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居場所を選ぶということ

 公爵邸での暮らしは、気づけば『特別』ではなくなりつつあった。


 朝は母の声で目を覚まし、昼には父と顔を合わせ、夜は同じ屋根の下で眠る。

 それだけのことが、サラにとっては奇跡のようで、同時に、少しずつ当たり前になっていく感覚でもあった。


 朝食の皿に並ぶ料理は、いつの間にか数が減っていた。それでも、サラがこれは好きだと口にしたものや、その傾向から選ばれた好みそうなものを中心に、いつの間にか、『食べきれる量』だけが並ぶようになっていた。


 庭園にも、サラの好みそうな花が増え、父との散歩が少しずつ楽しみとなっていった。ときどきは母も一緒に庭園を歩いた。母は草花に詳しく、サラにたくさんの綺麗な花を教えてくれた。


 公爵家の使用人たちはサラを『お嬢様』と呼ぶ。最初こそ慣れず、呼ばれるたびにドキリとしていたが、今では自然に返事ができるようになっていた。


「お母様」

「あらまぁ、サラ。それはどうしたの?」


 サラは腕に大輪の美しい花を抱えていた。母に結ってもらった髪を乱さないように、慎重に帽子を脱ぐ。


「とても綺麗に咲いていたので、庭師に言って貰ってきてしまいました。シャクヤクですって……花瓶に生けて、お父様とお母様のお部屋に飾ってもいいですか?」

「もちろんよ、嬉しいわ」


 エイダが穏やかに目を細める。夜に夫はきっと驚くことだろう。娘が初めて部屋に花を飾ってくれた、その事実に。


 昼食後の父との散歩では、サラは父にお願い事をした。


「あの、お父様」

「うん?」


 サイラスは不思議そうに娘を見た。いつも大人しい彼女から話しかけてくるのは、少し慣れた今でも珍しいことだったから。


「私、お庭の一角にハーブを植えてもいいですか……? 小さな場所だけでいいんです」


 サラの声は控えめだったが、心の奥には小さな期待が揺れていた。昼下がりの柔らかな光に照らされた緑の中で、彼女は想像していた──自分の小さなハーブがすくすく育つ様子を。


 その控えめな希望に、サイラスは目元を和らげた。


「それはいい考えだね。ただし、ハーブは繁殖力が強いものも多いから、鉢植えのほうが向いているかもしれない」

「はい、そうします」


 自分の助言に素直に頷いたサラが、いじらしくて本当に愛おしい。サイラスは、歩調を自然に娘に合わせている自分に、ふと気づいた。



 ある日の午後、サラは自室で母に習った刺繍をしていた。その静けさを破ったのは、控えめなノックの音だった。


「はい」


 サラが返事をすると、扉が開いて公爵家の執事が顔を出した。


「お嬢様、お手紙が届いておりますよ」


 手紙、と聞いて心臓が小さく跳ねる。サラが公爵邸で暮らしていることを知る人はそう多くない。受け取って確かめると、馴染みの紋の押された封蝋に、つい笑顔がこぼれる。


 封を切ると、見慣れた綺麗な筆蹟が並んでいた。


『サラへ。公爵邸での暮らしには、もう少し慣れただろうか。急に環境が変わって、心も身体も落ち着かない日があるだろうと思っている。けれど、君が両親の元で迎えられていると聞いて、少しだけ安心した。嬉しいことばかりではないだろう。大切にされることに戸惑う気持ちも、きっとある。それでも、無理に答えを出そうとしなくていい。君が君のままでいられるなら、それでいい』


 レンの気遣いにサラの心がじんわりと温かくなっていく。


『そうそう、式のことだけれど、そろそろドレスを選ぶ時期だそうだ。もし気が向いたら、見に行ってほしい。どんなものを選んでも、君が選んだなら、それが一番だと思っている』


 そうか。もうそんな時期なのだ。サラは自然と、母に相談してみよう、と思った。


『指輪は……今も、君のそばにあるだろうか。離れているのに不思議な話だけれど、あれを見るたび、私はちゃんと君とつながっていると感じている』


 左手の薬指にはまった指輪に視線を落とす。サラもレンと同じ気持ちだ。


『返事は急がなくていい。君が落ち着いたときに、また声を聞かせてほしい。私は、ここで待っている。レン』


 手紙はそう、温かな筆致で結ばれていた。返事を書こうとして、ペンを取った。けれど、今の気持ちはまだ上手く言葉にできそうにない。


 手紙を読みながら、サラはふと気づいた。


(……守られているだけ、ではないのかもしれない……)


