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連理の枝、その先へ

 レンのいなくなった家の中は、不思議に広かった。洗濯物を干し終えて、ふと指先を見る。指輪はまだない。それなのに、何故かそこに温もりが残っている気がして、サラはギュッと手を握りしめた。


 レンがいないだけで、家はこんなにも静かになる。足音も、ページをめくる音も、薬草の匂いもない。ただ、ときおり時計の針が進む音だけが耳についた。


 この静けさが、いつか当たり前になるのだろうか。そんな考えが胸をよぎって、サラは首を振る。考えたくない。考えるだけで、なにか大切なものがこぼれ落ちてしまいそうだった。


──大丈夫。レンは帰ってくる


 朝食を作り、一人で食べ、掃除をして、買い物に出て、昼を迎える。

 同じことを繰り返すだけの一日が、やけに長く感じられた。


 買い物に出ると、もうすっかり馴染みの店主の小父さんが話しかけてきた。


「クリス先生が留守で寂しいねぇ」

「えぇ。でも、皆さんがよくしてくださるので大丈夫です」

「そりゃよかった。ほら、これサービスしとくよ。持ってきな」


 小父さんは果物をひとつおまけしてくれた。ありがたく受け取り、礼を言って店をあとにする。


 当面必要なすべての買い出しを終えて、家に戻ったら昼食の準備だ。


 後片付けを済ませるとすっかり手持ち無沙汰になってしまった。本でも読もうと思って寝室に入ると、ベッドが目に入った。腰かけてコロンと横になると、ベッドからは日向の匂いがした。


(レンと同じ……)


 レンはいつも温かな日向のような匂いがした。安心する匂いと温もりに、束の間サラは微睡んだ。


 目を覚ますと本を読み、夕食の準備をして、食事を済ませたら、後片付けをして、風呂に入る。味気ない、単調な暮らし。だが、日々はそうやって過ぎていった。


***


 ある日、呼び鈴が鳴らされた。薬局から外に続く扉を開けると、そこにいたのはなんとリースだった。


「ごめんあそばせ」

「レンなら留守ですが……」


 怪訝そうに尋ねるサラに、リースは傲岸な態度で告げた。


「知っているわ。実家へ戻ってきたのだもの。わたくしは貴女に会いに来たのよ、サラさん」

「私に……? どういったご用件でしょうか」


 リースはそれには答えず、サラを上から下まで検分した。そして嫌そうに顔をしかめる。


「まぁ、百歩譲って造作が整っているのは認めて差しあげるわ。でも他はダメね。こんな田舎臭い娘のどこがいいんだか……貴女おいくつ?」

「……十六です」


 それを聞いたリースの顔が驚愕に歪んだ。


「んま! 十六ですって? まだ成人もしていない小娘じゃないの。わたくしの恋人にどうやって取り入ったの? 白状なさい!」

「恋人? レンは幼馴染だと……」

「そうね、それは事実だわ。だけど、レンの恋人は私だけ。彼の妻になれるのも私だけ。貴女みたいな小娘が、身分もわきまえず、思い上がりも甚だしい。どうせ大した家の出でもないのでしょう? まったく、恥知らずもいいところ」


 身分違い。それはサラとてわかっていることだった。だが、恥知らずという言葉はさすがに胸に刺さった。


「約束なさい。今後一切、レンには関わらない、と。そうしたら、許してあげる」


 サラは少しだけ考えた。こういった人間の考えることは少しくらいならわかるつもりだ。


「お約束はできない、と申し上げたらどうするんですか?」

「お黙り! 庶民風情が生意気な口を叩くんじゃないわ。お前はただ約束すると言えばいいの。約束しないというなら……それなりの覚悟はあるのよね?」


 やはり。最初からサラを生かしておく気はないのだ。だが──。


「お断りします。レンは今の私のすべてです。彼を失ってまで生きたいとは思えません。ですから、お約束することはできません」


 サラはきっぱりとそう言った。それが、どれほど危うい言葉かもわかったうえで。どの道、生かしておくつもりがないのはわかっている。ならば、偽りを口にする意味はない。サラにはレンが必要で、レンはサラを妻にしたいと言ってくれた。その想いを裏切るわけにはいかない。


(まだ……言えない。あの人の名前も、約束も、今はまだ、私だけのものだから……)


