伯爵位の重み
父の訃報がもたらされてから、レンはただ時を待っていた。心臓の鼓動が、やけに静かだった。身なりを整え、いつも通りの生活をし、何事もなかったかのように振る舞った。
やがて、さほど間を置かずに、町に馬車がやって来た。馬車は人目を引きまくりながら街中を疾走し、レンの家の前に停車した。
馬車からおりてきたのは燕尾服を着た壮年の執事だった。確か、クリストファー家の家令も務める執事長である。いかにも真面目で、実直そうな執事の名は、アスキン。
「お迎えにあがりました。レナード様」
恭しく跪いて頭を垂れたアスキンに、レンは冷たく言い放った。
「本妻の指示か?」
「旦那様のご遺言にございます。一切を貴方様に委ねるとの仰せでしたので……」
「戻る気はないと言ったはずだが?」
あくまで冷淡な態度を崩すことのないレンに、アスキンも沈着冷静な態度を崩そうとしない。
「お帰りになっていただかねば困ります。レナード様がクリストファー家の家督と爵位をお継ぎになられなければ、伯爵家は断絶。多くの罪なき人間が路頭に迷うことになるでしょう」
その言葉に、レンは鼻でせせら笑った。
「お前は俺を脅しに来たのか?」
「滅相もないことでございます。ただ、事実を告げたまでです」
確かに、ただの事実だ。だが、良心ある人間なら、間違いなく心を揺らされるであろう言葉だ。このアスキンという男、意外に食えない。
「戻ってやってもいいが、条件がある」
「なんなりと」
もう一度、深く頭を垂れたアスキンに、レンは淡々と条件を告げた。
「本妻には、サラ・スノウを迎える。これは条件ではない。前提だ。それ以外の妾はいらない。正式に伯爵夫人として扱え。それなら戻る」
「!」
アスキンが驚いたように目を瞠った。レンは拒否される前に言葉を紡いだ。
「『なんなりと』と言ったよな? まさか、今更それは聞けないとでも言うつもりか?」
「そんなことは……ただ、旦那様のご遺言にはサラ様のことも記されておりましたので」
「なんだと?」
遺言にサラのことが? あいつめ、この期に及んで、いったいなにを。
「もし、レナード様がサラ様を妻に迎えると仰った場合には、そのように取り計らえ、と」
「!」
これにはさすがにレンも驚きを隠せなかった。どういう心境の変化だ。いや、おそらく、サラがいなくなればすぐにでもレンが戻ってくると踏んでいたのに、動こうとしないレンに業を煮やした結果だろう。父親はどうしてもレンに跡を継いでほしかったのだ。根競べは、レンの勝ちだった。
「……いいだろう。戻ってやる」
「それは、ようございました」
ニコリともしない鉄面皮の執事から視線を逸らし、レンは今まで過ごした家に目を向けた。
「それから、定期的に人をやって、この家を管理させろ。荒れさせることは許さない」
「かしこまりました」
「……出立の準備をする。少し待て」
「はい」
実は、荷物はあらかたまとめてある。あとは、お世話になった人々への挨拶だけだ。家々を回って、別れを告げていく。
処方箋を受け取ることも、薬棚を整理することも、もうない。患者たちは事情を深くは聞かず、ただ口々に礼を言い、無事を祈った。
レンは、あらためて思い知る。この町で自分が『薬剤師』として生きてきた年月の重みを。
ここには、爵位も家名もなかった。ただ、人の痛みと向き合い、必要とされ、応えてきた時間があった。
それを捨てるのではない。背負ったまま、別の場所へ行くのだ。
──背負えるだけの力を、今から手に入れる
そうでなければ、自分はサラの前に立てない。その資格がないままでは。
調合した最後の薬を必要な患者たちに渡しておくのも忘れない。細々と世話を焼いてくれた小母さんは泣いてしまった。
「そうかい、アンタまで行ってしまうんだねぇ。寂しくなるよ、クリス先生」
「永遠に会えなくなるわけじゃねーよ。いつかまた、会いに来る。今度はサラも連れて、な」
「うん。ぜひそうしておくれ」
最後に、レンは小母さんのでっぷりとした体格のいい身体を抱きしめた。
「いろいろとありがとう。元気でな、小母さん。身体に気をつけて」
「アンタもね」
レンの背中を軽く叩いて、小母さんはそう言った。
