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揺れる家名、揺れぬ想い

 気まずい沈黙が流れた。どのくらい留守にするのか。レンだって、考えていなかったわけではない。あまり長い間留守にするつもりもなかった。だが、こればかりは向こうの出方次第だとしか思えなかったのだ。


「……わからない。なるべく早く帰る気ではいるが、不安なら、小母さんのところに泊めてもらっても……」

「平気。一人で大丈夫」


 とっさにサラは嘘をついた。平気なはずがなかった。この二年、片時も離れずに過ごしてきたのだ。もはや、レンは今のサラの生活の一部、いや、そのすべてだった。


「帰ってくるまで、薬局は休みにするから、この家で好きに過ごしていい。俺は……決着をつけてくる。話がどう転ぶにせよ、絶対に帰ってくるから」


 決着。その言葉でサラは気がついた。レンを後継ぎにしたがっている周囲の人間と、家を継ぐ気はないと言い切ったレン。彼は実家に戻るつもりなのだ。


 とたんにサラの胸中に不安が渦巻いた。行かないで。声を大にして、そう言いたかった。一人になってしまう。行かないで──。


「い……」

「ん?」

「……いってらっしゃい、レン……気をつけてね……」


 レンは苦笑した。


「あぁ、行ってくる。出発は明後日にするからな。今日薬局に来てくれた人にはしばらく休むって言ってあるけど、まだ言ってない人もいるし」

「……そっか」


 見るからにしょんぼりと落ち込んだ風情のサラに、レンは不謹慎だが少しだけ嬉しくなる。不在を寂しがられる程度には好かれているらしい。


「すぐに戻るさ。だから、そう不安そうな顔をするな」

「……」


 サラは答えない。そんなサラが愛おしくて抱きしめたかったが、また拒否されるのも困るので、レンは思うだけに留めたのだった。


 そして、出発の日の朝。


「サラ」

「?」

「出発の日くらい、いいだろ?」


 サラに向けておいでおいでと手招きをするレン。なにが起こるかわかっていたが、しばらく会えなくなるので、サラはおずおずと近づいていった。やがて、レンの腕の中にサラの華奢な身体がすっぽりと納まる。


「あー、この感じ、久々だなー」


 サラを抱きしめてご満悦のレン。嬉しさ余って、ついグリグリとかいぐりしてしまう。サラがレンの腕の中で痛そうに身じろぎした。


「悪い、悪い。しばらく会えなくなると思うと、な」


 その言葉に、本当にしばらくは一人になってしまうのだと、サラは実感した。


「んな顔すんなって。なにかあったらいつでも小母さんに頼れるように上手く言ってあるからさ」


 だが、サラの曇った顔は晴れない。


「必ず、すぐに帰ってくる。絶対だ」

「本当に……?」

「当たり前だろ。俺がお前を一人にするとでも思うのか?」

「……」


 サラは答えない。否、答えられなかった。いつだってレンに置いていかれる不安だけが胸の裡にあったから。


 レンはサラの額に小さな口づけを贈ると、彼女を離した。


「じゃあ、いってくる」

「……いってらっしゃい」


 そして、レンは実家に戻ったのだった。



 久しぶりに戻った実家はやはり冷たい場所だった。品はいいが無駄に豪奢な屋敷。よそよそしい使用人たち。こんなところはさっさと見切りをつけて、サラのいるあの家に帰るに限る。


