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桜の姫  作者: 榎本 慎一
第一章 『零幻島の番人』
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第1節

 朝靄に包まれた海の只中を、一艘の渡り舟が進んでいた。


 陽が昇り始めたばかりの早朝のせいか、周囲はひどく静かだ。波の音と舟の進む音、そして左右に漕がれる魯の軋む音だけが聞こえてくる。


 ギーコ、ギーコ。

 ギーコ、ギーコ。


 奏でられる音に違わず、海を進む舟は全体的に見窄らしい印象だ。船頭を除いても二人しか乗れない小ささ、風化によって変色した舟体は焦灰色。舟を漕ぐ船頭も齢六十を過ぎており、全体的にくたびれた雰囲気を纏っている。


 ギーコ、ギーコ。

 ギーコ、ギーコ。


 砂浜から舟を漕ぎ出してそろそろ一時間が経過しようとしていた。船頭の他に舟に乗っているのは、乗客である十五歳を少し越えたくらいの、一人の少女だけだった。


 船頭は出港してから一言も喋らず、黙々と魯を漕ぎ続けている。船頭はお喋り好きではないが、寡黙という程でもない。普段であれば乗客に世間話の一つや二つでもしているのだが、今日に限っては終始黙り続けていた。

「少女に不審感を抱いている」、「今の時期に舟を出すのが怖い」など理由は色々とあるが、中でも船頭が口を閉ざしている最大の要因は「少女の身分が見るからに高くて恐れ多い」ということにあった。


 少女が身に付けているのは色鮮やかな真紅の着物。色付く前の紅葉や大輪の菊の花など、自然を題材として細部まで作り込まれた柄は職人の技巧の高さを感じさせる。所々に織り込まれた金糸が着物全体の華やかさを下支えしており、庶民では一生手を出すことが出来ない高級品であることが一目で分かる。


 華やかな着物を身に纏う少女自身もまた、高い身分に相応しい秀麗な容姿をしていた。顔は小振りで「可愛らしい」という印象を受けつつも、目鼻立ちは少々吊り気味だ。そのため「守られる姫」というよりは「統治者」に近しい凛とした雰囲気を少女は醸し出していた。可愛らしさと力強さの相反する二つの要素が見事に調和しており、そこが少女独自の魅力となっている。化粧をせずにこれだけの美しさを体現していることを鑑みれば、少女が持つ優れた容姿の程が分かるだろう。


 そして靄越しの柔らかな朝焼けに輝く漆黒の髪。左側に留められた可愛らしい小花の髪飾りが少女の勝ち気な印象にまた色を添えている。


 そんな文句の付けようがない少女の華麗な容姿に、船頭は無意識に見入ってしまう。

 しかし少女をしばらく見続けていて、船頭は「おや?」と小さな違和感を覚えた。肩口の辺りで切られた少女の髪型。そこだけが妙に浮いて見えたのだ。例えるならば、立派な船を持っているにも関わらず漁に使う釣竿は何故か安竿。そんな治まりの悪さを船頭は感じた。


 船頭が以前村に訪れた行商人から聞いた話によれば、高貴な身分の女性は皆髪を伸ばすのが嗜みとされているのだという。けれど少女の髪はその話に反して短く切られている。今回の舟渡しの件といい、何か後ろ昏き事情があるのだろうかと船頭は邪推を巡らせるが、途中で考えるのを無理矢理に止めた。


 船頭のように身分の低い人間にとって、身分の高い人間は極力関わり合いになりたくない存在なのだ。自分自身でも気付かない内に面倒事に巻き込まれ、挙げ句の果てに首を刎ねられる、なんてことが起こり得るからだ。ちなみに不興を買って首を刎ねられることもあるらしい。


 本音を言えば、少女から舟での渡りを依頼された時、船頭はそれを断りたかった。なぜなら船頭の本職はあくまで漁師で、舟渡しはあくまで休漁期の小遣い稼ぎに過ぎない。加えて少女が指定した目的地は地元民であれば誰も近づこうとしない不気味な場所で、しかも今舟を出すのは命の危険が伴う。