***
家に戻ってきたレンに、座って待っていたアスキンが立ち上がった。
「もうよろしいのですか?」
「あぁ。あとは身の回りの物を詰め込むだけだ。俺一人でできるから、お前は外に出ていろ」
「かしこまりました」
アスキンが一礼して外に出て行ったあと、最後の荷物をトランクに詰め込んだレンは家の中を見回した。この家で、サラと三年を過ごした。あれほど幸せな日々は、きっともう二度と巡ってこない。だが、それでも、レンは前に進まなければならなかった。実家に戻るのも、逃げるためではなく、前に進むためだった。
「サラ……またいつか……二人でここに……」
ポツリとした呟きは、静寂に吸い込まれていった。
トランクを手に、外に出てきたレンを見て、アスキンは恭しく馬車の扉を開けた。無言でレンが乗り込む。そのあと、アスキンも乗り込んで、馬車は走り出したのだった。
馬車の中で、二人は無言だった。だが、レンは今のうちに言っておくべきことを口にした。
「アスキン」
「はい」
「俺は……知らないことばかりだ。きっといろいろと失敗もやらかすのだろう。だが、知らないままではいられない。否、俺は知らなければならないんだ。世界のこと、その闇のこと、全部。それらを知ったうえで、俺は生きていく。もう、何物にも流されたりはしない……お前の力を借りるぞ。アスキン」
「イエス・マイ・ロード」
ようやく鉄面皮が、口元に満足そうな笑みらしきものを閃かせた。
「まずは、足元だな。過去十年ほどのクリストファー家の動向を聞かせろ」
「かしこまりました」
*
実家に戻ると、本妻が青褪めた顔でレンを待っていた。レンは大上段に宣言した。
「家督と爵位は俺が引き継ぐ。戻るための条件も、すでにアスキンに伝えてある。今後は、すべて俺の言うことに従ってもらう。そうすれば悪いようにはしない」
悪いようにはしない、と言われて、本妻が明らかに安堵したのがわかった。
「すべて、仰せのままに。レナード・イライアス・チャールズ・クリストファー様」
本妻以下、使用人すべてがレンに膝をついた。新たなクリストファー家当主の誕生だった。
***
レンはまず、乱れていた屋敷の中の綱紀粛正に乗り出した。アスキンの助けを借りつつ、使用人への教育を行き渡らせ、手癖の悪い者は解雇し、人手が必要なところには新たな使用人を雇った。
その雇用に関しても、執事のアスキンに任せっぱなしというわけではなく、隣室で人柄や言動をチェックするなど、徹底して厳選した。
「家内はこれでいいだろう。国王陛下への謁見準備は進んでいるか?」
「はい。特別叙勲式の日程も決まりましたし、衣装も仕上がって参りました。後はレナード様次第でございます」
「そうか」
そして、特別叙勲式の日。歳若い国王を前に、レンは進み出ると跪いた。
「レナード・E・C・クリストファー。そなたを新たなクリストファー家の当主と認め、以って伯爵位を継承することを、ここに承認する。以後も変わらず、国と民の安寧の為に尽くすように」
「はい。謹んで承ります」
貴族的で、洗練された、優雅な物腰。その場にいた誰もが目を瞠った。クリストファー家の御曹司がこれほどに秀でていると、いったい誰が思うだろうか。これほどの逸材が今まで隠れていたとは。
──だが、その栄光のどこにも、サラの姿はなかった
無事に特別叙勲式も終わり、謁見室の外に出るとアスキンがレンを待っていた。
「お見事でございました。おそらく、これから多くの貴族たちが先を争って、レナード様と誼を通じようとするでしょう。忙しくなって参りますね」
「だろうな。ったく、面倒な……」
小声ではあったが、レンの言葉遣いにアスキンがやんわりと苦言を呈した。
「レナード様。ここはまだ王宮でございます。周囲の耳目がありますので……」
「わかっている。帰るぞ、アスキン」
「イエス・マイ・ロード」
帰りの馬車の中で、レンはポツリと呟いた。
「ようやく、これから外交か。アスキン、例の話だが」
「はい。サラ様の安否でございますね。結論から申し上げますと、ご健在でいらっしゃいます。ただ……」
珍しくアスキンが言い淀んだ。レンは片方の眉を跳ねあげた。
「ただ?」