 自分で立ち、選び取るだけの力があるのだ。それは立場や能力に依存しない、意志の力だった。


 実の両親の愛にくるまれて過ごす、幸せな日々。確かに幸せなのに、彼だけが足りなかった。


(この幸せを、彼と一緒に生きたい……)


 離れている間に芽生えたその思いは、ますます強くなる一方だった。


 その夜、サラは外した指輪を、いつもより丁寧に布で磨いていた。

 磨けば磨くほど、指輪は静かに光った。それは、離れていても薄れない想いのようだった。


 翌朝、髪を結ってもらっている間に、サラは少しだけ息を整えてから、母に話を切り出した。


「あの、お母様」

「なぁに? サラ」


 エイダの声はとても優しい。


「えっと……そろそろ結婚式のドレスを選ぶ時期なのだそうですが、お母様にも一緒に選んでほしくて……」


 その言葉に、エイダは目を瞬いたあとで、すぐに喜色をあらわにした。


「素敵ね。さっそくデザイナーを呼びましょう」


 デザイナー? 既製品のドレスから選ぶものだと思っていたサラは驚いて目を丸くした。だが、エイダは笑って告げた。


「一生に一度のことだもの。思い出に残る素敵なドレスに仕上げてもらいましょう」


 さっそく母は腕利きのデザイナーに手紙を送り、翌々日にはデザイナーが公爵邸に到着した。


 デザイナーは机の上にたくさんのドレスのデザイン画を広げ、布地の見本を見せてくれた。


「こんなにたくさん……」

「どれも素敵ねぇ。サラ、気に入ったものはあるかしら?」


 気に入ったもの。そう言われても、サラにはドレスの良さなどよくわからない。ふとAラインのシンプルなデザイン画に目を留めた。


『こちらのほうが無難でしょうか?』


 そう言いかけたサラを遮るように、エイダは優しくサラを留めた。


「それは『貴女が着たいから』? それとも『失敗しないから』?」

「……!」


 自分がまだ『誰かにとっての正解』を選ぼうとしていたことに気づき、サラは軽く目を伏せた。


「……失敗しないから、です」


 正直に答えたサラに、エイダは目を細めた。


「焦らなくても大丈夫。ゆっくり好きなものを選んでいいのよ」

「はい」


 サラはまず二枚のデザイン画を見比べて、どっちがより好きかで絞り込むことにした。半分。そしてまた半分。机の上のデザイン画は数を減らしていく。


 それでも選びきれない。レンが隣にいたら、どんな顔で笑うだろう──そんなことを考えてしまう自分にも、少し驚いた。


 いったいどれが好きなのか。どれもなにか違う気さえしてくる。

 素直にそう打ち明けると、デザイナーは慌ててデザイン画を片付けて、別のデザイン画を持ち出した。


「先ほどお出ししたのは、公爵家の家格に見合うような、少し厳格なデザインでした。こちらは私が個人的な好みで描いたものになります。いかがでしょうか?」


 確かに先ほどまでのデザイン画と比べると、少し個性的なものが並んでいる。だが、そのうちの一枚がサラの目を引いた。


 オフショルダーのAラインドレス。腕には肘までの手袋がついている。Aラインのドレスは細やかな刺繍入りで、長いトレーンが作るシルエットが美しかった。


 サラは、しばらくそのデザイン画から目を離せなかった。

 胸の奥が、静かに、しかし確かに温かくなる。


「……私、これが好きです」


 サラの言葉に、エイダが目を輝かせた。サラが初めて、自分の好みを主張したのである。


「このデザイン画、細部をブラッシュアップして、後日もう一度見せてくれないかしら? きっとサラによく似合うわ」

「かしこまりました」


 デザイナーは一瞬だけサラを見て、にこりと微笑み深く頷いた。


 後日、細部まで整えられたデザイン画はさらに素敵になっていて、サラはどこか気持ちが高揚するのを抑えられなかった。


 ドレスの制作は順調に進み、やがて仮縫いの状態で試着することになった。


 仮縫いのドレスは、まだ完全ではないはずなのに、不思議と身体に馴染んでいた。まるで、最初からそこにあるべき形だったかのように。


 鏡に映るドレス姿のサラは、清楚さはそのままに、少しだけ大人の色香を漂わせていた。


(これを着て、レンの前に立つんだ……)


