境界線の舞踏会
結局、レンに持ちあがった侯爵令嬢・マリアとの縁談のため、レンとサラの婚約発表はその話に決着がつくまで延期されることになった。
この半年、レンの勧めもあって、サラは執事を連れてクリストファー伯爵家に滞在し、週末だけ男爵家に戻るという生活を送っていた。
レンとアスキンから『貴族のいろは』について学び、貴族的な常識や所作、言動などを身につけるためである。伯爵夫人になるにしても、男爵令嬢のままでいるにしても、最低限必要なことだった。
社交期が近づくにつれ、サラの胸には期待よりも不安のほうが大きく積もっていった。それは夜ごと、眠りにつく前に胸の奥で静かに形を変え、名前のない重みとして残った。
教えられてきた作法も、言葉遣いも、知識も、すべては『失敗しないため』のものだ。
貴族として生まれ育った者たちの輪の中に、自分が立つ資格があるのかと問われれば、即答はできない。
だが、それでも行かなければならない。レンの隣に立つために。
それは、選ばれるためではない。彼にふさわしい存在だと証明するためでもない。
ただ、自分の足で立ち、彼の隣に並びたい。その想いだけが、サラを前へと進ませていた。
そして、サラが十九歳の年を迎え服喪の期間が明けた、その年の初夏。サラにとっては初めての、貴族の社交期が到来した。
地方の屋敷から貴族たちはこぞって王都に構えたタウンハウスへと移り、社交に精を出すのだ。
一応、男爵令嬢であるサラの元にもパーティーの招待状がちらほら届き始めるようになった。だが、サラはすべてお断りしていた。
そんな折、レンの元には一通の手紙が届いていた。レンは手紙に目を通して驚いた。
「差出人は……マリア嬢……?」
話があるので会う時間を作ってほしい、ということだったので、レンは王都にある、キーツ侯爵家のタウンハウスへとお邪魔していた。
「突然、お呼び立てして申し訳ありません、伯爵。これをお渡ししたかったのですわ」
マリアから差し出されたそれは、パーティーへの招待状だった。それも何故か二通ある。侯爵家の主催で、ごく親しい者たちだけが集まる私的なパーティーだという。
「このパーティーに、サラ様をお連れになってください」
「え?」
つまり、この招待状はレンとサラの二人分だということである。どうやら、衆目の集まる場所でサラの資質を見極めるつもりのようだった。
「サラ様は、元々貴族ではいらっしゃらないということですので、パーティーまでは伯爵が手助けすることを認めますわ。ただし、一旦、パーティーが始まりましたら、エスコート以外の手助けは許されませんわよ?」
楽しげな、だが、挑戦的な視線を受けて、レンは気になっていたことを尋ねた。
「……ダンスは?」
「ダンスのお相手くらいは認めて差し上げますわ。その代わり、わたくしとも踊ってくださいませ」
レンは一瞬だけ沈黙し、マリアの瞳を正面から見据えた。
「……わかった。他に注意事項は?」
「ありませんわ。どうぞ、パーティーをお楽しみになってくださいませ」
マリアの話はそれで終わりだった。招待状を受け取って帰途につく。中を確認すると、パーティー開催までもう日がなかった。屋敷に戻ったレンはすぐにサラが滞在している部屋へと向かった。
「サラ」
「おかえりなさい、レン……どうしたの?」
「マリア嬢から、パーティーへの招待状だ」
サラは、レンから手渡された招待状に目を丸くした。
「侯爵家主催のパーティーに、私が?」
「そうだ。マリア嬢はサラに会いたがっているからな。おそらく、いろいろと試されるぞ」
「え……どうして……?」
「お前が俺に相応しい女性かどうか見極める気でいるようだ」
サラは絶句した。侯爵令嬢なんて貴種中の貴種だろうに。そんな少女に孤児であった自分が品定めされるのだ。ありえない。
「レン……」
「俺にできるのはパーティーが開催されるまでの準備くらいしかない。さっそくドレスを仕立てさせる。夜会のマナーも知る必要があるな」
「よ……よろしくお願いします……」
レンが仕立職人を屋敷に呼ぶと、さっそくサラの採寸が始まり、色は、瞳の色に合わせて氷のように淡い薄青が選ばれ、上質で厚手のシルクのドレスが仕立てられた。
「ダンスも当然あるだろう。以前教えたはずだが、覚えているか?」
「えぇ……」
カドリール、ワルツ、ガロップ、ポルカといった、一連のダンスはレンからすでに教えられていた。だが、人前で踊るのは初めてだ。