 サラの目の前で、リースは怒りに打ち震えた。


「よくも……よくもわたくしの最大限の譲歩を踏みにじってくれたわね! 覚えていなさい。この端女風情が。このわたくしに恥をかかせてくれたこと、後悔するがいいわ!」


 捨て台詞を残して、リースは帰っていった。サラは極度の緊張と、それから解放された安堵で、ヘタリとその場に座り込んでしまったのであった。



 リースが訪ねてきてからというもの、サラは常に身辺に気を配るようになった。人を使ってなにか仕掛けてきたとしてもおかしくないからだ。幸い、今のところそんな兆候はない。


(レン……早く帰ってきて……)


 サラは祈るような気持ちでレンの帰りを待った。だが、レンはなかなか帰ってこない。


 夜になると、わずかな物音にも心臓が跳ねた。風が窓を叩く音に、足音を重ねて聞き違え、何度も灯りを点けては消した。


 眠れないまま迎えた朝、鏡に映る自分の顔がひどく青褪めて見えて、サラは一瞬だけ息を詰めた。


──怖いのは、リースだけじゃない


 レンのいない時間が、少しずつ自分を変えてしまう気がして、それがなによりも恐ろしかった。


 張り詰めたような一週間が過ぎ、サラが心身ともに参ってしまいそうになっていたときのことだった。薬局のほうでカタリと音がしたのをサラの耳が捉えた。


 もしかして、と逸る気持ちを抑えて、おそるおそるキッチンから様子を窺う。鍵が外れる音がした。迷いのない足音が真っ直ぐにキッチンへと向かってくる。サラは息を詰めて扉を見つめていた。


 扉が、軋むような音を立てて、ゆっくりと開かれた。


「サラ、いたのか。鍵がかかっていたから、てっきり出掛けているものと……」


 顔を出したのは、レンだった。これ以上ないほどの安堵がサラの胸に広がる。気づけばサラは、レンの胸に飛び込んでいた。


「サラ?」


 ギュッと縋りついてくるサラに、レンは驚いたように荷物を床に置くと、サラの身体をそっと両手で抱きしめた。


「レン……」

「サラ、どうした?」


 サラは答えない。そのままレンに縋りつく腕に力を込めた。久しぶりのレンの温もり、匂いにようやく安心する。顔をあげると、背伸びをしてレンの頬にそっと口づけを贈った。


「おかえりなさい」

「ん、ただいま」


 レンのハシバミ色の瞳が嬉しそうに笑う。サラも嬉しかった。レンからたくさんの口付けの雨が降ってくる。額、頬、瞼、鼻、そして、唇に。

 久しぶりの口づけは、とても甘く、サラの心を優しく揺らした。唇が離れていく。


「結構長いこと留守にして悪かったな。留守の間のことを聞かせてくれるか?」


 サラはコクンと頷いた。



 サラはゆっくりと少しずつ、いろいろなことを話した。青果店の小父さんが果物をサービスしてくれたことや。いつも裁縫と料理を習っている小母さんが物凄くよく世話を焼いてくれたこと。


 小さなことから、リースがサラに会いにきたということまで全部。普段はなかなか話さないので、上手く話せなかったが、それでもレンは黙って話を聞いてくれた。


「そうか。リースが来たのか……あいつになにもされなかったか?」

「大丈夫。でも……それから一週間は凄く怖かった……」

「悪い。もうちょっと早く帰ってくればよかったな。ちょっとあっちで用があって。ついつい長居しちまった」


 実家に帰ること以外になにか用があったのだろうか。サラが不思議に思って首をかしげていると、レンがゴソゴソとスーツのポケットから小箱を取り出した。


「物自体は前々から頼んでいたんだが、なかなか気に入ったデザインがなくてな。知り合いの彫金師が考案中のヤツがひと目で気に入ったから、それの完成を待ってたんだ。開けてみ?」


