約束が形になる前に
それから、レンは毎日たくさんの何気ない約束と、額への優しい口づけをサラにくれた。満ち足りて幸せな日々。
朝はレンが先に起き、湯を沸かし、サラが目を覚ます頃には薬局の準備が整っている。昼は並んで簡素な食事を取り、夜は今日あった出来事を他愛もなく語り合う。それだけで、サラにとっては充分すぎるほどだった。
孤児院でも、路上でも、誰かと『明日の話』をすることはなかった。だがここでは、明日も、その先も、当たり前のように続くと信じられる。
レンがくれる約束は、どれも小さく、ささやかで、それでも確かだった。
「明日は少し寒くなるぞ」
「帰りが遅くなったら、先に食べてていい」
そんな言葉ひとつひとつが、サラの心を静かに満たしていった。
「ちょっと、クリス先生!」
「あぁ、小母さん、また来たのかい? 今日はどうした……」
「そんなことより! サラちゃん、近頃、ますます綺麗じゃないかい!? ……まさかと思うけど、アンタ……」
「それ、濡れ衣だから! なにもしてねーって……まだ」
最後のほうはボソボソと呟いたレンに、小母さんがニマニマと笑う。
「ふーん、そのぶんじゃあ、ようやく危機感持ったってとこかねぇ。将来の約束はしたのかい?」
「してねー……約束だけなら、いつかって思ってるけどよ」
「遅い、遅い! ぼやぼやしてると邪魔ばっか入ってくんだよ? こういうのは早いに越したことはないんだよ。さっさと言っちまいな」
「それが簡単にできたら苦労してねーよ」
ぼやくレンに、おや、と小母さんは思った。
「なにかプロポーズできない理由でもあんのかい?」
「……うるさいのが約四名」
一瞬、沈黙が落ちた。
「アンタが守ってやれば済む問題じゃないか」
「公的権力を平然と行使してくるようなイカレたヤツらばっかだから、絶対守るって言い切れねーとこあんだよ」
ぶつくさと呟きながらいじけているレンに、小母さんは呆れたように口を開いた。
「前々から思ってたけど、クリス先生、アンタいったい何者だい? 最近頻繁に押しかけてくるあのお嬢さんといい、ただの一般庶民じゃないよねぇ?」
「え? タダノイチ薬剤師デスガ何カ?」
明らかに棒読みだった。
「……言いたくないなら、最初からそう言いなよ。これでもこの町の者は多かれ少なかれ、みんなアンタに世話になってんだ。誰だって構いやしないさ」
「小母さん……」
レンが思わず感激したときだった。
「ってことで、さっさとプロポーズ済ませなよ!」
小母さんは元気に笑って帰って行った。最後に大きな声で爆弾発言を残して。
「バッカ、声がでか──……」
「へぇ……レン、誰かにプロポーズするの?」
おそるおそるレンが背後を振り返ると、やはりというかなんというか、いつの間にかサラが立っていた。
「えっと、サラ、これはだな……」
「荷物をまとめてきます……」
「ま……待て、サラ。誤解だ! 違うんだ!」
踵を返したサラを、大慌てで引き留める。とっさに掴んだ腕が、サラを引き留めるのに唯一役立ってくれた。
「あ……あのな。プロポーズってのは……」
必死で誤魔化そうとしたレンは、ふと、サラの傷ついたような表情を見て、誤魔化すのをやめた。
「……お前にだよ」
「え……?」
言ってしまってから、レンは顔を赤くしてうつむいた。恥ずかしすぎる。どんな羞恥プレイだ。
だが、こうしていても埒が明かない。レンはぐっと顔をあげるとサラを正面から見据えた。
「……勘違いするな。これは、約束じゃない」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった、という顔で、サラは瞬きをした。
「縛る気もないし、待たせる気もない。お前の人生は、お前のもんだ。それでも──」
レンは一度、息を吸ってから、言った。
「十八歳になって、それでも俺を選びたいと思ったら……そのときは、俺と結婚してくれ」
サラが息を呑んで、レンを見つめた。口元を手で覆っている。その頬が見る間に赤く染まるのをレンは見た。
「レン……」
「返事は急がない。だが、考えておいてくれないか?」