「き……緊張する……」
「まぁ、あの出来なら申し分ないとは思うが……あとでおさらいをしておく必要があるな」
「はい……」
なにからなにまで本当に申し訳ない。そう思いながらも、レンに手伝ってもらえて非常に助かるのは事実である。サラは当日が思い遣られる、と思ったのだった。
*
そして、パーティー当日。薄化粧を施し、仕立てた薄青のドレスに身を包み、黒髪を高く結いあげ、ドレスとお揃いのヘッドドレスにお揃いのパンプス、そして、真珠のイヤリングとネックレスで飾り立てたサラは、間違いなく絶世の美女だった。
鏡に映るその姿は、確かに美しかった。けれど、それが自分自身だと胸を張って言えるかと問われれば、まだ答えは出なかった。
「レン……どうかな……?」
「……綺麗だ、サラ」
ため息をつくレン。サラはそれに不安になった。
「どうしてため息をつくの……?」
「他の男どもに見せたくない」
レンの中では、ある意味切実な気持ちだった。サラはふわりと微笑んだ。
「大丈夫。レンが一番だから……」
確かに、鏡を見ても見知らぬ人だと感じるほどに整えられていた。
だが、その姿が『仮初め』であることを、サラ自身がいちばんよく知っている。
今夜は試される夜だ。自分が彼の隣に立つ資格を持つのか、それとも──持たないのか。
答えは、もう逃げられない場所に置かれている。
「どうだかな」
自嘲気味な笑みを浮かべるレン。そうこうしているうちに、馬車はキーツ侯爵家のタウンハウスに到着した。
「当家へようこそおいでくださいました」
中へ丁重に迎え入れられて玄関ホールで待っていると、名前を呼ばれて広間へと入る。内々に、という話ではあったが、広間にはすでに何人もの貴族たちが集まっていた。他のパーティーに行ったことがないので比べようがないが、確かに少ない、とレンが呟いたのが聞こえた。別室ではサンドイッチなどの軽食が用意されている。
レンとサラが入場したとき、広間がザワリとどよめいた。グラスの触れ合う音が一瞬だけやみ、次の瞬間、囁きが波のように広がった。
そのざわめきが、自分に向けられたものだと理解した瞬間、サラの背筋がヒヤリと冷えた。
値踏みするような視線、興味と警戒が入り混じった空気。
誰も声には出さないが、『この娘は何者なのか』と問われている。
サラは無意識に、指輪の感触を確かめるように指先を動かした。
大丈夫。これは、自分一人で立つための場所ではない。
サラは、レンの機嫌が急に悪くなったのに気がついた。
「伯爵?」
「あぁ、すまない、レディ・スノウ。なんでもないんだ」
なんでもないはずはないのに、レンはそんなことを言う。サラが内心首をかしげていると、薄緑の豪奢なドレスに身を包んだ亜麻色の髪の一人の少女がレンとサラに近づいて来た。
「クリストファー伯爵、ようこそいらっしゃいました」
「これは、マリア嬢。本日はお招きいただき大変光栄です」
「どうぞ、ごゆっくりとお楽しみくださいませ……それで、伯爵。こちらが……」
「えぇ、紹介します。サラ・スノウ嬢です」
サラは優雅に一礼した。その滑らかな動作は、生粋の貴族と比べてもなんら見劣りするものではなかった。
「お初にお目にかかります。サラ・スノウと申します。以後、お見知り置きくださいませ」
「こちらこそ、はじめまして、サラ様。キーツ侯爵家が娘、マリア・M・A・キーツと申します。お会いできるのを楽しみにしておりました。どうぞ、気軽にマリアとお呼びくださいませ」
「では、お言葉に甘えまして……マリア様、本日は私のような者をお招きくださり、身に余る栄誉でございます」
「わたくしが貴女にお会いしたかったのですもの。無理を言ったのはこちらのほうですわ」
マリアは、失礼にならない範囲でサラを観察した。艶やかな黒髪を高く結いあげ、その肌は雪のように白く、極めつけは、その肌に映える鮮やかな群青色の双眸。まるで凪いだ湖面のように静謐なのに、彼女の意志の強さをしっかりと映し出している。薄化粧の施された顔は、上品な造作をしており、唇はほんのりと赤く色づいていて、彼女の静謐な美しさに華を添えている。ドレスも装飾品もきちんと着こなしていて、文句なく似合っている。見た目に関して言えば、社交界の場に立つ資格は充分に備えている。
「残るは教養ですわね……」
ポツリと小さく呟いて、マリアはにっこりと笑った。
