香りの中の告白
そして、ある晴れた日。その穏やかな天候とは裏腹に、レンの胸中は嵐の前触れのように静まり返っていた。
レンはアスキンを連れて、キーツ侯爵邸にお邪魔していた。とにかく娘に会ってくれ、と侯爵に招待されたためである。
キーツ侯爵と侯爵夫人に挨拶をして、それからレンは侯爵令嬢に目を留めた。
「キーツ侯爵令嬢におかれましては、お初にお目にかかります。レナード・E・C・クリストファーと申します」
「父からお話は伺っておりますわ。クリストファー伯爵。初めまして。マリア・メレディス・オーガスタ・キーツと申します。どうぞ、マリアとお呼びください」
父親であるキーツ侯爵の隣で挨拶をする十六歳の娘は、確かに若く美しかった。真っ直ぐな優しい亜麻色の髪を腰まで伸ばし、同じ亜麻色の瞳をキラキラと輝かせている。いかにも温室で育てられた世間知らずのお嬢さん──そんな印象を抱きかけて、レンはその判断を保留した。
それから、侯爵夫妻とレンとマリアの四人で他愛ない話をし、やがて気を利かせた侯爵が、自慢の庭を娘に案内させると言い出した。
「伯爵、こちらにどうぞ」
「では、お言葉に甘えて……」
マリアが立ち上がったので、レンも立ち上がり彼女のあとについていった。自慢するだけあって、侯爵家の庭院は隅々まで手入れが行き届いており、季節の花々の咲き乱れる美しいものだった。向こうには温室も見える。
「素晴らしいお庭だ」
「そうでしょう? あちらの温室には、お母様のお好きな薔薇がいっぱい咲いていますのよ。そちらもご覧になりますかしら」
「ぜひ」
温室に案内されると、確かにそこには美しい薔薇が咲き誇っていた。確か、最も香り高い薔薇として有名な、ダマスクローズである。温室は薔薇の香りで満たされ、噎せ返りそうなほどだった。
「見事だね。これほどとは思わなかった。触れてみてもいいかい?」
「えぇ、もちろん」
レンは一輪の薔薇に手を伸ばし、顔を近づけて匂いを嗅いだ。上品で、高貴な香り。多くの女性が魅了されてやまないという花を前にして、頭に浮かぶのはサラのことばかり。まったく、どれだけ彼女に溺れているというのか。
「薔薇の香りはお好きですの?」
「嫌いではないかな。ただ……少し、強すぎる香りだ」
そのとき、マリアがあることに気がついたようだった。
「伯爵、それが例の噂の指輪ですの?」
「えぇ。マリア嬢」
左手の薬指にはめられた指輪にそっと視線を落とすレン。その優しい眼差しに、マリアは思わずドキリとした。この男性に、こんな表情をさせる女性がいる。そのことにマリアは言いようのない感情を覚えた。
「……どうやら貴方は、わたくしに求婚しにいらしたわけではなさそうですわね」
レンは答えない。ただ、意味深な笑みを浮かべてマリアを見る。
「どんな方ですの?」
マリアの質問に、レンは目を細めた。サラのことを思い浮かべると、そのハシバミ色の瞳がますます優しさを増す。彼女を形容する言葉なら、考えるまでもなくスラスラと出てくる。
「そうだね……美しい女性だよ。群青色の瞳が印象的でね。聡明で、慈愛に満ちていて、彼女の傍はとても居心地がいい。私が伯爵位を継ぐ前から、多くの苦楽をともにしてきた人だ」
あまりにも堂々とした惚気に、マリアは唖然とした。それと同時に、この自分を前にしてそこまで言い切る伯爵と、彼にそこまで言わせる女性に興味を持った。
「そんなに素敵な女性ですの? ぜひ、お会いしてみたいですわ。お名前はなんと仰るの?」
「名はサラ。サラ・スノウ。だが、会えるかどうかはわからないな。マリア嬢との家格の違いがありすぎて……」
マリアは驚いた。
「それは……もしや、貴族ではない、ということですの?」
「えぇ。一応、男爵家の養女ではあるけれど、生粋の貴族であるマリア嬢とは比べるべくもないからね」
「伯爵も、生粋の貴族ではありませんの」
不思議そうに首をかしげるマリアに、レンは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「実は、私は妾腹でね。本妻には跡を継げる男の子がいなくて、六歳の頃に伯爵家に迎え入れられたんだ」
「まぁ……そうでしたの」
