父と母のいる暮らし
謁見の日から、サラは公爵邸で暮らすようになった。ブルービアード男爵邸を引き払い、使用人たちも全員連れてのお引っ越しである。
「未だに信じられませんわ。まさかサラ様が公爵家のご令嬢だったなんて!」
「素敵ですわー!」
侍女たちがキャッキャと騒ぐ。それでも引っ越しの手は止めないのだから大したものだった。
信じられないのは自分も同じだ。だが、オルグレン公爵夫妻はサラを実の娘だと信じている。その優しい心だけは裏切りたくなかった。
朝食の席で、サラは何度も視線を感じた。父と母が、まるで宝物でも眺めるように、ときおりこちらを見ている。
それに気づくたび、胸の奥がくすぐったくなって、同時に少しだけ怖くもなった。
──こんなふうに大切にされることに、まだ慣れていないのだ
視線を落とすと、並べられた料理の数と種類の多さに戸惑ってしまう。用意されたカトラリーの数も段違いだった。
「あの……」
「どうかしたのかい? サラ」
父のサイラスが不思議そうに尋ねてくる。そのまったく動じていない様子に、これが特別なのではなく、彼らの日常なのだとサラは察した。
「お気持ちはありがたいのですが……こんなには食べきれません」
「ごめんなさいね。貴女の好みがまだわからなくて、たくさん用意させてしまったの。食べきれなかったら、残してもいいのよ」
母のエイダの台詞に、サラは思わず言葉を失った。食べ物を残すことへの違和感もありはするのだが、それ以上に、サラの食事の好みにまで気を回してくれる、その愛情の深さが慣れなかった。
「でも……残すのももったいなくて……」
「大丈夫よ。わたくしたちが手をつけなかったものは、使用人の食事に回されるのですから。彼らの食事が豪華になると思ったら、罪悪感も少しは気にならないのではなくて?」
それは、確かに。かつての食卓では、量も種類も選べなかった。ただ、与えられたものを黙って口に運ぶだけだった。
好きか嫌いかなど、考える前に皿は空になっていた。
迷った末、サラは一番手前にあったスープにスプーンを伸ばした。湯気とともに立ちのぼる香りに、思わず目を瞬かせる。
口に含んだ瞬間、じんわりとした温かさが喉を通り、胸の奥まで落ちていった。
(美味しい……温かい……)
父はゆっくりと食事を楽しみ、母はときおりサラの皿を気にかけながらも、決して急かさなかった。
誰も、時間を気にしていない。皿の上の温かさが、ゆっくりと胸に落ちていく。
「サラは、なにが好き?」
その問いに、サラはすぐに答えられなかった。好きな食べ物──そう尋ねられた記憶が、ほとんどなかったからだ。
サラは両親が喜びそうな答えを用意しようとして、やめた。
「……まだ、わかりません」
その正直な答えを、父も、母も、責めなかった。
「だったら、これから見つかるといいわね」
「うむ。食の楽しみができると、幸せな気分になれるしな」
「まぁ、あなたったら」
仲の良い両親に、サラは安堵とも喜びともつかない感情で微笑んだ。
結局、すべてを食べきることはできなかった。それでも、誰も眉をひそめない。サラは、そっと胸に手を当てた。
朝食後は母と過ごした。エイダはウキウキとブラシを手に取ると、スルスルとサラの髪を梳いた。
「ふふっ……柔らかな髪質があの人そっくりね」
「そう、なのですか?」
確かに、父の髪質は柔らかそうだった。だが、髪の質は母も負けず劣らず柔らかい。そう言えば、エイダの亜麻色の瞳が穏やかに細められた。
「よく見てくれているのね。嬉しいわ」
「その……お父様とお母様のことを、もっとよく知りたくて……」
そう言って照れたサラを、エイダは椅子越しに後ろからギュッと抱きしめた。
「ありがとう、サラ」
喜びの滲む声を隠しもせずに、母はサラの耳元で囁いた。名前を呼ばれるたびに、言いようのない幸福感がサラを包み込む。
抱きしめ返そうとして、結局なにもできなかった。ただ、背中に伝わる体温を、逃がさないように息を整える。
それだけで胸がいっぱいになるのだから、不思議だった。
エイダの手指がサラの柔らかな長い黒髪を器用に結い上げていく。
「サラ、この色、貴女によく似合うわ」
