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育まれるもの、忍び寄るもの

 時が過ぎ、この家にサラが居着いて、もうひと月になろうとしていた。


「サラ。お前、この本もう読んだのか?」


 レンの問いにサラが小さく頷いた。指四本分はあろうかというほどに分厚い本である。一ヶ月前まで、文字を読めるかどうかさえ怪しかったのに、大半が薬草の挿絵なのはさて置いても、いつの間にか辞書と首っ引きで薬草図鑑を読破するまでになっていたのには驚くしかない。物覚えがいいはずだ。


「お前、頭いいな。学校に行く気はねーの?」


 しかし、サラは首を横に振った。ややあって、ポツリと呟く。


「そこまで、望まない。こうして生きていければ、それだけで充分……」


 なんとももったいない話だ、とレンは思った。サラほどの美貌と才能があれば、学校に通って知識と教養を身につけ、大学まで卒業すれば、違う人生が開けるだろうに、と思ってしまうのだ。


 そう口にすると、サラはゆっくりと目を瞬いて珍しくレンに質問をしたのだ。


「レンは……大学まで出ているのよね……?」

「あぁ」

「だったら……レンに教えてもらいたい……」

「!」


 その手があったか、とレンは思った。確かに、レンは大学まで出ていて学識もあるし、教養も文句なく高いので、教えるのに不足はない。


「俺でいいのか?」


 確認すると、コクリ、とサラは大きく頷いた。


「レンがいい」


 基本的に寡黙で無表情のサラに真面目な顔でそう言われると、教師役としてのレンがいい、と言われただけに過ぎないというのに、レンは自分の心が動揺しているのを感じた。相手は九つも年下の子供! と必死で自分自身に言い聞かせて心の平静を保つ。


「……わかった。なら俺が教えるけど、俺はスパルタだぞ? 覚悟しとけよ」


 もう一度、サラは大きく頷いた。


「……じゃあ、明日からだ。みっちりやるからな」


 こうして、レンによるサラへの個人授業が始まった。まずは作法。言葉遣いや立ち居振る舞いから躾にかかる。レンは宣言通りスパルタだったが、教え方はひとつひとつ丁寧だったし、また、無理なことは言わなかった。


「お前、今後は俺以外の人前では絶対に気を抜くなよ。教えられたことを常に頭の片隅で意識しておけ。それくらいでないと今から巻き返すのは難しいからな」

「……」

「返事は『はい』だ」

「はい」


 最初のうちは、立つことさえ苦痛だった。背筋を伸ばし、顎を引き、視線の位置を意識するだけで、足が震えた。


「姿勢が崩れてる。やり直し」


 何度も言われ、そのたびにサラは歯を食いしばって立ち直った。逃げ出したいと思わなかったわけではない。それでも、レンが本気で向き合ってくれていることは、痛いほど伝わってきた。


 教え方は厳しいが、決して感情で叱らない。できなかった理由を考えさせ、できるまで待つ。その根気強さが、サラにはなによりもありがたかった。


 夜、眠る頃には、足も腕も鉛のように重くなっていたが、不思議と心は満たされていた。今日も生きた、今日も学んだ──そう思える日々は、サラにとって初めてのものだった。


 何日も、何週間も、何ヶ月もかけて、レンはサラに作法を染み込ませていく。同時に、書写や音楽、ダンスなどの遊戯といった他の教養を教えるのも忘れなかった。裁縫や刺繍などはさすがに教えることができなかったが。