 そう言われて、サラが丁寧にラッピングされた小箱を解いて開けると、中には二つの指輪が入っていた。金と銀の流線が複雑に絡み合った、美しいデザインの指輪だった。


「イメージは『連理の枝』だそうだ」


 その言葉だけで、サラは胸の奥をギュッと掴まれた気がした。


「綺麗……」


 思わずサラは呟いていた。


『天に在っては願わくは比翼の鳥となり、地に在っては願わくは連理の枝とならん』


 木々の枝が互いに伸びて連なり、絡まり合って木理が通じるように、男女の深く睦まじい契りの象徴。それが『比翼の鳥』と並ぶ『連理の枝』だった。


「これが、俺からお前への想いの『証拠』だ。サラ、受け取ってくれるか?」


 視線を合わせて告げられたレンの言葉に、サラの心が震えた。なんだか泣いてしまいそうだ、とサラは思った。


 サラはその群青色の双眸でレンを見上げた。


「私は孤児で、貴方は貴族……身分違いだとは思わないの?」

「身分は捨てた。出自は関係ねぇよ。俺は、お前がいい。サラ」


 お前がいい。孤児であるサラにそんなことを言ってくれるのは、きっとこの世界でレン一人だけ。


「私も……レンがいい。レンは、今の私のすべて。十八歳になったら……お嫁さんに、してくれる……?」


 サラがおずおずと答えると、レンは破顔一笑、さっそく小さいほうの指輪を手に取った。


 左手がレンの左手にそっと持ち上げられ、薬指に指輪がはめられた。なんとサイズはぴったりだった。


「嘘……ぴったり……」

「だろー? ちょっと自信あったんだぜ。ほら、サラ。俺にも」


 言われて、慌ててサラは残った大きいほうの指輪を手に取った。自分がしてもらったようにレンの左手を取って、薬指にお揃いの指輪をはめる。これも当然ぴったりだった。


 レンはハシバミ色の瞳を優しく和ませてサラの頭を撫でた。


「一応、女性は十六歳から婚姻が結べるんだが、あれは婚約の意味合いが大きいからな。お前が十八歳になるまで返事は待つさ」

「レン……」


 どこまでもレンはサラの気持ちと選択を尊重してくれるのだ。サラは胸が切ない気持ちでいっぱいになった。


 しばらくのあいだ、二人はなにも言わなかった。


 指輪の重みを確かめるように、サラはそっと指を動かす。そのたびに、金属がかすかに光を返した。


 今この瞬間だけは、確かに同じ場所に立っている──そんな実感が、胸の奥に静かに広がっていった。


「そういや、俺、『クリス』って名乗ってっから、もし結婚したらサラも『クリス』でいいだろ?」

「……ファミリー・ネームの話?」

「そうそう。一応、家を捨ててきた身分だし、そのまま名乗るわけにもいかねーだろうしな」


 今更になって、レンの元の名前が気になったサラは、ふと尋ねてみる気になった。


「……元の名前、なんて言うの?」

「本名を名乗るとやたら長ったらしい名前になるから、大概、レナード・クリストファーって名乗ってたな。省略してレン・クリス」


 簡単にそう言ってのけたレンに、サラは既存の知識を総動員して記憶を浚った。


「……ファミリー・ネームがクリストファーで、伯爵家って……あの、有名な大富豪のクリストファー家……?」

「あぁ、言ってなかったっけ? そう、それ」


 サラは本当に、その場で崩れ落ちそうになった。


 大富豪。名門。伯爵家。噂話や遠い世界の物語でしか聞いたことのない名が、いま、自分のすぐ目の前にいる男と結びついた事実を、頭が上手く処理できない。


「……レン……それ、本気で言ってるの……?」


 声が震えた。冗談で済ませてくれたほうが、どれほど楽だっただろう。


「あぁ。本気だ。驚かせて悪いな」


 レンは苦笑しながらも、目を逸らさなかった。逃げない。その視線が、サラの胸をさらに締めつける。


「そんな人が……どうして、私なんかを……」


 思わずこぼれた本音に、レンは一瞬だけ目を細め、それから、静かに言った。


「それ、まだ言うか?」


 サラの顎に指先が触れ、そっと顔をあげさせられる。


「俺は肩書きでも金でも生きてねぇ。お前と一緒にいるときの俺が、いちばん俺らしい。それだけだ」


 はっきりとした声だった。迷いも、躊躇もない。


「それに……」


 レンは指輪のはまったサラの左手を取り、自分の胸に当てた。


「ここが、帰る場所だって決めたのは俺だ。誰にどう言われようが、変える気はない」


 サラの視界が滲んだ。怖かった。嬉しかった。重かった。そして、どうしようもなく、愛おしかった。


「……レンは、狡い……」

「よく言われる」


 軽く笑って、レンはサラを抱き寄せる。胸に顔を埋めると、聞き慣れた鼓動が確かにそこにあった。


「なぁ、サラ」

「……なに……?」

「俺はもう、引き返さねぇ。だから、お前も自分を低く見るな。俺が選んだ女なんだ」


 その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。サラは、ギュッとレンの服を掴んだ。


「……うん。逃げない。私も」


 小さな、けれど確かな返事に、レンは満足そうに息を吐いた。


「それでいい」


 夜は静かだった。だがその静けさが、長くは続かないことを、二人ともどこかで感じていた。


 指輪の冷たい感触が、これから訪れるであろう現実を告げているようで。


 それでもサラは、その手を離さなかった。嵐が来るのなら──同じ枝に連なって、ともに受け止めるだけだ。

2026/01/03

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