ひとつ屋根の下
目を覚ますと、見知らぬ天井が視界に映し出された。
(ここは……?)
身体の下には柔らかいフカフカの感触。手で触れるとシーツのパリッとした手触りがした。
全身が泥のように重い。上体を起こそうにも、身体に力が入らなかった。少女が小さく身じろぎすると、声がかけられた。
「おっ、目ぇ覚めたか?」
(男の人の声……?)
おそるおそる声のしたほうに視線を向けると、真っ先に赤茶けた髪が視界に飛び込んできた。そしてハシバミ色の瞳が柔らかく細められる。その瞳に、ようやく記憶が戻ってきた。
(あ、ぶつかりそうになった人……)
それは少女が転びそうなところを助けてくれた青年だった。瞳の色を見て思い出した。まさか、こんなに派手な髪の色をしていたとは思わなかったが。
「お前、あの後、気を失って熱まで出したんだぞ。覚えてるか?」
まったく覚えていない。少女は黙ったまま首を横に振った。それから室内をぐるりと見回す。
ここはいったいどこだろうか。見るからに温もりに満ちた部屋の雰囲気は、少なくとも教会や病院ではなさそうだ。それに、天井からはさまざまな植物が吊りさげられていて、どれもパサパサに乾燥している。
「ここは……?」
「ここ? 俺ん家。基本的に他人は泊めねーんだけど、さすがにずぶ濡れで気絶した女の子を一人で放っておくわけにもいかなくてさ」
なるほど、ここは青年の家だったのか。ならば、気を失って熱を出している間、この青年が看病してくれたということなのだ。
「あの……」
「ん?」
「ありがとうございました……」
消え入りそうな声で少女が礼を述べると、青年はニカッと笑った。
「あぁ、気にすんな。俺の仕事でもあるしよ」
「?」
少女が首をかしげると、青年は天井の乾燥した植物を指で示した。
「俺、薬剤師」
少女は深く納得した。では、天井からぶらさがっているさまざまな植物はすべて薬草なのだ。だが、そうなると気になることがあった。
「あの……」
「ん?」
「実は……お金……なくて……」
少女がうつむいてポソポソと呟くと、青年がカラリと笑った。
「あぁ、だろーなーって思ってた。まぁ、気にすんな。お前一人分くらい、どうにかなる」
「でも……」
それではあまりにも申し訳なさすぎる。ただでさえ薬は高価なのだ。
さらに言えば、この部屋にはベッドがひとつしかなかった。つまり、少女が熱を出して倒れている間、ずっと青年のベッドを占拠していたことになる。
申し訳なさそうに、しゅん、とうつむく少女の様子を見て、青年は困ったように頭を掻いた。
「困らせるつもりはなかったんだがなー。お前は熱がさがってラッキー。俺は美少女に出会えてラッキー。それで相子だと思ったんだが……」
少女はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。ラッキーで済まされるものではない。ついでに言えば、誰が美少女だというのだろうか。少女は頬をわずかに赤らめた。
「どーしても納得する気、ない?」
青年の言葉に、大きく頷く。助けてもらったのだ。お金は払えずともなにかお礼をしたかった。チラチラと上目遣いで青年を見上げてくる少女に、青年は大きくため息をついた。
「一応聞くけど、帰る場所あんのか?」
帰る場所。もう、あそこは違う。自分はどこにも行けない。少女は黙ったまま首を小さく横に振った。
「家出少女かよ……親は?」
もう一度、少女は首を横に振る。
「親は……いない……」
少女がポツリと呟くと、青年はもう一度ため息をついた。
「なるほどな。行くあてもねーってことか……どうすっかなー」
心底困った様子の青年のハシバミ色の瞳を、少女は申し訳なさそうな顔で見上げた。二人の視線が絡む。青年はかすかに息を呑んだ。
青年は頭に手を当てると、しばらく黙りこくった。室内に沈黙が満ちる。ややあって、青年は考えをまとめながら少女に尋ねた。
「……お前、働く気はあるか?」
コクリと頷く。青年がなにかを決心したような顔をした。
「じゃあ、俺の仕事を手伝え。これから色々覚えてもらうからな。いいか?」
もう一度、コクリと頷いた。青年が手を差し出してきた。
