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今は、これでいい

 青褪めたままカタカタと震えていたら、レンは無言でお湯を沸かし始めた。ややあって、キッチンに甘いリンゴのような柔らかい香りが漂う。これはカモミールの匂いだ。カモミールには優れた鎮静作用がある。


 そして、サラの前に、カモミールティーの入ったカップがコトリと置かれた。


「悪かったな。怖かったろ?」


 レンは怒っていなかった。そのことに安堵しつつも、お茶を口に運ぶと、カモミールの穏やかな香りとともに、トロリと甘い蜂蜜の味がした。不思議と心が落ち着いていく。


 サラが落ち着く様子を目の当たりにしたレンは苦笑を浮かべた。ハシバミ色の瞳は、優しい。


「あいつは、二つ年下の俺の幼馴染で、リースっていうんだ。見た通り、良家のお嬢様でな。少々性格が悪い」


 あれは少々どころではない気がするのだが、まぁ、レンも言い方に気を遣った結果なのだろう。サラはそう思った。黙ってレンの話に耳を傾ける。


「なんつーか、俺の家も複雑でな。歳の近い妹が一人いるが、俺は本妻の子じゃねーんだよ。いわゆる妾腹ってヤツ。でも本妻に男の子がいないってことで、実の母親から引き離された。俺が六歳の頃だった」


 六歳──その言葉だけで、胸の奥がヒヤリとした。六歳といえば、幼しとはいえ、記憶もしっかり残るはずの年頃だ。そんな時分に母親から引き離され、継母のもとで養育されるというのは、その子供にとってどれほど辛いことだろうか。サラはそんなことを思った。


「俺の母は身体の弱い人でな。子を奪われた悲しみがあまりにも深すぎて、それから身体を壊して、あまり時を置かずに亡くなった。俺は無力でなにもできない幼い自分が悔しかった。俺がもう少し大人だったら、力があれば、母を助けられたかもしれないのに」


 今でも悔しそうな色を滲ませる声に、その思いの深さが見て取れるような気がした。


「だから……薬剤師になったの……?」

「まぁ、それがすべてってわけじゃねーけど、理由のひとつではあるかな。そんなら医者になれよって話だよな。だが、俺には無理だった」


 レンが両手を膝の上でギュッと握りしめた。


「……俺は怖いんだ。誰かを失うことが。誰かに目の前で死なれてしまうことが怖い。だから俺は医者にはなれなかった。医者に死は付き物だから」


 だから、死と直接向き合わずに済む薬剤師を選んだんだ、とレンは自分で自分を嘲笑った。サラはそんなレンが痛々しくて、見ていられなかった。


 椅子から立ち上がり、レンの傍へと歩み寄る。そのままそっとレンを抱きしめた。


「サラ……?」

「大丈夫……薬剤師は、立派なお仕事だよ……レンは、ちゃんと『誰か』を大切にしてる……」


 一瞬、戸惑うように硬くなった身体が、すぐに緩んだ。


 温もりが、触れ合っている部分からじわりと伝わってくる。頼りない。だが、それでも確かな温度を持って。


「大丈夫……今のレンは、ちっとも無力じゃない……私だって、レンに助けられた。だから……」


 大丈夫だよ、と繰り返すサラの声は穏やかで優しくて耳に心地よい。気づけば、レンは両手を伸ばしてサラを抱き寄せていた。腕の中に、サラの華奢な身体がすっぽりと収まる。ふわふわと指の間に絡まる黒髪の感触に、レンは目を細めた。


「ありがとな、サラ」

「うん……」


 しばらく抱き合って、互いの温もりが同じになるくらいになって、サラがそっと身体を離した。そして群青色の瞳でレンを覗き込んできた。


「ねぇ、レン……」

「ん?」

「あの人と結婚するの……?」


 なにもないのにレンは噎せた。その背中をサラがさする。相変わらず気の利いたヤツだ。サラの顔を見て、レンは彼女がなにを心配しているのかを悟った。


「しねーよ。だから、安心して好きなだけここにいろよ。な?」


 サラの顔に笑みが浮かぶ。それは心から安堵したような無防備な笑みで、レンは目を奪われた。可愛い。歳の近い妹は我儘で高飛車で、可愛いなんてついぞ思ったことはない。ちなみにリースに関しても右に同じ。それなのに、サラは無意識でレンの心を掴みにくる。可愛いが、ある意味一番性質が悪いと思う。


 何故ならサラは未成年だ。繰り返すが未成年である。これで手を出したら犯罪だ。せめて十六以上、いや、十八になっていれば、とレンは思わずにはいられない。まぁ、あと三年待てばいいだけの話だが。