サラは顔を赤くしたまま、コクリと頷いた。頷いてもらえたことに安堵して、レンは掴んでいた手を離した。白い肌には、手の痕がくっきりと残っていた。
「悪い。痕、残っちまったな」
「しばらく……すれば、消える……から……大丈夫……」
自分のほうが消えそうな声でサラは呟いた。そのままどこかに逃げて行きそうで、レンは気づけば手を伸ばしてサラを抱き寄せていた。サラは抵抗しなかった。
緩く波打つ黒髪をゆっくりと撫でる。抱きしめているとサラの表情が見えない。だが、今はそれがちょうどよかった。レンは赤い自分の顔を誤魔化すように言葉を連ねた。
「悪かった。本当はもっと状況とか雰囲気とか、いろいろ考えてやりたかったんだが……今を逃したら、お前が本当に出て行ってしまいそうで……
それでも、縛ることだけはしたくなかった」
「……」
「馬鹿だよな。小母さんに言われるまで、踏ん切りつかねーでやんの。それでお前に誤解させて、こんな雰囲気もへったくれもないような状況でプロポーズして……自分自身が情けなくて仕方がねぇよ」
「……かない」
小さな声がレンの腕の中から聞こえた。
「情けなくなんか、ないよ……だって、私が勝手に勘違いしたから、レンは……」
「だが、充分みっともねぇ。悪いが後日、仕切り直しをさせてくれ。今度は指輪も用意しとく。約束じゃない。ただの『証拠』だ。俺が逃げないっていうな」
レンが、ようやく身体を離してサラの顔を覗き込むと、潤んだ群青色の瞳とぶつかった。
「うん……待ってる」
サラの声は今にも泣きそうだった。
「サラ」
名を呼ばれて顔をあげると、唇がそっと重なった。甘く優しい口づけに、サラの心が解れていく。ほんの一瞬だけ、すべての不安が遠のいた気がした。
自分にはレンとこの生活があれば生きていける。それが、今のサラの正直な気持ちだった。
*
「ちょっと、レン! わたくしの話を聞いているの!?」
「遥か昔から何遍でも言っているがな。お前が俺の話を聞いていないんだ。さっさと出て行け」
今日も今日とて、リースは薬局にやって来て、レンにすげなくあしらわれていた。リースが来ると、頻繁に物が壊されるので、サラは毎回、箒と塵取りを取りに行く羽目になっていた。
今日も癇癪を起した彼女の手によって、薬局に陳列していた薬草を詰めたビンを割られてしまった。床に撒き散らされてしまった薬草だけ先に拾い集め、それからビンの破片を掃き集めようと思って、薬草を拾っていたサラの指先にチクリと痛みが走った。
「あ……」
見る間に人差し指の先に赤い粒が盛りあがっていく。
「サラ、怪我したのか?」
「指の先を少し切ってしまっただけです。薬草を汚していなければいいのですけど……」
「馬鹿。薬草よりも自分の怪我の心配をしろ。確か、キッチンにエキナセアのチンキを置いていたと思うんだが」
「あ、場所、わかります」
エキナセアには免疫力を高める作用があり、傷の治りを早めたり、感染症を予防したりする働きがある。
「使い方は?」
「わかります。大丈夫です」
サラは奥の扉からキッチンに戻ると、エキナセアのチンキを保管場所から取り出した。精製水で薄めて傷口に湿布する。多少しみるのは仕方がない。
薬局からはレンとリースの会話が漏れ聞こえてきた。聞く気はなくとも、サラの耳は彼らの会話を自然と拾ってしまう。
「ずいぶんとあの子にはお優しいのね?」
「当たり前だろう。大事にしているんだから」
大事にしている、という言葉に、サラの胸が高鳴る。
「わたくしも怪我でもしてみようかしら?」
「薬草くらいはくれてやる」
「なんなの? その待遇の差は」
「愛情の差だろう。当然だ」
リースの声が、急に低くなった。
「レン。貴方、まさかと思うけど……あの娘に懸想している、なんてことは……」
「それがどうした。お前に関係があるのか?」
「なっ……! 許されないわよ、そんなこと! このわたくしを差し置いて、あんな小娘なんかに伯爵家の妻が務まるもんですか!」
「リース! それは言わない約束だ。俺は家を継ぐ気はないし、お前を嫁に取るつもりもない」
押し殺したようなレンの声が聞こえてきた。なんだって? 伯爵家? 話の流れからいけば、間違いなくレンのことだ。
(レンは……貴族、だったの……?)