そう言って母が差し出したのは、淡い水色のリボンだった。
鏡に映る自分は、少しだけ知らない顔をしている。
──『選んでもらう』という行為そのものが、こんなにも胸を満たすものだなんて
「ねえ、サラ」
「はい」
「この色はね、貴女が初めて選んだ『公爵家の色』ということにしましょう」
サラは驚いて目を瞬いた。
「……そんな決まりがあるのですか?」
「今、できたの」
エイダは悪戯っぽく微笑んだ。
「だからこれは、母と娘の秘密ね」
最後にそのリボンを髪に編み込んで、エイダは笑った。
「ほら、よく似合ってる」
「……ありがとうございます」
視線を交わすと、亜麻色の瞳がゆっくりと和んだ。
「……本当はね」
エイダは指先の動きを少しだけ緩めた。
「こうして髪を結うの、ずっと夢見ていたのよ。どんな色が似合うかしら、とか。朝はどんな顔で起きるのかしら、とか」
鏡越しに視線が合う。
「でも、それは全部、これからでも遅くないわよね」
その笑顔は、痛みを乗り越えて娘とともに前へ進もうとする母そのものの笑みだった。
昼食後は父とともに庭園を歩いた。食後の散歩は、父の日課なのだという。
並んで歩くというだけのことが、サラにはまだ少し緊張を伴った。
父の歩幅は、サラの半歩先を行く程度だった。それなのに、気づけばいつの間にか速度を合わせてくれている。
その事実だけで、サラは胸の奥が静かに温まるのを感じていた。
「この庭は、エイダが好んでね」
父はそう言って、庭の一角を示した。初夏の陽射しを受けて、白い花々が静かに揺れている。
「この花は……」
サラの視線に気づいて、父が足を止めた。
「白薔薇だよ。エイダが一番好きな花だ」
そう言って父は、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「昔から、あの人は派手な色よりも、こういう花を好んだ。目立たないけれど、凛としているから、と。強い花より、折れそうで折れないものを好むんだ」
サラは、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。
──それは、どこかで聞いた言葉のようでもあった
「……素敵ですね」
胸がいっぱいになって、それだけを押し出す。父はそんな娘に気づいていた。
「無理に話さなくてもいい」
父は前を向いたまま、そう言った。
「今日は、歩くだけでいい」
「……はい」
その気遣いが嬉しくて、少しだけ距離を詰めると、父はなにも言わず、そのまま歩き続けた。
それが、許されたようで嬉しかった。
「寒くはないか?」
「はい」
ややあって、父はふと気になったようにサラに尋ねた。
「疲れては?」
「大丈夫です」
「そうか。ならいい」
サラは、足元の砂利を踏みしめながら、小さく息を吐いた。
夕食は、朝よりも控えめな品数だった。それでも、ひとつひとつが丁寧に整えられていて、食卓には穏やかな空気が流れていた。
「今日は疲れただろう」
父がそう言って、サラの前に温かい料理を取り分ける。
「無理はしなくていい。ここでは、ゆっくりでいいんだ」
その言葉に、サラは小さく頷いた。ゆっくりでいい──それは、今まで誰からも許されたことのない感覚だった。
母はサラの反応を確かめるように、ときおり微笑みを向けてくる。
その視線に応えるたび、胸の奥が柔らかくほどけていくのがわかった。
食後は、三人でお茶を飲んだ。父は新聞を広げ、母は編み物をしながら、ときおりサラに話題を振る。
今日の庭のこと。明日の予定のこと。取り留めのない話ばかりなのに、不思議と居心地がよかった。
会話の合間に、暖炉の火が静かに爆ぜる。その音を聞きながら、サラは思った。
──これが、家族なのだろうか
夜になり、用意された自室に案内された。広すぎる部屋に、最初は落ち着かない気持ちになったが、ベッドに腰をおろすと、さすがに疲れが押し寄せてきた。
ふと、指先に視線を落とす。そこには、いつもの指輪があった。
(……レン……)
名前を呼ぶだけで、胸がキュッと締めつけられる。今日一日、温かく迎え入れられて、満たされていたはずなのに。
それでも。この喜びを、真っ先に伝えたい相手は、ここにはいなかった。