 この国では、女性は十六歳、男性は十八歳から婚姻が認められ、十八歳で男女ともに成人と見做されるのだ。


「あー、お前が成人してたらなー……」


 レンは思わず本音をダダ漏れしていた。サラは小首をかしげる。成人していればなにかが違うのだろうか。そのサラの表情を見て、レンは苦笑した。


「いや、こっちの話」


 そう言って誤魔化したが、ふと思いついてレンはサラの手を引っ張った。サラの顔がレンに近づく。額に柔らかな感触。それがレンの唇だとサラが気づいたのは、唇が離れたあとのことだった。


 きょとんとしているサラの頭を撫でながら、レンは一人ごちた。


「今はこれでいいか」


 その言葉に、サラは小さく頷いた。触れた額の感触が、まだそこに残っている気がして、無意識に指先で押さえる。


 それは恋とも愛とも呼べない、けれど確かに胸に灯った温度だった。


 いつか、この距離が縮まる日が来るのだろうか。その答えはまだ遠く、曖昧で、形を持たない。


 それでもサラは、不思議と不安を感じなかった。ただ静かに、待てばいいのだと、心のどこかで理解していた



 ひと月後、宣言通り、リースは再びやって来た。レンはまたすげなく追い返し、リースがやって来ては追い返す、ということを繰り返していた。


 ほぼ毎月のようにやって来るリースに、あれだけ拒絶の言葉を向けられて、よく続くものだとサラは密かに感心していた。レンにそう言えば、レンは面白くなさそうに呟いた。


「あーいうヤツらは、自分に都合のいい言葉しか耳に入れたがらないんだ。あとは全部素通り。いい加減人の話を聞けよって言いたくもなるんだがなぁ」


 なるほど。お前と結婚する意志はないだの、さっさと諦めて帰れだの、もう話したくないだの、もう二度と来るなだの、あれらの拒絶の言葉はそもそも認識されていないのか。彼女の謎の根性の理由がサラにはよくわかった。


 ならば、レンが少しでも気のある素振りを見せればどうなるというのだろうか。それはきっと大幅に誇張されて彼女の耳に届くに違いない。


 恐ろしい想像を振り払って、サラはレンの手伝いに集中することにした。リースが来るたびに、忌々しげな顔で睨みつけられるのにも、もう慣れた。


「悪いな、サラ。リースのヤツ、完全にお前に嫉妬してやがる」


 レンの言葉に、サラは首を横に振った。そうだろうとは思っていたが、別段気にすることでもなかった。何故なら、レンとサラの間に嫉妬されるものがあるとすれば、レンはサラに向かって一度だって拒絶の言葉を口にしたことはないということくらいだ。それは明らかな事実だったので、むしろ申し訳ないくらいだった。


 レンは仕事や躾には厳しいけど、基本的に優しい。薬剤師になった胸の内を吐露したあたりからはさらに優しくなったと思う。


 ただ、気になることといえば、そのときを境にして事あるごとに額に落とされるようになった口づけくらいだ。額に施されるそれの意味は『祝福』、そして『友情』。そのどちらでも、嬉しいことには違いないのだが。


 そうこうしているうちに、サラがレンの家に来てから二年が経とうとしていた。サラは十六歳、レンは二十五歳になっていた。


「なぁ、そういや、サラの誕生日っていつ?」

「……ない」


 考えてみれば、孤児なので当然だ。拾われたときの年齢も自己申告だし、誕生日に至ってはいつかもわからないので、なんとなく新年を迎えたらひとつ歳を取るように思っていた。