「それからは、とにかく家に反発する日々だったよ。大学まで行かせてもらったのにね。大学を卒業すると同時に伯爵家を出奔した。それからは薬剤師として生計を立てて……サラと出会ったのは、そんな折だった」
マリアは目を丸くしてレンの話に聞き入っていた。
「初めは、本当になにも知らない少女で、美しいだけの、ただの人形のようだった。でも、その群青色の双眸だけは生きていた。だから、私は彼女に学問と教養、礼儀作法を教えた。元々頭の良い子でね。すぐに自分のものにしてしまったよ。知識を得て、教養と作法を身につけて、彼女は変わった。一人の、人間の女性になったんだ」
レンは穏やかな笑みを浮かべてマリアを見た。
「彼女にうっかりプロポーズしたのは、彼女が十六歳のときのことだった。今の君と同じ歳だね、マリア嬢」
「え……?」
「彼女は、私の出自を知らなかった。ただの薬剤師としての認識しかなかったんだ。だが、どこにでも口さがない人間はいるものでね。彼女に私が伯爵家の人間だと知らせてしまったんだ」
それで、どうなったのだろう。マリアは身を乗り出した。
「彼女は、私のためを思って一度は身を引こうとした。だが、そのときには、すでに私のほうが彼女なしではいられなくなっていたんだ」
「まぁ……!」
なんてドラマティックな展開なのか、とマリアは思った。それで、伯爵はどうしたのだろうか。
「私は、地位も名誉もすべていらないと父に言った。ただ、サラと結婚して幸せになりたいだけなのだと。だが、理解されなかった。だから、サラ以外のすべてを捨てることにした」
「え?」
「今度こそ、家を捨てて出奔したんだよ。サラが十八歳になったら籍を入れることにして、互いの左手の薬指に揃いの指輪をはめて、それから二人で暮らした。だが、そんな幸せも長くは続かなかった」
マリアは悲劇のオペラの一幕を見ているような気分になった。続きが気になって仕方がない。
「なにが……あったんですの?」
「一年後、二人の仲をよく思わない女性によって私たちは引き裂かれた。サラはお金で売られたんだよ」
「!?」
レンは一度、言葉を切った。
「幸い、というか、美しく聡明な彼女は、売られた先の男爵家で気に入られ、男爵家の養女になった。男爵は私の出自や事情をすべて知ったうえで、サラを養女にしたんだ。家を捨てた私には、なにもできなかった」
人身売買などお伽噺の中だけの話だと思っていたマリアは、声すら出せなかった。
「それから一年後、私の父が亡くなった。家督と爵位を私に譲ると言い残してね。家に連れ戻されそうになった私はひとつだけ条件をつけた」
「それが……」
「サラを唯一の正妻に迎えること。それが、家督と爵位を継ぐ条件だ」
「!」
それほどまでに、この男性はその女性を愛しているのだ。そう思ったら、マリアは背筋が震えるような気がした。
「家督と爵位を継いだ私は、すぐにサラの行方を捜した。それで彼女が男爵家の養女になっていることを初めて知ったんだ」
「そうだったんですの……」
「それからしばらく経って、私はその男爵に呼び出された。もう自分は長くないから、遺言で全財産をサラに譲る。その立会人になってほしい、と頼まれたんだ」
「驚きましたわ……よほど気に入られていらしたのですわね」
マリアが驚きに目を丸くする。
「打てば響く聡明さが気に入っていたらしい。ほどなくして男爵は亡くなった。私は一年ぶりに彼女に会えたんだ」
「まぁ……そうでしたの。でしたら、どうしてご結婚なさっておられないんですの?」
「言っただろう? 男爵が亡くなったのだと」
「あ……服喪の期間、ですわね。わたくしとしたことが……」
恥ずかしそうに顔を伏せるマリアに、レンは好意的な笑みを浮かべた。確かに、よくできたお嬢さんだ。
「そう、服喪の期間が明けたら、私たちの関係を公のものとし、籍を入れるつもりでいたんだ」
「あと、どれくらいなんですの?」
「そうだね、あと半年くらいかな」
「まぁ。では、もうすぐじゃありませんの。素敵ですわ!」
頬を上気させて喜びの表情を見せる素直なマリアに、レンは苦笑した。
「ありがとう。だけどね、この話には続きがあって」
「え?」
「君のお父上は、君を私に嫁がせるおつもりのようだ。君は……どうしたい? マリア嬢」
マリアは頭が真っ白になるかと思うくらい驚いた。自分と伯爵が結婚する? これほどまでに愛している女性のいる男性に嫁ぐことは、逆に不幸ではないだろうか。