「何故かはわかりませんが、どうやらブルービアード男爵はサラ様を養女として扱っておられるようなのです」
「養女だと?」
それはおかしな話だ。大金を積んで買った娘をわざわざ養女にするとは。左手薬指の指輪に視線を落とす。
「彼女の、薬指に……」
「侍女の話では、肌身離さずはめていらっしゃるようでございます。侍女が一度、その指輪について尋ねたことがあるそうですが、サラ様は、『これは墓まで持って行きたい物』だと仰られたとか」
「……そうか」
声が、わずかに震えた。
アスキンはそのときのレンの表情を見てしまった。安堵と喜びの滲んだような、穏やかな笑み。だが、それも一瞬のことだった。すぐに顔つきを引き締めると、レンは今後の指示を出した。
「どうやら、丁重に扱われてはいるようだな。ならば、しばらく様子を見る。変化があれば、すぐに知らせろ」
「かしこまりました」
「そういえば、リースはどうした。やたらと静かだな」
ようやくそこに思い至ったのか、とアスキンは小さなため息をついた。
「リース様なら、半年前にベインズ男爵家に嫁がれましたよ。もういい加減、行き遅れでしたし、ご両親もさぞやご安心なさったことでしょう」
アスキンの口ぶりには珍しく棘がある。どうやら、この執事もリースにはいろいろと思うところがあるようだ。
「お前がそんな風に言うのは珍しいな」
「えぇ。レナード様の自称婚約者という威光を笠に着て、好き放題にしておいででしたからね。私もひと安心いたしました」
「そうか。迷惑をかけたな」
レンの静かな声に、アスキンは声のトーンをわずかに落とした。
「一番の被害者はレナード様ご自身とサラ様ですよ。よくもまぁ、あのような惨い仕打ちを平気で……」
「今更言っても仕方がない。放っておけ……だが、動向を把握しておくに越したことはない、か。こちらも異変があれば報告しろ」
「かしこまりました」
ややあって、レンは思い出したかのように口を開いた。
「ベインズ男爵か。良い噂は聞かんな」
「そうでございますね。それに対して、ブルービアード男爵は、表向きは紳士な篤志家で通っておられます。裏の顔はどうでも」
「そうだな」
人体収集家であるわりに、表の顔は呆れるほど普通だったことに驚いた記憶がある。
「ひょっとして、逆でなかっただけマシだったのか?」
「……そうとも申せませんが」
馬車の外から遠雷の音が響いてくる。
「ひと雨来るな」
「御者を少し急がせましょう」
「あぁ、そうしてくれ」
レンは家路を急いだ。屋敷に戻ったレンは、書斎に灯りを入れると、執務机の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
重厚な木の机。父が長年使っていた椅子。壁一面に並ぶ帳簿と記録。すべてが、これから自分の責任になる。
だが、胸の奥にあるのは、権力を手にした実感でも、勝利の高揚でもなかった。
「……サラ」
名を呼ぶだけで、喉がひりつく。彼女がいない世界で、どれほど肩書きを積み重ねても、どこかが欠けたままだ。
左手の薬指の指輪に、彼はそっと触れた。そこにある重みを、確かに感じる。
──連理の枝
離れても、絡み合い、同じ方向へ伸びていくもの。
「俺は、まだ、なにも果たしていない」
伯爵位も、権力も、財も、すべては手段だ。目的はただひとつ。
彼女を、今度こそ『選ばせる』ための世界を整えること。
レンは椅子に腰をおろし、白紙の書類を一枚引き寄せた。
そこに走らせた文字は、契約でも命令でもない。
──ブルービアード男爵領に関する調査計画
表向きは慈善家。篤志家。名門貴族。だが、サラを『所有物』と呼んだ事実は、決して消えない。
「時間はかかるだろうな……」
それでも構わない。待つことは、止まることではないと、彼はすでに知っている。
窓の外で、雨が降り始めていた。遠雷が、低く空を鳴らす。
レンはペンを置き、静かに目を閉じた。
「……必ず迎えに行く。今度は、手を離さない」
その誓いは、誰に聞かせるでもなく、それでも、確かに世界に刻まれた。
2026/01/06
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