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奪わなかった男

 サラは、この一年、ブルービアード男爵邸で気ままに過ごしていた。それは『守られているから』ではなく、『自分で選んでそうしている』時間だった。


 今でもレンの言葉を忠実に守っているため、レン以外の人間の前で気を抜いたことはない。だが、不思議とつらいとは感じなかった。レンの教育の賜物だろう。


 落ち込んだときには左手の薬指にはまった指輪を眺めた。そして、レンとの幸せな思い出に浸るのだ。


 男爵邸には、本がたくさんあった。それには、レンと一緒にいたときには知らなかった知識が詰まっていた。許可を得て、サラはひたすら本を読み込んだ。知らないことを知るのは楽しかった。


「やれやれ、君は勉強家だな」

「男爵」


 男爵は相変わらず、一日に一回はサラに会いに来て、紅茶を嗜みながら群青色の瞳を眺めるか、本を読んでいるサラの絵を描いて過ごしていた。


「不思議なものだね。本を読んでいるときの君の瞳はキラキラと輝いているように見える。知識を得るのはそんなに楽しいかね?」

「えぇ。世界が広がります」


 サラは穏やかな笑みを浮かべてみせた。男爵の目元が少しだけ和んだ。


「だったら、明日からここに来るときには新聞を持ってこよう」

「よろしいのですか?」


 わずかに喜色を浮かべるサラに、男爵は頷きを返した。


「ただ、注意しておきたいのは本でも新聞でも、文章は書き手の主観に左右されるということだね。そこに書いてある情報自体は正しいかもしれないが、表現には多少は誇張や曲解が混ぜられていると思ったほうがいい。そうでないと、読者はどんどん書き手の思う通りに誘導されてしまうからね。そういった嘘の情報に振り回されないようにするためには、高い見識と確固たる信念が必要だ。君にはそれがあるかな?」


 試すような視線に、サラは困ったような表情を浮かべた。


「それは……まだ、あるとは言えません。ですが、信じる、信じないという以前に、より多くの情報を得て、その中から取捨選択をしていくことはできるかと思います」

「うん、いい答えだね」


 男爵は満足そうに目を細めた。彼と話をするとき、サラはいつも試されているような気分になった。肉食獣を前にしている気分とでも言えばいいだろうか。紅茶の香りが喉を通るたび、ほんのわずかな苦みを感じる。


 サラが男爵の心に適う言葉を言えば、こうやって見逃されるが、もし、つまらない答えを返してしまったら、そのときは、きっと食い殺されてしまうだろう。哀れな草食動物のように。


「そういえば、聞いたかい?」

「なにを、ですか?」

「新しいクリストファー家の当主が、とうとう伯爵位を継いだそうだよ」

「!」


 サラの目が驚きに見開かれた。心臓がドキドキと疾走し始める。深呼吸をしてそれを宥めてから、サラは口を開いた。


「その、新しいご当主というのは……」

「うん? 君もよく知っている人だよ。この前、先代がお亡くなりになったからね。大方、連れ戻されたんだろう」


 やはりレンのことなのだ。サラは胸が潰れるかと思った。結局、なにもかも無駄だったなんて。それでも、この指輪だけは、外さないと決めている。


「これには面白い話の続きがあってね」

「続き、ですか?」

「うん、そう。新しい伯爵の左手の薬指には指輪がはまっていたそうだよ。でも、伯爵は誰とも結婚していない。不思議な話だね。誰とも結婚していないのに、左手の薬指に指輪だなんて、まるで君みたいだ」

