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1話 捨てられた女

「――ラニアよ。すまないが、婚約を破棄させてほしい」


 婚約が正式に成立し、輿入れまで済ませた日の夜、その婚約者たる男はいかにも取り繕ったような苦い顔をして、そんな事を言った。

 彼が発した言葉の一言一句が響くたび、それは彼女だけでなく空気の上にも重く圧し掛かって、部屋全体をひどく憂鬱に彩っていった。


「そう」


 しかしラニア・レイドは、怒るでも悲しむでも嘆くでもなく、我ながら驚くほどに平静だった。彼女の心の中を満たしていたのは「そうだろうな」という諦めにも似た達観だけであった。

 元々自然的に結びついた相思相愛な関係ではなく、政治的な事情に基づいてくっつけられた人工的・・・なカップルである。互いに思い入れも少なく、ゆえに破談を申し渡されてもそれほど気にならなかったのかもしれない。むしろ、これで自由だと心躍る気分もなかったわけではない。とはいえ、一方的に婚約破棄を通達されれば色恋とは別の意味で――面子的に――少なからずショックだし、当然ながら理由も気になった。


「理由を……、理由を聞かせてくれるかしら? 私に何か落ち度があった?」


 だから彼女は問うてみたのだが、


「君に落ち度はない」


 その男は声を絞るように言った。


「じゃあ……」

「好きな人が出来たんだ」


 彼ことコンラート・フォン・バルテールは淡々と言った。


「好きな人?」

「ああ、お前と違って、運命の人だと思える人さ」

「……そ、そう」


 ――運命の人。

 無邪気で夢見がちな子供の如く臆面もなくそう言い放つコンラートに、ラニアは失笑する他なかった。確かにその観点で言うならば自分はコンラートの“運命の人”ではないだろう。何しろラニア自身もコンラートの事を“運命の人”だなんてロマンチックな存在だとは欠片ほども思ってはいないのだから。

 二人の関係はあくまで義務。

 だが義務だからこそこの関係は自分達の個人的価値観や個人的考えを飛び越えて重要な意味を持っているわけで。


「でもいいの?」


 あえてそう問うたのは、彼女なりの意趣返しのつもりだった。


「何がだ?」

「何がって」


 この脳内お花畑なお気楽な貴公子様には、是非とも現実というものを突き付けてやりたいところだった。コンラートの実家たるバルテール伯爵家は確かにこの国――ルディア王国――を代表する名門貴族の一つだが、歴代当主の度重なる放蕩放漫が祟って財政難は深刻で、更に領地から上がってくる収入も減少の一途で家計は常に火の車という。

 そんな中、持ち上がったのがレイド家との縁談である。平民上がりながら商売で財を成したレイド家と結びつく事は、バルテール家にとって決して悪い話ではない。一方、財力はあっても名誉や権威を欠くレイド家にとっても、バルテール家の縁戚に連なる事の意味は軽くない。幾ら富強ぶりを誇示したところで権威や名誉は決して得られないが、バルテール家の縁戚となればその余光に預かる事が出来るのである。より具体的にはバルテール家の姻戚であれば、王国政府の要職に席を得る事も夢ではないのだ。いわば、持ちつ持たれつの理想的縁談であったのに、それをこの“見た目は大人、中身は子供”的な幼稚な男は“運命の人”に出会ったという理由で一方的に破談にしてしまうとは……。

 この縁談は確かに持ちつ持たれつだが、破談となったところでレイド家はさして困らない。権威や名誉がなくとも死にはしないからである。だが、バルテール家は違う。富が無ければ権威や名誉にも傷がつくし、第一、カネが無ければ食ってもいけない。その意味でこの縁談はバルテール家にとってより死活的な意味があったのだが、コンラートはその事を分かっているのだろうか。ラニアがしきりに「でもいいの?」と確認するように問うたのはそれゆえの事だったが、能天気に「何がだ?」と問い返してくる彼を見て、彼女は呆れたように溜息を吐くしかなかった。


「で、どうなんだ。婚約破棄に応じてくれるのか?」


 せっかちを絵に描いたように、コンラートは言う。

 正式な婚約をなかった事にするには、男女双方の合意が不可欠である。もしラニアに拒まれたら……と思うと、コンラートとしては居ても立っても居られない気分だったのだろう。早く合意が欲しいという焦りが余りにも見え透いていた。