「俺はレナードだ。レンでいい。お前は?」
「……サラ」
少女も名乗って青年の手に自分の手を重ねる。
「サラ、か。いい名前だな。これからよろしく頼むぜ」
「こちらこそ……よろしくお願いします……」
こうして、レンとサラの奇妙な共同生活が始まった。
*
レンは一旦サラを外に連れ出すと、それから家の中を順に案内してくれた。
「入ってすぐのここは、作業場兼薬局なんだ」
干して乾燥させた薬草がガラス瓶に詰められて、棚にズラリと並んでいる。これだけ揃えばある意味壮観な光景だった。
「んで、サラ。次こっち」
奥へと続く扉をレンが開ける。
「ここがキッチン。奥の二つのドアは、向かって右が風呂とトイレ。左が俺の私室兼寝室」
ここまででわかったことは、家の中は至るところが干した薬草だらけだ、ということだった。さすがに風呂とトイレにはなかったが。
「寝るときは俺の寝室のベッド使っていいぞ」
「……レンは?」
疑問に思ってサラが尋ねると、レンはあっけらかんと言い放った。
「床にでも寝るさ」
「……ダメ」
家主なのに、さすがにそれはさせられない。
「私が……床に……」
「はぁ? お前、女の子に、んなことさせられっかよ。いーの。俺は床で寝たい気分なの!」
どういう気分だ、それは。そう思ったが、口に出しては別のことを言った。
「慣れてる……平気……」
「ますますダメだろ。だから熱とか出すんだよ」
いやいや、熱を出したのは長時間雨に打たれていたせいと、極度の疲労のためなのだが。
「私が……嫌……」
「頑固だなー、お前」
レンはサラの思わぬ頑固さに呆れた。その日の夜、試しにレンは、サラよりも先にさっさと床の上で横になった。これならばサラはベッドで寝るしかあるまい。そう思っての行動だったのだが。
夜中に目が覚めたら背中がなんか温かい。寝惚けた頭で背中側を確認すると、レンの背中で暖を取るようにしてサラが眠っていた。さすがにこれには驚いた。声をあげそうになるのを必死で押し殺す。
「ってか、これ、ベッド意味ねーだろ……」
ぼやくレンの気も知らず、サラはスヤスヤと眠っている。起こすにも忍びなくて、レンはサラの身体をそっと抱えあげるとベッドに横たえ、自分はもう一度床に横になった。
だが、次の日の夜も、その次の日の夜も、同じことが起きた。いっそレンが観念してベッドで寝ればいいのだが、さすがに女の子を床の上で眠らせておいて自分はベッドで眠る、なんて真似はできなかった。
レンは考えた。床で一緒に眠るのが平気なくらいなのだ。幸いベッドには二人が寝られるくらいのスペースはある。ならば、いっそ二人してベッドで眠ればいいのではないか、と。
考えた後で後悔した。どんな犯罪だ、それ。だが、とにかく使われないままのベッドが、やけに目につくのだ。
レンは眠るサラを抱えあげると、どうせまた戻ってくると知りつつそっとベッドに横たえ、上から掛布でくるんでやる。小さな寝息が変わらないことを確かめてから、彼は床に戻った。
これでいい。自分はただの薬剤師で、ただの大人だ。彼女が諦めるか納得するまで、そうするしかない。
薄暗い部屋に、雨の音だけが残った。
*
「お前、文字読める?」
「……少しなら」
薬剤師の仕事を手伝うということは、サラが思うよりも大変なことだった。
まずは薬草や調合に必要な器具類を覚えることから始めた。目で見て形や特徴は覚えられるし、耳で聞けば名前も使い方も覚えられる。しかし、それをさらに調べようとしても、ほとんど教養のないサラは少ししか文字が読めなかったのだ。
しかも、レンが持っているのはなんといっても専門書だ。難しい専門用語が難しく書かれているのだから、初心者には難易度の高い代物だった。
「これから勉強しような」
レンの言葉にサラは頷く。文字を知らない代わり、と言ってはなんだが、物覚えは凄くよかった。毎日の仕事が終わったあとに勉強する時間を必ず取って、日々さまざまな知識を吸収していく。
一週間もすれば、仕事の邪魔にはならなくなったし、できることも増えてきた。それだけではない。炊事や掃除、洗濯といった家事を率先してやるので、男の一人暮らしだったレンはずいぶんと助かっていた。