どれほど多くを与えられても、彼のいない未来は想像できなかった。
その事実だけは、どんな幸福の中でも揺るがなかった。
サラは指輪にそっと触れ、深く息を吐いた。
──大丈夫。私は、ちゃんと前に進んでいる
そう自分に言い聞かせるようにして、灯りを落とした。
しばらくして、控えめなノックの音がした。
「サラ、起きている?」
扉の向こうから、母の声がする。サラは慌てて指輪から手を離し、姿勢を正した。
「はい。どうぞ」
静かに扉が開き、エイダが顔を覗かせた。昼間よりも落ち着いた色の室内着に身を包み、手には小さなランプを持っている。
「眠れそう?」
「……はい。少し、考えごとをしていただけで」
それが嘘ではないことを、母はきっとわかっている。それでもエイダは、なにも問い詰めずに微笑んだ。
「今日は、長い一日だったものね」
そう言って、ベッドの端に腰をおろす。距離は近いのに、触れ合うほどではない。その匙加減が、ありがたかった。
「ねえ、サラ」
「はい」
「ここでの暮らし、無理をしていない?」
胸がキュッと鳴った。サラは一瞬だけ迷ってから、正直に答える。
「……幸せです」
「えぇ」
「でも……少しだけ、戸惑っています」
「そうでしょうね」
エイダは、否定も驚きもせず、ただ受け止めた。
「幸せな場所ほど、人は自分の居場所を疑ってしまうものよ」
「……そう、なのですか」
「えぇ。だって、大切にされることに慣れていないと、『ここにいていいのかしら』って、思ってしまうでしょう?」
図星だった。サラは言葉を失い、視線を落とす。
「でもね」
エイダの声が、柔らかくなる。
「……理由なんて、いらないのよ。貴女がここにいることに」
「……」
「血のつながりがあっても、なくても。公爵令嬢でも、そうでなくても。貴女がサラだから、ここにいるのよ」
それは、押しつけではなく、祈りのような言葉だった。
サラの喉が、かすかに震える。
「……ありがとうございます」
それ以上は、言えなかった。言えば、なにか大切なものが溢れてしまいそうで。
エイダは立ち上がり、ランプの灯りを少しだけ落とした。
「おやすみなさい、サラ」
「おやすみなさい、お母様」
扉が閉まる音が、静かに響く。再び一人になると、部屋はさっきよりも広く感じられた。
サラは、そっと左手を見つめる。指輪は、昼間と変わらず、そこにあった。
(……レン……)
今日は、たくさんの『初めて』があった。父と歩いた庭。母に結ってもらった髪。家族として囲んだ食卓。
どれも大切で、胸が満たされる記憶ばかりなのに。
それでも、心の奥には、ひとつだけ埋まらない場所がある。
喜びを分かち合いたい人。不安を打ち明けたい人。指輪の意味を、ただ静かに共有してくれる人。
(……あなたがいないと、完成しない……)
サラは、指輪を包むように手を重ねた。離れていても、想いが途切れなかった証。
約束は、まだ胸の中で生きている。
──大丈夫。私は、ちゃんと前に進んでいる
そう、もう一度だけ心の中で繰り返してから、サラはベッドに潜り込んだ。やがて、思考は少しずつほどけていった。
公爵邸の夜は、驚くほど静かだった。遠くで風が木々を揺らす音と、廊下を巡回する足音が、規則正しく聞こえてくる。
守られている、という感覚が、ようやく現実のものとして胸に落ちてきた。
サラは寝返りを打ち、枕に頬をうずめる。母の声、父の背中、白薔薇の揺れる庭園──今日一日の記憶が、ひとつひとつ、優しく並んでいく。
不安が消えたわけではない。けれど、不安のすぐ隣に、確かな温もりがあることを、今夜は知っていた。
(ここで、学んでいけばいい……)
(家族というものを。愛されるということを……)
そう思えたのは、ほんの一歩かもしれない。それでも、昨日の自分より、確実に前に進んでいる。
まぶたが重くなり、意識が闇に沈んでいく直前。サラは、心の中でそっとつけ加えた。
(……レン。あなたの帰る場所も、ちゃんと守っておくから……)
その言葉を最後に、サラは深い眠りに落ちた。
2026/01/15
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