを一瞥すると、口の両端を吊りあげたのだった。
2026/01/04
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