「必要ならば慰謝料も払う」


 慰謝料……。

 口で言うのは簡単だが、そんなものを支払う経済的余裕がバルテール家にあるのだろうか。

 あえて求めてみるのも一興だろう。ない袖をどうやって振るのか、見ものではあった。


「慰謝料など必要ありません」


 まあ、ラニアもそこまで悪魔ではない。

 そんな彼女の内心を知ってか知らずか、コンラートは安堵のため息を漏らした。


「貴方が婚約破棄をお望みであると言うならば、私も否とは申しません。ただ」

「ただ?」


 コンラートは身構える。

 どんな無理難題を吹っかけられるかと警戒しているのだ。

 そんな彼の素直さに、ラニアは失笑を深めた。


「別に大した事じゃないですけど、二つばかりお願いがあるのです」

「二つ?」


 コンラートの警戒色がいっそう濃くなっていく。


「一つは、貴方の心を射止めたという“運命の人”とはどういう人なのでしょうか。後学の為、少し知っておきたいのです。今一つは、この縁談破棄はあくまで貴方からの……、いえ、バルテール伯爵家側からの申し出であるという事を明白にしていただきたいのです」


 ラニアの言葉に、コンラートの表情が途端にゆるむ。

 そんな事かと言わんばかりに拍子抜けしたような顔だった。


「ああ、“運命の人”というのは、レイナの事だ。レイナ・フォン・フォルト。お前も知っているだろう」

「レイナ? ……ああ、私の」


 レイナ・フォン・フォルトとは自分の侍女の名である。

 一応は貴族だが、家産を失った没落貴族の娘。食うに困ってレイド家に仕官し、コンラートに嫁ぐ事になったラニアに随従してバルテール家にやってきた。

 要するにこの男は自分の侍女に手を出したのだ。そして悪びれもせず“運命の人”と評して平然としている。レイナはレイナで、密かにコンラートと逢瀬を続けながら、それを隠してコンラートの嫁となるべく修行に励んでいた自分の世話役を務めていたのだろうか。だとすると、ラニアはもはや怒るとか悲しむより呆れるしかなかった。


「そうですか。まあ、それが貴方の望みであれば、私は何も。ただ、手を出されたからには、レイナの事は幸せにしてやってくださいね」

「無論だ!」


 胸を張るコンラートに、ラニアは失笑を隠すのに必死だった。


「……で、今一つの申し出の事ですが」

「今一つ?」

「此度の婚約破棄の話は、あくまでバルテール伯爵家からの申し出にしてほしいという話です」


 こちらこそが肝心だと言わんばかりにラニアの眼光が変わった。

 だが、コンラートはその変化に気づいた様子もない。

 

「それは無論当然だ。私から申し出た事だ」


 あっけらかんと、彼は言った。


「貴方からのではなく、バルテール家からのです」


 ラニアは念を押す。


「ん? まあ、それでも構わん。我が家からの正式な申し出だ」


 つまらぬことに拘るものだと言いたげに首を傾げながらも、コンラートは淡々と答えた。その程度の事で婚約破棄に応じてもらえるならば安いものだと思っているのである。


「わかりました。ただそれを正式な文書という形で頂ければ、私も婚約破棄届にサインいたします。逆に言えば、文書を頂けないならばサインはいたしません」

「……文書にすればよいのだな」

「ええ。ただ貴方の直筆の署名は入れてくださいね」


 口約束では心もとない。

 文面に残せば、何かあった時に立派な証拠になる。

 だがコンラートはその事に思い至っていないようだった。文面に残せば証拠になるという事はわかっていても、一方的に婚約破棄を申し出たのはコンラート、即ちバルテール家の側であって、ラニアの側、即ちレイド家の側には全く非はないと明確化する事の重大性には少しも思い至っていないのだ。

 だがラニアがそれを懇切丁寧に説明してやる義理はない。

 バカには目先の喜びにうつつを抜かさせてやればよいのである。

 

「わかった。それは今日の内に用意する」


 コンラートは安堵の色を顔いっぱいに浮かべながら胸を張った。


「わかりました。では明日改めてまた会いましょう」

「ああ」


 こうしてコンラート・フォン・バルテールとラニア・レイドはいったん別れた。明日再会し、必要な手続きを済ませたら、もはや二度と会う事はないだろう。

 婚約を交わして僅か二ヶ月。

 輿入れを済ませてまだ半日。

 結婚式はまだ済ませてもいない。

 にもかかわらず破談になった。

 さて、この結末を実家の人々はどう思うだろうか。

 ふと、ラニアはそんな事を考えた。

 バルテール家と結びつく事で更なる出世栄達を目論んだ父のアロイスは怒るだろう。兄は呆れるだろうか。母は……、何とも分からない。

 だが、責められる謂れはない。

 何しろ破棄を通告してきたのはコンラートの方であって、自分からではないのだから。せいぜい、コンラートに捨てられた自分の不器量さ惨めさや、御付の侍女に旦那をまんまと寝取られてしまった事に対してなにがしか言われるかもしれないが、それは甘受する他はない。特に好きでもない男と結婚するという罰ゲームから解放されて自由を取り戻せるのであれば、何を言われても些事に過ぎないのだ……。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 「失笑」が多く出てきますが、おそらく意味を勘違いされているように感じます。
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