「!」


 サラは思わず両手で口元を覆った。そうでなければ、嗚咽してしまいそうだった。すでに涙は瞳から零れ落ちている。その反応に満足したかのように、男爵が笑う。


「やっぱり、君は愛されているね。愛して、愛されて。まるで私たちそっくりだ。本当は、もっとずっと見ていたかったけれど、あいにくと私にはもう時間がない」

「男爵……?」


 そのとき、ちょうど男爵が咳き込んだ。口元に当てた手にはハンカチを握っている。男爵が口元を拭う。ぬちゃ、と液体の音がした。その口元にわずかに残った色は、血の紅。


 驚きに目を見開いたままのサラに、男爵は青褪めた顔で淡い笑みを浮かべた。


「どうやら、今日は喋りすぎたようだ……もう戻るよ。また、明日」


 止める間もなく部屋を出て行った男爵を、サラは呆然と見送ったのだった。



 一方、伯爵家。屋敷で執務中のレンを、珍しくアスキンが遮った。


「レナード様、お手紙が届いております」

「聞くだけ無駄だろうが、誰からだ」

「それが……ブルービアード男爵からでございます」

「なんだと?」


 レンの顔色が変わった。手紙を受け取り、中に目を通す。


「いったいなんと言ってこられたのですか?」

「……会って話したいそうだ。場所は、ここと男爵邸とのほぼ中間地点に位置する町だな。宿の一室を借りきっているらしい」

「どうなさるおつもりですか?」

「……とりあえず、会ってあちらの出方を窺ってみる。話はそれからだ」


 そして、レンは約束の場所へと向かった。この町の宿では一番上質な部屋、そこに、かの男爵はいた。


「よく来てくれたね、クリストファー伯爵」

「……久しぶりだ。ブルービアード男爵」

「突然、お呼び立てして申し訳ない。だが、どうしても、貴方に会って話したいことがあったのでね」


 レンは男爵の顔を見て驚いた。ずいぶんと穏やかな顔をしている。酷薄そうな双眸に宿る光がだいぶん薄れているのだ。一年前の彼とは、まるで別人のようだと思った。しかし──。


「顔色が優れないようだが、体調でも悪いのか」


 そう尋ねると、驚いたことに、男爵は、はは、と小さく笑ったのだった。


「相変わらず直球だね。少しは変化球を投げることも覚えたらどうなのかな?」

「あいにくと人の体調の変化については元職業病なんでな。他意はない」


 レンがそう答えると、男爵は目を軽く瞠った。職業病という返答は意外だったようだ。


「そうか。そうだったね。これは失礼した。では、時間もないことだし、君に倣って本題に入ろうか」


 君に倣って、という件に微妙な悪意を感じる。レンはそう思ったが、黙って話の続きを促した。


「実は……」


 話を聞いたレンは、片方の眉を跳ねあげただけだった。なにを言い出すかと思ったら。


「驚かないんだね」

「信憑性がないからな。私に『それ』を頼んだところで、貴公にメリットがあるわけでもない。どうやって取引をするつもりだ?」

「おやおや、君の口から『取引』なんて言葉が出てくるとはね。だいぶ学習したようだ」

「話はそれだけか」


 表面上はわざと素っ気なくあしらう。だが、男爵のほうが一枚も二枚も上手で、まるで動じたところがない。


「取引のつもりはないよ。これは私から君への純粋な『頼み』だ。疑うなら、ここに弁護士の住所と氏名も書いてある。気の済むまで尋ねてみればいい」


 男爵はそう言って懐から封筒を取り出した。封のされたそれを、視線で確認してここで開ける。中の便箋には中堅どころの弁護士事務所の住所と、それなりに有名な弁護士の名が記されていた。


「彼女はどうするつもりだ」


 『どう扱うか』ではなく、『どう生きるか』を問う声音だった。


「ふふ……彼女は聡明な女性だ。私がなにも言わずとも、きっとその先へと進むだろう。実に残念だよ。もう少し、君たちを見ていたかったのだがね」

「悪趣味だな」


 レンはそう言ったが、この一年、彼が本当に見ているだけだったことを知っていた。男爵は穏やかに笑った。


「君たちが羨ましいよ。愛し、愛され、確かに未来へと進んでいる。私には、もう望むべくもない眩しい未来だ」



 サラの目の前で喀血してからというもの、男爵の容体は、石が坂を転がり落ちるように悪くなっていった。医者の話では、肺に悪性の腫瘍ができていて、そこから出血しているのだろうということだった。


 男爵は何度も苦しそうに咳き込み喀血した。侍女たちが嫌がる中、サラは自分から男爵の身の回りの世話を買って出た。痛み止めの薬が効いて眠っている男爵のベッドの傍で、様子を窺いながら、本を読む日々。


「……そこにいるのは、君か」

「はい。ここに控えておりますので、ごゆるりとお休みください」


 淡く微笑めば、男爵が苦しい息の下で笑い返した。だが、一向に休む気配はない。


「なにも、聞かないのだな……」

「聞いてもよろしいのですか? 話すのはおつらいでしょう?」

「いや、せっかくこうして君が傍にいるというのに、なにも話さないのはつまらない。なんでも聞くがいい」


 サラは困ったような笑みを浮かべた。だが、せっかくなので有意義に使わせてもらうことにした。


「どうして、黙っておられたのです? お身体のことを……」

「君を迎えに行ったときは、すでに症状が現れていた頃だった。自分の命が残り少ないと知ったらね。是が非でも君を手に入れたいと思った。その深い海を思わせる群青色の瞳をね」