 幼少期から青年期を過ごした部屋は、今でも使えるように手入れされていた。久方ぶりに家族と形だけの対面を果たすと、レンはさっさと自室に引き揚げた。


 上着を脱ぎ捨てて、行儀悪くそのままベッドに寝転がる。今頃、サラはどうしているだろうか。愛しい少女に想いを馳せていると、扉が控えめにノックされた。


「レナード様、お客様でございます」


 扉の外から執事の声がする。


「俺に客? 俺が戻ったことを知っているヤツなんて……」

「リース・ワルシャム嬢でいらっしゃいます」

「リースか」


 確かにリースなら、あの両親からすぐに連絡が行ってもおかしくはない。会いたくはなかったが、訪ねてきている以上は無下に追い返すことはできなかった。


「客間に通せ。すぐに行く」

「かしこまりました」


 身なりを整え客間へと向かうと、そこには当然のようにリースがいた。


「あら、本当に帰って来ていたのね」

「なんの用だ、リース」


 思っていた以上に冷たい声が出た。だが、リースは意にも介さない。


「ご挨拶ね。婚約者に会いに来るのは、そんなに変なことかしら?」

「お前と婚約した覚えはないな」

「うふふ、これからそうなるのよ」

「帰れ」


 冷たくあしらっても、リースはめげない。


「これからそういう条件が提示されるはずよ。爵位を継ぐに当たって、わたくしを妻に迎えること。それが条件だと」

「そうか。俺は爵位を継ぐつもりはないと言ったはずだ。残念だったな」

「……ちょっと待って。だったらどうして帰って来たの?」

「お前らと完全に縁を切るためだ。今後一切俺の人生に関わらないと約束させるつもりで戻ってきた」


 レンの淡々とした言葉に、リースが青褪めた。てっきり、爵位を継ぐ覚悟で帰ってきたのだと思っていたのに。


「レン……貴方……」

「お前らのくだらない思惑も、これでおじゃんだな。関係を清算して俺はあの家に帰る。あそこが俺の居場所だ」

「ならん!」


 突然、別の声が割って入った。レンが入口の扉を振り返ると、そこには老齢の男性がいた。レンの父だった。


「お前は私の跡を継ぐのだ、レナードよ。それ以外の道など、お前にはない! リースとの婚姻もお前の進む道にある。大人しく言うことを聞け」

「嫌だね。政略結婚なんぞ真っ平御免だ。俺が欲しいものはここにはない。ここは俺の居場所じゃないんだ」

「レン、欲しいものってまさか……」

「お前に言う必要があるか?」


 リースはさっと青褪めると、唇を引き結び、踵を返して辞去の挨拶も述べずに屋敷を出て行った。その後ろ姿をなんの気なしに見送って、レンは父親と相対した。


「欲しいものとはなんだ? まさか、私にまで言う必要はないとは言わんだろうな」

「俺が欲しいのは……温かい家庭とか、そういうもんだよ。気立てのいい妻、可愛い子供、貧しくとも愛情に満ちた幸せな暮らし。それが欲しいものだ。どうだ。ここでは手に入らないものだろう」


 一瞬だけ、言葉に詰まった。


「そんなことはない。リースを妻に迎え、爵位を継ぐのだ。そうすれば望みは叶う」

「叶うのはあんたの望みであって、俺の望みじゃない。リースのヤツが気立てのいい妻になれるかよ。それにもう、妻にしたい女性はいるんだ。残念だったな」


 その言葉に、父親はわずかに眉を動かした。だが、それだけだった。


「その娘は貴族か?」

「違う。だが、礼儀作法や一般教養は俺が一から教え込んだからな。そこらの下級貴族の娘よりも遥かに出来がいい。自慢したっていいなら美貌と教養であいつに敵う女なんていない」

「リースの報告にあった、サラという名の娘か」

「知っているのなら話は早い。俺はサラを妻にする。あんたの許可は必要ない。爵位も、屋敷も、金も名誉も、全部いらない。ここに置いて行ってやる。だから、さっさと妹のほうに娘婿を見つけるんだな」


 言いたいことをすべてぶつけたレンは父親を睨みつけた。だが、相変わらず父親は無表情で反応に乏しかった。


「それは無理だ」

「は?」

「あいつはどこぞの馬の骨と駆け落ちしてこの家を出て行きおったからな。恩知らずの傷物の娘にもう用はない」

「なんだって?」


 今度はレンが驚く番だった。まぁ、それくらいはやりかねない妹ではあったが。妹の不在や安否を問う、ということよりも、先を越された、という思いが拭えなかった。


「もう、お前しかおらんのだ」

「……それで、リースまで使って俺を捜させていたってわけか。今までの行動から考えると一番穏当かもな」

「そうだろう。少しは恩を感じて家を継ぐ気になったか?」

「それは無理だ。さっきも言っただろう。リースを妻にする気はない。他の女もな。俺が妻にしたいのはサラだけだ」


 父親の顔が、何事かを考えるような素振りを見せた。経験上、このあとに来るのは碌でもない言葉だ。レンが内心身構えていると、父親が口を開いた。それはレンにとって驚くべき言葉だった。


