2話 引き籠りからの脱却と成功
ラニア・レイドは御年十八歳。
性格的には行動的とは言い難い方だし、趣味もさして多くない。しかし、やりたい事は幾らでもあった。
例えば読書。彼女は物語が好きである。物語はいい。家に居ながらにして世界中を冒険した気分になれるし、あるいは様々な人生を味わう事が出来るのだ。
幼い頃からコツコツと集めてきた蔵書が実家の自室で埃を被っている。まだ全部読み切れていないし、読み終えたものでももう一度読み返したいものもある。自由を得た今、一日中時間を気にせず本の虫になっていたいところだった。
あるいは執筆。読書好きが高じて自分も物語を作ってみたいという衝動は、幼い頃に芽生えて以来、高まりっぱなしである。とはいえ書き出しては捨て、捨てては書き出すという事を延々繰り返すのみで、未だ一本の小説とて書き上げた事はない。しかし自由を得た今、思う存分執筆業に専念し、頭の中で思い描いた物語を形にしてみたかった。
他にもいろいろやりたい事はある。
コンラートとの婚約が破談となり、せっかく嫁いだバルテール家から出戻ってきたラニアは、家の人々が彼女を憐れみ、同情して、腫れ物に触るように扱っていくれるのを良い事に、一人自室に閉じ籠って、やりたい事に明け暮れる日々を過ごしていた。
時間は幾らでもあるが、
しかし全く足りなかった。
この頃、ラニア・レイドはまさに幸せの盛りにあった。
幸せと言うには、いささか空虚に過ぎたかもしれないが……。
◆◇◆◇
「――お前もいい加減に働け」
見かねて、そんな事を言いだしたのは兄のスヴェンであった。
「いつまで引き籠っているつもりだ」
兄の指弾は続く。
ラニアは丸くなって、ひたすら耐えるしかなかった。
「働かざる者、食うべからず。それが我が家の家訓なんだぞ! お前が遊んでいられるのは父上が汗水たらして資産を築いてくれたからだ。だがそれは家族を養う為であって、遊び暮らしているだけの無駄飯喰らいを養う為じゃないんだ!」
尤もな話である。
ラニアにしてもぐうの音も出なかった。
ラニアはこのところずっと遊んで暮らしている。おかげで絶世の美貌と謳われた見た目も、その面影を幾らかは残しつつも惨憺たる有様になってしまった。
「それにお前はそれでいいのか。お前がずっと引き籠って廃人と化している間に、お前を振ったあの伯爵様はお前の侍女だった女と幸せな日々を謳歌しているんだぞ。見返してやりたいとは思わないのか。このままだと、あの伯爵様は己の決断が正しかったと快哉を挙げる事だろうよ」
「……」
それはスヴェンなりの、妹に対する励ましであったのかもしれない。あるいは、兄も近く結婚を控える身で、こんな妹がいるなどと相手方に言えないだけであったかもしれないが。
いずれにせよラニアとしてもいい加減こんな生活は終えなければいけないと思っていたが、改めて兄に発破をかけられた事でいよいよ重い腰を上げてみる事にした。兄の言う通り、このままコンラートとレイナだけが幸せを謳歌して、捨てられた自分がどん底に堕ちていくのは面白くない。コンラートに捨てられた事自体は別に特に何とも思っていないが、しかし自分を捨てた決断を正しかったと思われる事だけは絶対に嫌であった。
その翌日、ラニアは心機一転外行の衣服を身に纏って自室を飛び出した。
そして彼女は、父に対して自分に出来る仕事はないかと願い出たのである。
だが父は、
「ならば店の仕事を手伝え。だが、下働きから始めるのだ」
と言った。
「店の?」
店の仕事を手伝う事自体は別に嫌ではない。
しかし下働きからというのがいささか気になった。下働きというのは、裏方の力仕事の事である。女である自分は、どちらかというと接客などの方が向いているのではないかと思ったのだが、アロイスは彼女の自堕落に任せた身体をチラリと見やってから、