サラは信じられない思いだった。だが、よくよく考えてみれば思い当たる節はある。このご時世、大学まで出ようと思ったら、どうしても富裕層以上の子弟になる。そして、なによりもレンが持つ高い教養がそれを事実だと示しているではないか。
(ずっと……隠していたのね……)
無論、サラにもレンに話していないことはある。だが、大事なことを隠されていたという事実に、サラの胸が痛んだ。伯爵家の子息と孤児では、身分違いにも程がある。
サラの中で、これまで見過ごしてきた違和感が、ひとつずつ形を持ち始めた。礼儀作法に厳しかった理由。教養に妥協しなかった理由。
それらはすべて、偶然ではなかったのだ。
(じゃあ、私は……)
胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。拾われた孤児と、伯爵家の子息。並んで歩いていたつもりでいた道が、実は最初から交わらないものだったのではないか。
レンがくれた約束も、口づけも、すべてが一瞬にして『分不相応』に変わってしまったように感じられた。
(私は……レンに相応しくないんだ……)
サラは目の前が真っ暗になるような気がした。
*
その日以降、サラはレンに対して少し態度がよそよそしくなった。話しかけられればきちんと受け答えはするし、仕事の手伝いもいつも通りだ。だが、レンに抱き寄せられようとすると身体が強張るし、口づけられようとすると思わず身を引いてしまう。ほんの少し、間合いを取るように。
レンも当然、サラの態度の変化に気づいていたが、なにも言わずに受け入れた。
(きっと嫌われてしまっただろう……)
二人が二人とも、そんな風に思っていたのだった。
「ねぇ。アンタたち、いったいどうしたんだい?」
いつものように、おばあさんの薬を貰いにきた小母さんが顔をしかめてレンとサラを見ていた。表面上は普段通りに振る舞っていた二人だったが、見慣れている者からすれば明らかにおかしかった。
「は? 俺ら? 別になにもしてねーけど」
「馬鹿だねぇ。わかる者が見れば一発でわかるよ。なんかギクシャクしてる。そうだろ?」
「ギクシャク、ねぇ……まぁ、心当たりがないわけじゃねぇけど……なんつーか、デリケートな問題なわけよ」
「デリケートな問題ね。アタシらには話せないことかい?」
レンは作業していた手元に視線を落とすと、ポツリと呟いた。
「気持ちはありがたいけど……悪い」
「……そうかい。なら、大人しく身を引いとくよ。けど、ひと言だけ言わせてもらう。アンタの正体とやらでサラちゃんが傷つくことだけはあっちゃなんないよ。あの子はいい子だ。あの子が悪いことなんて、ひとつもないんだからね」
「それは……わかってる」
小母さんは優しい笑みを浮かべると、レンの肩をポンポンと叩いた。
「アンタも充分いい子なんだけどねぇ、クリス先生。男は辛いね」
「まったくだ」
自嘲気味な笑みを浮かべて、レンは帰っていく小母さんを見送った。他人に指摘されるくらいはっきりとわかるのなら、そろそろ決着をつけなければいけないのかもしれなかった。
その日の診療が終わってからの夕食時に、レンはサラに話を切り出した。
「なぁ、サラ。話があるんだ」
いつもと違う雰囲気を感じ取って、サラは食事をする手を止めた。レンはゆっくりと本題を口にした。
「少しの間、この家を留守にするけど、留守番を頼めるか?」
思ってもみなかった言葉に、サラは目を見開いた。レンがしばらく家を留守にする。それは初めてのことだった。
「……どれくらい、留守にするの……?」
返事は、なかった。沈黙が、二人の間に落ちた。
レンはそれ以上なにも言わず、ただサラを見つめていた。サラもまた、視線を逸らしたまま、言葉を探していた。
どれほどの時間が流れたのか、サラにはわからなかった。ただ、胸の奥でなにかが軋むような音を立てていた。
レンがいなくなる。その事実だけが、ゆっくりと、しかし確実に重くのしかかってくる。
約束の指輪は、まだ指にない。けれど、失う予感だけが、先に心に根をおろしていた。
それは、当たり前だと信じていた日々が、音もなく形を変え始めた合図のようだった。
サラは唇を噛みしめ、問いを重ねる代わりに、ただ小さく頷いた。
2026/01/01
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