 想像の中で、彼はきっと一瞬言葉を失うだろう。


『……反則だろ、それ』


 そう呟いてから、真っ直ぐに見つめてくる。


『綺麗だ。よく似合ってる』


 彼の言葉はそれだけでは終わらない。


『……正直、他のヤツらに見せたくない』


 そんな台詞まで、簡単に想像できてしまう。胸の奥が、嬉しさでいっぱいになった。


 サラは、無意識に左手の指輪に触れた。このドレスで、その手を取ってもらう日が来る。それを思うだけで、胸が優しく満たされていった。



 ドレスも無事に完成し、式の準備も佳境に入ったある日の夜。


 暖炉の火がパチリと弾け、サラは両親と夕食後のお茶の時間を楽しんでいた。


 サラは、二人の横顔を見つめながら、胸の奥に小さな波が立つのを感じていた。


 幸せなはずなのに、なぜか少しだけ、寂しい。そんなサラの様子に母が気づいた。


「大丈夫? サラ。少し疲れたんじゃない?」

「……大丈夫ですよ、お母様」


 一拍の反応の遅れ。どこか作ったような微笑み。それは明らかになにかを隠すようで。


 エイダは夫を見た。サイラスは妻の視線に頷きで返した。


「不安なのかい? サラ」

「え……?」


 父の言葉は、まっすぐにサラの胸を刺した。サイラスはサラとエイダを見比べながら、どこか昔を懐かしむように群青色の目を細めた。


「……結婚というと、なにかを手放すように思われがちだがな」


 サイラスは言葉を切ると、口元を緩めた。


「家族が増えるのは、失うことじゃない」


 その言葉に、エイダも深く頷いた。


「そうよ、サラ」


 隣に座るサラの髪や肩に優しく触れる。


「帰る場所があるから、旅立てるのよ」


 母の言葉は、ストンとサラの胸に落ちた。


──帰る場所があるから、旅立てる


 ならば。


──帰る場所があるから、選べるのだ


 サラは、すぐには言葉を返せず、ただ静かに頷いた。胸の奥で、長く絡まっていた糸が、ひとつほどけたような気がした。

 その頷きは、不安ではなく、決意の色を帯びていた。


(レンと家族になることは……私が選んだ幸せなんだわ……)


 それは不思議と胸が温かく満たされる実感だった。


「いってらっしゃい、サラ」


 エイダが微笑む。


「いつでも帰ってきなさい」


 サイラスが頷く。


「……はい。いってきます」


 サラは最高に幸せな気持ちでふわりと微笑んだのだった。


***


 部屋に戻ったあとも、両親の言葉が胸の中で静かに響いていた。


 帰る場所があるから、選べる。それは、誰かに許される選択ではなく、自分で掴み取る自由なのだと、今ははっきりわかる。


 窓を開けると、夜風がカーテンを揺らした。庭園からは、昼間に見た草花の香りがほのかに届く。ここで過ごした日々は、短いはずなのに、確かな重みを持って心に根をおろしていた。


(私は、ここに帰ってこられる……)


 それは、鎖ではない。背を縛るものでもない。ただ、迷ったときに立ち戻れる場所があるという事実だった。


 サラは机の引き出しを開け、そっと指輪を取り出した。月明かりを受けて、静かに光るそれは、これまでと同じ形をしているのに、どこか違って見える。


(レン……)


 彼の隣に立つ未来は、もう『逃げ場のない選択』ではなかった。帰る場所を持ったまま、手を伸ばす未来だ。だからこそ、怖くない。


 指輪を薬指にはめ直し、サラは深く息を吸った。


──私は、自分の足で進む

──愛される場所を持ったまま、愛する人のもとへ


 窓の外では、白く咲いた花が夜露に揺れていた。その姿を見つめながら、サラは静かに目を閉じる。


 明日も、ここから始まる。そして、いつかここへ戻ってくる。そう思えることが、なによりの支えだった。


 白い花は、ダリアだった。夜の庭では色を失い、ただ輪郭だけを月明かりに浮かべている。それでも、そこにあるとわかる存在感は、昼よりもむしろ強い。


(目立たなくても、ここにある……)


 サラはそう思った。派手でなくていい。完璧でなくていい。ただ、戻ってこられる場所があり、差し出した手を受け取ってくれる人がいる。それだけで、人は前へ進めるのだ。


 胸の奥で、小さな灯が揺れる。それはもう、不安に震える光ではなかった。

 選ぶことを知った者の、静かで確かな光だった。

2026/01/16

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