「サラという娘を妻に迎えれば爵位を継ぐのか? そうだと言うのならば考えてやってもよい」

「……真っ平御免だと言いたいところだが、何故、考えを変えた。あんたらしくもない」

「私はもう長くない。お前に家督と爵位を継いでもらわねば困るのだ」

「俺はまったく困らないがな」


 ハン、と鼻でせせら笑って、レンは言葉を続けた。


「どうせ、サラを妻にしても本妻は別、とか言って貴族の娘を押しつける魂胆なんだろう? それかあの手この手で嫌がらせをして自分から去るように仕向けるとか。サラになにかしたら、あんたといえどもただでは済まさん」


 どうやら図星だったようだ。父親の視線がわずかに泳いでいる。


「お前に跡を継がせるためならば、そのサラという娘を始末させることすら厭わん」

「へぇ。それは俺に死ねって言っているのか?」

「!?」

「そういうことだろう? サラを殺したりしてみろよ。俺だって生きてはいない。まぁ、あんたらもしっかり道連れにしてやる。領地と財産は没収され、家は取り潰し。あんたにとっては最悪の末路だな」


 そこまで言われて、父親は初めて息子を憎々しげに睨みつけた。その視線をレンは正面から受け止めた。


「いい加減、もうわかっただろう? 俺は家を出て行き、サラを妻に迎える。あんたらとは一切関わらない。それで終わりだ。跡取りが欲しければ、今からでもこさえるんだな」


 話は終わりだ、とばかりにレンは踵を返して扉に向かった。父親はそれを止めようとはしなかった。


「そういえば……」


 父親の言葉に、レンは足を止めた。あとから考えれば、ここで足を止めるべきではなかったのだ。そうすれば、話を聞くこともなかったのに。


「リースとお前には身体の関係があると聞いたが」


 そのとき初めて、レンは激昂しそうになった。過去の自分に対する怒りと失望で。


「……何年前の話だよ。一度だけ、どうしても、とあいつに乞われた。それだけだ。あいつには、俺以外にも男がいた。それだけだ。あまりリースの話を真に受けるなよ? 誇張と妄想が激しいからな」

「だが、事実なのだな?」


 レンは答えない。そのまま歩き去った。だが、否定もしなかった。それこそが答えであった。


 応接間を出たあと、まっすぐ自室に戻り、レンは乱暴に扉を閉めた。


 胸の奥に溜まったものが、上手く言葉にならない。ただひとつ確かなのは──父の言葉が、確実に『なにか』を動かしてしまったということだった。


(身体の関係がある、か……)


 事実ではある。だが、それがどれほど軽く、どれほど後悔に満ちた一度だったかなど、あの男に理解されるはずもない。


 それでも、あの言葉がサラの耳に入ったら──。レンは思わず額を押さえた。


 もし、万が一。もし、あの家がサラに手を伸ばすようなことがあれば。


(……そのときは……)


 その先を考えるのを、レンはやめた。考えなくとも、答えはもう決まっている。


 サラを守る。それ以外は、なにもいらない。



 一方その頃、サラは薬局の奥で、一人食卓を片付けていた。


 レンがいない家は、ひどく静かだった。いつもなら煮込みの香りや、棚を開け閉めする音、彼の鼻歌が混じるはずなのに、それらがすべて抜け落ちている。


 夜になると、特にそれが際立つ。寝室の明かりを落とすと、胸の奥がひどく冷えた。


(大丈夫……)


 レンは必ず帰ってくる。そう言ってくれたし、サラもそれを信じている。信じたい。


 それでも、心の奥で、あの会話が何度も蘇った。

『伯爵家の妻』

『あんな小娘』

『許されない』

 自分が、彼の人生にとって『許されない存在』なのではないかという思いが、じわじわと心を蝕んでいく。


 サラは、そっと胸元に手を当てた。服の下には、まだなにもない。指輪も、約束も。それでも、あの日の言葉は確かにここにある。


『十八歳になって、それでも俺を選びたいと思ったら』


 選びたい。今も、迷いなくそう思う。けれど──選ばれても、いいのだろうか。


 サラは、レンが座っていた椅子にそっと触れた。そこに残る温もりは、もうない。


「……早く、帰ってきて」


 誰に届くでもない願いを、小さく呟く。その静けさの底で、サラの胸に小さな違和感が芽生えていた。


 何故か理由もなく、今夜に限って、窓の外の闇が近く感じられ、背中がゾワリと粟立った。

 彼女はその不安に気づかないふりをして、そっと目を閉じた。


 それが、嵐の前触れだとも知らずに。

2026/01/02

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