マリアがそう口にすれば、レンは驚いたように目を瞠り、そして笑った。マリアへの評価を少し改める。
「そうかもしれないね。マリア嬢、君の聡明さと素直さは天与の美質だ。国王陛下の妃に、とさえ望まれる、君の持つ本当の価値かもしれない」
「わたくしの……価値?」
マリアは動揺した。自分の価値は知っているつもりでいた。王妃にと望まれていることも知っている。だが、それは侯爵令嬢としての価値であって、マリア個人の価値ではない。
マリア個人を認めてくれた人は、伯爵が初めてだった。嬉しかった。もっと、この人のことを知りたい。この人の話を聞きたい。そう思った。
「ねぇ、伯爵。恋とはどんなものですの? 誰かを愛するということは、どういう気持ちなんですの?」
唐突な質問に、レンは面食らったが、考えてみれば侯爵令嬢という立場の彼女は恋愛をしたことがないのに違いなかった。
「難しいことを訊くね。私も恋をした記憶はないな。ただ、気がついたら彼女から目が離せなくなっていた。一緒にいると楽しい。傍にいられないと寂しい。ただ、その人がいてくれるだけで幸せなんだ。自分を好きになって笑顔を見せてくれたら、もっと幸せ。そうしたら、今度は相手の幸せな姿を見たくなる。不思議だね。自分にこんな感情があるなんて、彼女に出会うまで知らなかった。それが愛なんじゃないかと漠然と思っている」
「相手の幸せな姿を、見たくなる……?」
それはどんな感情なのだろう。知りたい、とマリアは思った。
「そうだよ。もっともっと、彼女の笑顔が見たい。喜ぶ顔が見たい。幸せでいてほしい。愛することには際限がない。愛し合って結婚する人もいるだろうけど、私は、愛は育んでいけるものだと思うよ。お互いが、お互いを思いやる気持ちを持てばね」
「思いやる、気持ち……愛は、育んでいける……?」
「愛の形はさまざまだ。百人の人間がいれば百通りの愛し方があるんじゃないかな。例えば、相手の幸せを願って、自ら身を引く愛もある。彼女が私のことを思って、私の元から去ろうとしたようにね」
その言葉に、マリアはハッとした。思わず伯爵の顔を見つめる。どこか寂しげな、痛みを孕んだ表情。唐突に気がついた。彼にそんな顔はさせたくないと自分が思っていることに。ならば、マリアが取るべき道はひとつだった。
「だったら、伯爵。わたくし、貴方とは結婚できませんわ。だって、伯爵の幸せはサラ様とともにおありになるのですもの。わたくし、どこまでもお邪魔虫ですわ。これが愛かどうかはわかりませんが、少なくとも貴方に嫌われたくなくて、つらそうなお顔をさせたくないくらいには、貴方のこと、きっと好きになりかけていますわ」
声は強気だったが、胸の奥では、まだ名前のつかない痛みが小さく疼いていた。
「おや、嬉しいことを言ってくれるね……ありがとう」
レンは女性に向けるものでは珍しく優しい笑みを浮かべた。だが──。
「でも……あっさり引きさがるのは、少し悔しい気がいたしますわね」
「?」
「決めましたわ! わたくし、絶対にサラ様にお会いします。会って伯爵の想いにふさわしい御方かどうか見極めるのですわ。家柄、はわたくしの勝ちのようですけど、美貌、教養、どれほどのものか、見せていただきますわ!」
力強く宣言したマリアに、レンは若干圧倒された。
「マ……マリア嬢……?」
「でなくば、このお話、わたくしから破談にはして差し上げません。よろしいですわね? 伯爵」
「……わかった」
女性は怖い。しみじみとそう思った瞬間だった。
庭園を吹き抜ける風が、温室から流れ出た薔薇の香りを運んできた。甘く、濃厚で、少しだけ息苦しいほどの香りだった。
レンは無意識のうちに、左手の薬指に視線を落とす。連理の枝を模した指輪は、今日も変わらずそこにあった。
(……サラ……)
彼女なら、この香りをどう評するだろうか。きっと「少し強すぎますね」と微笑んで、もっと穏やかな花の話をするに違いない。
レンは胸の奥に、確かな決意が根をおろすのを感じた。
この嵐を越えた先で、必ず彼女のもとへ戻る。それが、迷いなく選び取った、自分の人生だった。
2026/01/10
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