 季節が一巡した。雨の多い春が過ぎ、乾いた夏を越え、薬草を干す香りが家に満ちる秋が来て、再び冬が訪れた。


 一年も経つ頃には、サラはその年頃の少女にしては、どこに出しても恥ずかしくないほどのレディに仕上がっていた。


 鏡に映る自分を見て、サラはときおり戸惑いを覚えた。


──これは、本当の私なのだろうか


 そこにいるのは、かつて路地裏で身を縮めていた少女ではない。

 言葉を選び、微笑み、必要なときには沈黙する──それが自然にできる自分が、少し怖くもあった。


 それでも、この姿を『作られたもの』だとは思えなかった。レンが教えてくれたのは、飾り方ではなく、守り方だったからだ。

 世界とどう距離を取り、どう傷つかずに生きるか。そのすべてを、彼は時間をかけて教えてくれた。


 サラにとってレンは、教師であり、保護者であり──そして、名をつけられない大切な存在になりつつあった。


 レンはサラの仕上がりに満足していた。


「磨けば光るもんだな。さっすが俺の教え子」

「……それ、間接的に自分を褒めているんじゃ……」

「ほう。追加でペナルティを食らいたいのか?」

「……ごめんなさい」


 教師モードのレンは話し方が変わる。レンはいったいどこでこんなにさまざまな教養を身につけたのか。サラにはそれが不思議だった。



 その日もいつもと変わらぬ普通の日だった。おばあさんの常用薬を貰いにきた、同じ街に住む小母さんが、いつものように長々とレンと話し込んでいた。


「そう言えば、アンタんトコに来たお手伝いさん、サラちゃん。よく頑張るねぇ。もう一年だろ?」

「そうなんだ。あいつ、真面目だからなー。すぐに知識を吸収するから、いろいろ教え甲斐がある」


 笑いながらレンがそう答えると、小母さんもカラカラと笑った。


「裁縫と料理のほうも上手くなったもんだよ。最初にアンタがあの子を連れてきて、一緒に頭さげて『裁縫と料理を教えてください』って言ってきた時は何事かと思ったけど……花嫁修業でもさせてんのかい?」


 レンは飲みかけていた茶を思わず吹いた。小母さんが顔をしかめる。


「汚いねぇ。なにやってんだい……真面目で優しい、いい子じゃないか。働き者だし、なにより美人だし。あと数年もすれば、いい女になるよぉ。あたしの目に狂いはないわ。そんときになって後悔したって遅いんだからね」

「……それ、絶対サラに言うなよ。せっかく築いた俺の信用がガタ落ちだ」


 零した茶を拭きながらレンが小母さんに釘を刺す。するとそこに、当のサラが顔を出した。


「私がどうかしたんですか?」

「おや、サラちゃん」

「こんにちは、小母様。明日はいつものレッスンの日ですよね。またお世話になります」


 丁寧に頭をさげて、挨拶をするサラに、レンは焦りの視線を向けた。


「お前、どこから聞いてたんだよ」

「『それ絶対サラに言うなよ』ってところからですけど。なんですか?」


 それを聞いたレンは胸を撫でおろした。


「いや、なんでもねーよ。頼むから聞くな」

「……わかりました」


 サラはあるかなきかの苦笑を浮かべた。


「ところでお前、なにしに来たんだ?」

「お話が長くなりそうでしたので、小母様にお茶をお持ちしました……どうぞ、ルイボスティーです」


 見れば、サラの手に載せられた盆には、茶で満たされたカップとソーサーがあった。小母さんが目尻をさげる。ルイボスには代謝を高める働きがあり、冷え性の改善、老廃物や毒素の排出に役立つのだ。『不老長寿のお茶』として名高い。


「おや、ありがとねぇ」

「気が利くな」

「いえ……どうぞごゆっくり」


 小さく会釈をして、サラが奥に戻ろうとしたときだった。入口の扉が勢いよく開け放たれた。


「失礼。お邪魔するわ。こちらにレナードという人がいると聞いて来たのだけど……」


 そこに立っていたのは、こんな田舎の町には似つかわしくないほど派手に着飾った、ひと目で良家の子女だとわかる出で立ちをした女性だった。女性はレンに目を留めると、歓喜の声をあげた。


「レン!」


 女性の顔を見たレンの顔色が変わった。女性は小母さんと話し込んでいたレンの隣に、小母さんを押し退けて滑り込む。押し退けられた拍子に小母さんが手に持っていたカップとソーサーが手から落ち、床に当たって粉々に割れた。


