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雨の中の逃亡者

指輪は、約束だった。たとえ離れても、想いが途切れなかった証として。

──その日は雨が降っていた


 この国では、雨に打たれて倒れることが、そのまま死を意味することなどありふれていた。


 小雨でもなく、土砂降りでもない。シトシトと降り続く雨の田舎道を、少女は傘も差さずにひた走っていた。


 身にまとうのは薄汚れた白のワンピース。履いている靴はずいぶんとボロボロで、雨を吸って重かったが履かないよりもマシ、といった状態だ。


 しとどに濡れそぼった長い黒髪は顔に貼りついて、少女の視界の邪魔をする。それでも、その群青色の瞳だけは輝きを失ってはいなかった。


 聞こえてくるのは、地面を打つ雨の音。それから、ゼイ、ゼイと嫌な音を立てる、自分の呼吸だけ。


(苦しい……)


 喘ぐように息を吸うと、大量の湿った空気が肺に流れ込み、雨独特のなんともいえない匂いが鼻についた。


 目の前で、道が二つに分かれていた。立ち止まる、という選択肢はない。迷いは一瞬。少女は左へ身体を投げ出した。


(捕まったら、きっと──生きてはいられない……)


 逃げ切れなければ、また『値』をつけられる。

それだけは、どうしても嫌だった。


 ただひたすらに走り続ける。やがて前方に小さな町が見えてきた。ここならば、どこか身を隠して休める場所があるかもしれない。


 少女は教会を目指して町を走った。小さな町だ。探せばすぐに見つかるだろう。教会に行けば、たとえわずかでも食料と一夜の寝床を提供してもらえるかもしれない。


 教会に行けば必ず助かるわけではない。それでも、誰かがいる可能性が一番高い場所だった。


(お願い……)


 少女は一縷の望みをかけて教会を目指す。そして、建物の角を曲がった、そのときだった。


「うわっ!」


 突如として、少女のものではない叫びがあがった。うっかり誰かにぶつかりそうになったのだ。それは仕立ての良さそうなスーツに帽子を被り、傘を差した男性だった。


「っ……ごめんなさっ……」


 慌てて男性を避けて、少女はまた走り出そうとした。


 その瞬間、少女の足がもつれた。


──転ぶ!


 そう気づいても少女に為す術はない。


 ゆっくりと傾いていく少女の身体。まるで時間がほどけたかのように、やけに遅く感じられた。


 思わずギュッと目を瞑る。だが、予想した衝撃はいつまで経ってもこなかった。代わりに感じるのは温かな、なにかと、薬草の香り。


(……?)


 おそるおそる目を開けると、まず視界に入ったのは自分の身体を支える腕だった。その腕伝いに見上げると、先ほどぶつかりそうになった男性が、傘を持っていないほうの手で少女の身体を支えていた。


 それはまだ若い青年だった。ハシバミ色の瞳を驚きに見開いて、端正な顔立ちをしている。

 彼は、少女を見た瞬間、ほんの一瞬だけ言葉を失ったようだった。


(綺麗な顔……)


 少女は状況も忘れて思わず見入ってしまう。


「大丈夫か?」


 想像以上に優しい声だった。青年の問いかけに、少女は我に返った。呼吸は荒いままで、両脚はガクガクと震えている。


 もう走れそうにない。そう実感した瞬間、これまでの疲労がどっと押し寄せてきた。視界が回り、周囲が霞んでいく。


 無意識のうちに口走った。


「助けて──……」


 少女は、そのまま青年の腕の中で意識を失ったのだった。

2025/12/22

公開しました。

2025/12/27

加筆・修正しました。

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