「お前、いつもこんなことしてたの?」
サラの作った料理を食べながら、レンは呆れたようにサラを見た。味は大ぶりだが、作ってもらえるだけでありがたいので文句はない。
「孤児院は……基本的に……自給自足だったから……」
その言葉で、レンはサラがこれまで孤児院にいたのだと初めて知る。だが、この近辺に孤児院はない。
たった一人でどれだけの道のりを歩いてきたのだろうか。その過程を思うと、レンは複雑な気分になった。いったい孤児院でなにがあったのか。
だが、サラは話すことが苦手らしく、必要だと思うこと以外ほとんど口を開かなかった。聞けば質問には答えてくれたが、どうみてもワケありのサラにいろいろと尋ねるのはなんとなくはばかられた。
レンが知っている情報は、サラに身寄りがないこと、孤児院育ちだということ、そして十四歳だということ。それくらいだ。
サラを拾った日のことを思い返す。突然、目の前に飛び出してきた小さな影。ずぶ濡れで、傘も差さず。ぶつかりそうになって、慌てて避けた。そうしたら、その直後に少女が転ぼうとしたので、とっさに手を伸ばしていた。支えた身体は、驚くほど軽かった。
少女が顔をあげた。雨に濡れたその瞳に宿る光の強さに思わず息を呑んだ。海のように鮮やかな群青色。目が、離せなかった。
『助けて──……』
気を失う直前にその青褪めた唇から零れた祈りのような小さな声に、なにか事情があるのだろうと勝手に思っていたら、やっぱりワケありだった。まさか、孤児院からの家出少女だとは思わなかったが。
サラがまだ十四歳だと知ったとき、レンは驚くと同時にこっそり落ち込んだ。十四歳の子供に目を奪われた俺っていったい。それなのに、気がつけばサラの手を離すことに躊躇している自分がいた。
もうここまで関わってしまったのだ。毒食らわば皿まで。このまま面倒を見る気でいた。彼女が自分から出ていく気になるまでは。
ただし、それはあくまで保護者としての覚悟であって、それ以上の意味を持たせるつもりはなかった。少なくとも、レン自身はそう思おうとしていた。
サラは子供だ。まだ十四歳。しかも、居場所を失ってここに辿り着いたばかりの少女だ。優しくされたからといって、それを拠り処にさせてはいけない。レンは無意識に伸びかけた手を、膝の上で握りしめた。
そう頭では理解している。それなのに。
朝、キッチンで湯を沸かすサラの小さな背中を見たとき。
慣れない文字を必死に追いながら、眉根を寄せて本と睨めっこしている横顔を見たとき。
薬草の名前をひとつ覚えるたびに、誇らしげにこちらを見るその表情に触れたとき。
胸の奥が、わずかに、だが確かにざわついた。
(……まずいな……)
自嘲気味にそう思いながら、レンは意識的に距離を取るようにした。必要以上に触れない。声を荒げない代わりに、過度に甘くもしない。あくまで師匠と弟子、保護者と被保護者。その線を踏み越えないよう、自分に言い聞かせる。
だがサラは、そんな大人の葛藤など知る由もなく、少しずつこの家に馴染んでいった。
笑う回数が増え、表情が柔らかくなり、夜中に悪夢でうなされることも減っていく。その変化が、嬉しくないはずがなかった。
(……ここが、この子の居場所になればいい……)
それだけでいい。いや、それ以上を望むのは、贅沢だ。
レンは窓の外に降り続く雨を見つめながら、静かに息を吐いた。
ふと、背後で衣擦れの音がした。振り返ると、サラが戸口に立っていた。眠そうな目をしながら、指先で袖口を握りしめている。
「……レン」
小さく呼ばれて、胸がわずかに跳ねた。
「どうした」
「雨……まだ、降ってる……」
「あぁ。しばらくはやみそうにないな」
それだけのやりとりなのに、サラはホッとしたように小さく頷いた。
「……ここ、あったかい……」
その言葉に、レンはなにも答えられなかった。ただ、この家を指してそう言ったのだと──そう思い込むことで、自分を納得させるしかなかった。
この小さな命を守ること。それが今の自分にできる、唯一の正解なのだと信じるために。
2025/12/29
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