「もうすぐダンスが始まりますの。伯爵をお借りしてもよろしいですかしら?」
「えぇ」
レンがマリアの手を取る。二人が広間の中央に進み出た。演奏が始まる。踊る二人を眺めながら、サラは手にした扇子で口元を隠した。本当は顔ごと隠したかったが、マナー違反なのでやめておく。
(マリア様、か……彼女がレンの……本当に美しい方……)
亜麻色の髪を高く結いあげた少女。同じ色の瞳を生き生きと輝かせ、その花の顔は目鼻立ちがはっきりしていて美しい。正真正銘、完全無欠の美少女である。どう考えても自分のほうが場違いだとサラは思った。
中央で踊る二人は格別に優雅で、見ていると思わずため息がこぼれそうだった。曲が終わり、二人が離れてお辞儀をすると、何組かが広間に進み出て、また次の曲が始まる。レンとマリアが戻ってきた。
「素晴らしいダンスでした」
サラがそう口にすると、マリアははにかんだような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。次はぜひ伯爵とサラ様に踊っていただきたいですわ」
マリアが楽しげに笑う。レンとサラは顔を見合わせた。
「では、レディ・スノウ。一曲お相手を」
「喜んで」
レンがサラの手を取る。曲が変わるのに合わせて、広間に進み出た。曲はワルツ。レンのリードに身を委ねて、サラは軽やかに踊った。招待客の何人かから、ほぅっとため息が漏れる。優雅で格式高い、レンとサラのダンスは、とにかく人目を惹いた。特に、広間の片隅でそれを見守るマリアの視線は、ひと際静かで鋭かった。
それは、曲が終わり、二人が離れて一礼すると、二人の周りに小さな人垣ができたくらいだった。
「お名前を伺ってもよろしいですか? レディ。次はぜひ私と踊ってください」
周りを囲まれたサラは、そのうちの一人から声をかけられると、にっこりとそつのない笑みを浮かべた。
「サラ・スノウと申します。喜んで」
*
そのあとも、幾人かの男性からダンスを申し込まれ、相手をしたサラは、慣れないことでさすがに疲れてしまった。
そっと輪を抜けてレンを視線だけで探すと、レンも女性陣からダンスを申し込まれているのがわかった。
「楽しんでいただけていますか?」
そのとき、後ろから声がかけられた。サラが振り向くと、マリアがいた。
「えぇ、とても。素敵なパーティーに感動しております」
「ねぇ、サラ様。わたくし、サラ様ともっとお話ししたいですわ。よろしいですかしら?」
キラキラした瞳で見上げられ、サラは柔らかく微笑んだ。
「光栄ですわ、マリア様」
それからは、現在の国内外の情勢から最新の流行のファッションに至るまで、二人でさまざまな話をした。
マリアも質問をするために勉強をしてきたつもりだったが、サラの見識の広さには驚くものがあった。
たとえ、知らない話があったとしても、内容を聞いて、それについて自分の考えを述べることができるだけの知識と胆力もある。
マリアはサラに気づかれないように、内心で舌を巻いていた。他に、彼女に聞くべきことと言えば、レンへの想いくらいしかない。
「サラ様にとって、指輪のお相手はどういう方ですの?」
言葉は濁したが、質問自体は直球だった。サラは笑みを浮かべたまま、マリアを見つめた。
「ただ一人、私を選んでくださった方です。彼こそが、今の私の世界のすべてと申せます」
「……結ばれると、思っていますの?」
「それはわかりません。ですが……たとえ、結ばれることがなくとも、あの方の想いは指輪という形で私とともにあります。この指輪と私の想いさえあれば、きっと生きてゆけると思うほどには、あの方をお慕いしております。それだけで、身に余るほどの幸せなのです」
マリアは一瞬だけ言葉を失い、扇子を持つ指先に、かすかな力がこもった。
サラの想いを聞いて、そのときのサラの表情を見て、マリアは正直、負けた、と思った。どうあってもサラと結ばれたいと思っているレンとは裏腹に、サラは自分の身の程をきちんとわきまえている。万が一のときには、自分から身を引く覚悟もしている。そのうえで、レンを愛していると言うのだ。
ここが境界線なのだと、マリアは静かに理解していた。
「実は、サラ様にお話がございますの」
マリアは静かに話を切り出したのだった。
2026/01/11
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