 そのときサラの頭に、天啓のようにひとつの答えが閃いた。


「最初から……目を抉るつもりなんて、なかったんですね」


 そう言えば、男爵は、くつくつと喉の奥で笑った。


「君は知らないだろうが、人は死んでしばらく経つと、目の表面が白く濁ってしまうんだ。それは、生きている間に目を抉り出したとしても同じことだ。あのとき、あんな風に言ったのは……」

「そうすれば、私との取引がしやすくなるから、ですか?」

「そうだ。やはり、君は賢い。あのとき、我々が取引していたのは、実は彼じゃない。君だったんだよ」


 やはり。あとからよく考えてみれば、あのとき選択肢を狭められていたのはサラのほうだった。追い詰められていたのは、レンではなく、自分だったのだ。


「冬まで待ったのは、何故ですか?」

「それも気づいていたか。ふふ……単なる私の趣味だよ。君を初めてあの孤児院で見たのは雪の降る日だった。君のその群青色の瞳は白い雪によく映える。それから、君の名前が『スノウ』だと知った。これだけ揃っていれば、雪の日に迎えに行くのが理想的というものではないかね?」


 わかるような、よくわからないような、変な理屈だった。だが、男爵の中ではきちんと筋の通った話なのだろう。ならば、趣味だというのも頷ける話だ。


「私の瞳の色を、褒めていただいて、ありがとうございます」

「なに、本当のことだ。礼には及ばんさ。君と過ごした一年と少しは、実に楽しかった。久しぶりに、年甲斐もなくワクワクしたよ……あぁ、むしろ礼を言うのはこちらのほうだな。ありがとう、サラ・スノウ」

「男爵……」

「最後に、君に贈り物があるんだ。ぜひ受け取ってくれたまえ」


 これにはサラは驚くしかなかった。


「そんな……私、贈り物なんて……」

「うん、君なら、そう言うと思った。だけどね、もう執事に託してしまったんだ。だから、遠慮なく受け取ってほしい」

「……」


 黙っていると、ふいに、男爵が宙を見つめて、柔らかな微笑みを浮かべた。


「あぁ、どうやら迎えが来たようだ」

「え……?」

「前に話しただろう。彼女だよ……やぁ、来てくれたのか……そう、怒らないでくれ……私は……君を……」


 コトン、と宙に伸ばしかけていた男爵の腕が落ちた。


「……男爵……?」


 そっと揺さぶってみる。だが、彼はピクリとも反応しない。サラは異変を悟った。


「誰か、誰か来て! 男爵が……男爵が……!」


 サラの悲鳴だけが、屋敷に木霊した。やがて使用人たちが駆けつけ、屋敷は一時の騒然に包まれた。医師が呼ばれ、形式的な確認が行われ、男爵の死は静かに確定した。


 その間、サラは男爵の傍を離れなかった。冷たくなりつつある手を、そっと両手で包み込む。そこに、恐怖はなかった。ただ、ひどく不思議な静けさだけがあった。


──この人は、最期まで『奪わなかった』


 それが、サラの胸に残った結論だった。歪んでいて、危うくて、決して善人ではなかった。けれど男爵は、最後の一線を越えなかった。サラの未来を、自分の手で閉ざすことをしなかった。


 部屋を出る前、サラは一度だけ振り返った。穏やかな顔で横たわる男爵は、もうなにも語らない。ただ、どこか満足そうに見えた。


 その夜、サラは眠れなかった。左手の薬指の指輪に触れる。冷たい金属の感触が、確かにそこにある現実を教えてくれる。


──レンは、生きている


 そして、自分も。サラはゆっくりと目を閉じ、深く息を吸った。胸の奥に残る痛みも、名づけようのない静けさも、すべてを抱えたまま、生きていくしかないのだと理解していた。


 愛されることも、選ばれることも、もう誰かに委ねたりはしない。

 自分の足で歩き、自分の言葉で答えを選ぶ。その先に、もしレンがいるのなら──それは、逃げ場ではなく、帰る場所だ。


 夜の闇の中で、サラはひとり、確かに前を向いていた。


──待つことは、終わりではない


 選ぶために、生きるのだ。その決意は、まだ小さかったが、確かに揺るがなかった。

2026/01/07

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