「それはもう少し身体が引き締まってからだ」
と言うに留めた。まさしくぐうの音も出ないところだった。確かにこの見た目で接客はなかなか難しい。だが力仕事をこなし、身体が引き締まれば、往時の美貌もある程度は取り戻せるだろう。恐らく父はそれを見越して、力仕事からこなせと言ったに違いなかった。
こうしてラニアは、父が経営する店の一つで、下働きからやり直す事になった。
朝早く店に出向いて掃除、草むしりに勤しみ、商品を棚に並べ、あるいは問屋から仕入れた商品を店まで運ぶ。女の身で行うにはいささか厳しすぎる日常を嫌々でも一ヶ月近く送ってみると、身体はすっかり引き締まって、往時の美貌をある程度以上に取り戻すに至った。
ラニアの真面目な働きぶりは間もなく認められ、また僅か一ヶ月程度で見違えるような身体に変貌した彼女を見た父は、
「お前はなかなか気骨があるな」
と、高く評価し出し、彼女を政略結婚の道具として用いようとする今までの方針を改め、レイド家の後継者として育てる事を決意したのだった。折も折、本来後継者にするつもりであった嫡男スヴェンが貴族家に婿入りしてしまってレイド家を相続する見込みが失われてしまった事も大きかった。
後継者とされたラニアは、帝王学を修める為として、レイド家が経営する商店や工場、牧場、農場、鉱山などを転々とした。無論、もはや下働きをやる為ではない。各事業の経営に関与し、その実態を把握させ、近い将来グループ全体を円滑に運営する知識と経験を積ませる為だった。ラニアは各事業の幹部と交流を持ち、また自ら率先して作業者や従業員と関わる事で見識を深めていったので、グループ内における彼女の存在は日を追うごとに大きくなっていった。
レイド家当主にしてレイド財閥の総帥たるアロイスは、今や世継ぎとして順調に成長しつつあるラニアに結婚を強要しようとはしなかったが、とはいえ、結婚自体はしてほしいとも思っており、帝王学教示の傍ら幾つかの見合い案件を持ち込んだ。しかしラニアは形だけは付き合いつつも、たいていは袖にするばかりであった。たいてい以外の例外の場合も、しばらく交際してから深い仲に至る前に破局に至っていた。
「どいつもこいつも、我が家の資産目当てなのが見え透いていて嫌なのよね」
どうして拒み続けるのかと、兄のスヴェンに問われた時、彼女はあっけらかんと答えたものである。
ちなみにこの頃の彼女は、生まれ持った素質に加え、規則正しい生活と、見た目にも意識的に気を配ってきたおかげで、少女的可憐さの上に大人的妖艶さを加えたような空前絶後の美貌を誇るに至っている。よってアロイスが見合い話を持ち込むまでもなく、彼女に求婚する男は後を絶たないが、どれほど名門貴族の貴公子であっても、ラニアは一切興味も関心も示さなかった。アロイスにしても、バルテール家に一方的に婚約破棄された事がトラウマとして残っていたので、むしろ名門貴族からの申し出であればあるほど警戒し、ありとあらゆる求婚の申し出に対して無視を決め込むラニアの方針に口を差し挟む事はなかった。
いずれにしてもアロイスとしては、ラニアが認めた男ならば貴族だろうと平民だろうと誰でもいいが、とにかく結婚してもらって、三代目を相続する子供を儲けてほしいと思っていた。
だが、そのラニアは、
花より団子、
恋より仕事、
と言わんばかりに、男とは無縁の日々を過ごしている。
父から跡継ぎの事を仄めかされても、
「いざって時は兄上の子供を養子に迎えるわよ」
などと平然と言い放って、意にも介さなかった。
そんな彼女だが、一方的な婚約破棄から一年ほどが過ぎた頃、再び状況は変じ始める。彼女の下に一人の男がやってきたのだ――。