 そうレンに言ったらびっくりされた。


「マジか。じゃあ作ろうぜ、誕生日」


 誕生日を作るという発想はなかった。サラはわずかに瞬きをすると小首をかしげた。答えはすぐに出てきた。


「レンと会った日がいい」


 そう言うと、レンは嬉しそうに笑った。そのままカレンダーに目を遣ってギョッとする。


「げ、それって今日じゃねーか。なんも考えてねー」

「考える……?」

「そうだよ。誕生日パーティー。やったことねーの?」


 サラはもう一度首をかしげる。それでレンは悟った。絶対にやったことないんだ。気を取り直して誘う。


「なぁ、やろうぜ? お前の誕生日パーティー。つっても大したもんはできねーが。プレゼントはなにが欲しい?」

「プレゼント……?」

「誕生日には欲しいもんが貰えるんだぜ。なにが欲しい? 言ってみろよ」


 少し考えて、サラはこう言った。


「レンの誕生日が知りたい」

「ばっか、お前、それは誕生日プレゼントじゃねーだろ。そんなん今すぐにでも教えてやるよ」


 教えられた日付は年が明けて少し経った頃のもの。今年はもう過ぎてしまった。サラが残念がっていると、レンが苦笑して頭を撫でた。


「俺はいいの。今はお前。ほら、我儘言ってみろよ」


 今度こそ、よく考えた末に、サラは口を開いた。


「約束が欲しい」

「は……? 約束?」


 サラが頷く。


「約束。来年の誕生日も、レンと一緒にいたい。その、約束」


 その言葉にレンは固まった。そして、その顔が徐々に赤くなってくる。


「レン……?」


 訝しく思って、サラがレンを呼ぶ。レンの顔を覗き込みながら。駄目だ。可愛すぎる。


「来年だって、そのまた来年だって、ずっと一緒にいるさ。お前が嫌だって言うまでな」


 頭を撫でていたレンの手が下に降りてきて、するりとサラの頬を撫でた。頬に手を添えて、レンが顔を近づけた、そのときだった。


「証拠は?」


 せっかくいい雰囲気なのに証拠とか言うなよ。レンはそう思って落ち込んだが、いいことを思いついた。


「これでどうだ?」


 そう言って再び顔を近づけ、唇をそっと重ねた。


 サラは突然のことにびっくりしてしまって、身体を硬直させる。一瞬、なにが起きたのか理解できなかった。


 それに気づいたレンはすぐに唇を離した。


「……今のは、駄目だな。忘れろ」


 本当に自分はいったいなにをやっているのか。サラを怖がらせたくないのに、守りたいのに、気づけば彼女に心惹かれている自分がいる。


「何故、駄目なの?」

「……駄目なのはな」


 レンは一度、視線を逸らし、少しの沈黙のあと、低く言った。


「お前が未熟だからじゃない。俺が、大人だからだ」

「……大人だから?」


 サラは不思議そうに首をかしげる。


「俺はお前を大事にしたい。でもな、今の俺は──お前を前にすると、『守る側』と『欲しい側』を、綺麗に分けられなくなる」


 それはもはや隠しきれないレンの本音だった。レンの胸がズキリと痛む。


「それを、まだ十六のお前に背負わせたくない。お前がなにも知らないまま、『大人の都合』に巻き込まれるのが、俺は嫌なんだ」


 だからこそ、ここで踏みとどまれるだけの理性がレンにはちゃんと残っていた。


「だから待つ。お前が、ちゃんと自分の足で立って、それでも俺を選ぶって言えるようになるまで」


 それが、今のレンがサラに示せる大人の誠実さだった。


「……私は、今でもいい」

「あぁ、知ってる。それでも駄目だ。それを止めるのが、大人の役目だからな」


 サラは構わないと言っているのに、それでもレンは駄目だという。サラは困惑したように、でも納得だけはして頷いた。


「……よくわからない。でも、レンが『駄目』って言うなら私も待つ。ただ……私が嫌われたわけじゃないなら、それでいい」


 ポツリと呟かれたサラの本音に、レンは苦笑して彼女の頭を撫でた。


「お前を嫌いになるわけないだろ。むしろ逆だから、そこは安心していい」

「……本当?」


 サラがレンを見上げる。その不安そうな瞳に、レンは安心させるように微笑みを返した。


「あぁ。本当だ」

「……嬉しい」


 思わず涙ぐんだサラの額に、レンは一瞬だけ迷ってから、額にそっと口づけた。それ以上は、しなかった。



 その日の夕方の食卓には、いつもより少しだけ豪勢な食事が並んだ。ささやかだが、小さなケーキも焼いた。


「うん、美味い。お前、上達したよなー、料理」

「……ありがと」

「最初は男の野戦料理か、っていうくらい大雑把だったもんな、味つけ」

「……それは言わないでよ」


 小さくむくれるサラの表情の変化が、レンには可愛くて仕方がない。


「冗談だよ。本当に上手くなったもんだ」


 サラは、クスッ、と小さく笑うと、さりげなくレンの好物を取り分けた。そんななんでもないことに、ささやかな幸せを感じるひとときだった。


 食後、洗い物を終えたあとで、サラは窓辺に立った。外はすっかり日が落ち、夜の気配が町を包んでいる。


 今日という日を、サラはきっと忘れないだろう。初めて与えられた誕生日。初めて交わした約束。そして、触れそうで触れなかった距離。


 胸の奥で、確かな温度を抱えながら、サラは静かに微笑んだ。

2025/12/31

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