「レンったら、捜したのよ!? よりにもよって、こんな田舎の端にいることないじゃない!」


 女性は、押し退けられた小母さんにも、床に落ちて割れたカップとソーサーにもまったく頓着せずに、レンに素早く擦り寄った。レンのハシバミ色の瞳に嫌悪の色が滲む。


「小母様、お怪我はありませんか?」


 慌ててサラが駆け寄り、小母さんの具合を確かめる。


「いいんだよ、サラちゃん。靴にかかっただけさ。すまないねぇ、せっかく淹れてくれたってのに割っちまって」

「そんな……お気になさらずに。小母様にお怪我がなくて本当に良かったです。箒と塵取り、取ってきますね」


 サラが急ぎ足で奥の部屋へと戻っていく。その後ろ姿を横目で見送ったレンは女性に視線を向けた。


「リース、小母さんに謝れ」


 レンの冷やかな声が女性を打った。それはおそらくサラが聞いたことのないような声だろう。


「な……なにを言っているの? 何故、わたくしが庶民風情に頭をさげなくてはならないのよ」

「いいから謝れ!」

「い……嫌よ。謝らないわ」


 リースと呼ばれた女性は、自分は悪くないと言い張った。どうあっても謝るつもりのないリースに、レンはいつもの口調に戻って小母さんに頭をさげた。


「悪かったなぁ、小母さん。こんなことになっちまって」

「気にするんじゃないよ。クリス先生。アンタのせいじゃない。ただ、付き合う相手はもう少し選んだほうがよさそうだねぇ」

「そうしたいのは山々なんだが……腐れ縁ってヤツでね」

「なんですって!?」


 リースが眉を吊りあげた。小母さんの言葉にも、レンの言葉にも反応したように見える。もともときつい顔立ちがますますきつさを増した。


 サラが箒と塵取りを持って奥の部屋から戻ってきた。割れた茶器をサッと掃いて回収する。破片が飛んでいないか、あちこちに気を配るのも忘れない。片付けが一段落した様子を見届けて、小母さんは踵を返した。


「それじゃあ、あたしは帰るよ。サラちゃん、また明日ね」

「はい。お気をつけて」


 小母さんを見送ったあとで、レンがサラに声をかけた。


「サラ、今日はもう仕舞いだ。表の看板をクローズに変えてくれ」

「はい」


 言われた通りに看板をかけ替えると、サラは家の中に戻った。


「ご苦労さん。裏に行っててくれるか? 俺はこいつと少し話があるんだ。あ、茶はいらねーから」

「わかりました」


 サラは奥の扉からキッチンに戻った。ずいぶんと早い時間に薬局が終わってしまった。夕飯の支度にはまだ早い。本でも読もうと思って、サラがレンの私室に入ろうとしたときだった。表から声が漏れ聞こえてきた。


「従業員を雇ったのね。サラって名前なの? 出身はどこ?」

「今はサラの話じゃない。お前の話だ。なんでここがわかった」

「簡単よ。貴方の行きそうな辺鄙な場所を選んで、片っ端から聞いて回るのよ」

「人海戦術か。それはずいぶんと派手にお金と人を使ったものだな」


 聞こえてくるレンの声はどこまでも冷たく、それはサラを不安にさせた。


「それだけの価値が貴方にはあるわ……ねぇ、もう諦めて屋敷に帰ったらどうなの? いつまでこんなくだらないことを続けるつもり?」

「ふん……くだらないこと、か。お前たちにとってはそうかもな。だが、俺には違う。家よりも大事なことだ」

「なんてことを……お父様もお母様も、皆、貴方のことを心配しているのよ?」

「言っておくが、あれは俺の父と母だ。お前のじゃない。心配など嘘だろう。縁が切れて清々しているはずだ」


 どうやら話はレンの家族のことらしい。今更ながら、サラは気がついた。レンの過去を少しも知らないことに。


「そんな馬鹿な話、あるわけないでしょう? 貴方はたった一人の跡取り息子なのよ?」

「俺は妾腹だ。まだ妹がいるだろう? 娘婿をとればいい」

「あの子が大人しく結婚するとでも思って?」

「……俺なら大人しく結婚するとでも思っているのか?」


 結婚、という言葉にサラはビクリと反応した。レンが結婚してしまえば、もう自分はここにはいられない。


「それは、ねぇ? ここに格好のお相手もいることだし?」

「ないな。さっさと諦めろ。話がそれだけなら、もう終わりだ。これ以上お前と話すつもりはない」

「相変わらず、つれない人ね。まぁ、そこがまた良いんだけど……いいわ。今日のところはこれで引いてあげる。また後日、ゆっくり話しましょう?」

「さっさと帰れ。もう二度と来るな」


 扉が乱暴に開け閉めされる音が聞こえてきて、サラは我に返った。話を聞くつもりなんてなかったのに、うっかり全部聞いてしまった。これがバレたら、レンに嫌われるかもしれない。それは怖い想像だった。


 自分がここにいられるのは、レンが優しいからに過ぎない。その優しさが失われたら、行き場はない。


 それでも、レンが『家よりも大事なことがある』と言った声が、耳から離れなかった。

 あの言葉の中に、自分が含まれているのではないか──そんな都合のいい期待を抱いてしまった自分が、なによりも怖かった。


「サラ、悪かったな。終わったぞ……って……」


 キッチンに続く扉を開けて、サラの顔を見たレンは舌打ちしそうな顔になった。サラはその表情に凍りついた。


「聞いていたのか……」


 その一言で、胸に抱えていた不安が一気に溢れそうになった。

2025/12/30

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