 けれど依頼を断ったら不敬罪で首を刎ねられるかもしれないという恐怖、そしてここ最近は漁に出られず収入源を失っていたところに少女から一年分の稼ぎと同額の舟賃が提示されたという現実的な事情が重なり、船頭は渋々ながらも依頼を引き受けたのだった。命と金が乗せられた心の天秤は、容易く金の方へと傾いた。


 そんな回想に浸りながら、船頭は少女を乗せた舟を黙々と漕ぎ続け、時間だけが淡々と過ぎていった。

 少女もそれ程他人と会話をする性格ではないのか、一言も喋らず静かに目を瞑り続けていた。

 ギーコ、ギーコと、魯と舟が軋む音だけが海上に響き続ける。


 そのまま六時間程が経ち、出港時は顔を見せていなかった太陽が中天に差しかかった頃、目的地である島がようやく見えてきた。船頭は内心で何事も起きなくて良かったと安堵しながら、目の前の少女に声をかけた。


「お嬢さん、もうすぐ着きますよ」


 船頭がそう言うと、少女はゆっくりと瞼を開いた。

 そして目の前に姿を現した島をジッと見つめて、少女は一言発した。


「あれが、最果ての島ですか?」

「そうです。あれがお嬢さんの行きたいと言っていた場所、『零幻島』です。まあ、ここらに住む人間は、誰も近づこうとはしない不気味な場所ですがね」


 そう言うと、少女は怪訝な表情を浮かべながら船頭の方を振り向いた。船頭は何か無礼なことを言ってしまったかと内心で冷や汗を掻いた。


「不気味な場所、とはどういうことですか?」


 少女の言葉を聞き、自分の発した内容に疑問を抱いただけだと分かり、船頭は胸を撫でおろしながら少女の問いに答えた。


「はい、あの島には恐ろしい逸話があるんです。零幻島は別名『死の島』とも呼ばれてまして。私が子供の頃にじい様から聞いた話ですが、何でも島に立ち入った者は、島そのものに命を食われるそうなんです」

「命を食われる? 私はそういった話は聞きませんでしたが、お伽噺の類いか何かでしょうか?」

「恐らくは。子供を躾けるための作り話だとは私も思います。けれど真偽は分かりませんし、子供の時分にそんな話を聞かされた以上、わざわざ自分から島に近付こうとする物好きな人間など、ここには誰もおりません」


 仮に話が本当だったとしても、金に目が眩んだしがない老人がひとり犠牲になるだけです、と船頭は話を締め括った。


 ふと船頭が視線を向けると、少女は何かを考えるように自身の掌を見つめていた。


「どうかしましたか、お嬢さん?」

「いえ、なんでもありません。……ああ、舟はここまでで大丈夫です。もう足が付きますから」


 そう言うと少女は着物姿のままで海に飛び込んだ。いつの間にか、舟は水深が少女の胸辺りになるまでに島へと近付いていた。船頭は急に海に飛び込んだ少女に対して「ああ……折角の高い着物が勿体無い」と反射的に思ったが、たった片道六時間の舟渡しで一年分の稼ぎに相当する金をポンと差し出してきたのだ。少女の身分であれば、これ程高価な着物でもはした金感覚で買えるのだろう、と船頭はひとり納得した。実際に少女は濡れた着物を気にする様子はないまま、船頭に話しかける。


「ここまでありがとうございました。帰りも十分にお気を付けて。ああ、そうでした。舟の上に置いたその紙包み。はい、それです。向こうの砂浜に辿り着くまで決して失くさないように。それを持っていれば安全に帰れますから。それではお気を付けて」


 少女はそう言うと、島の海岸に向かって海の中を歩いて行った。


 少女の後ろ姿をしばらく見送った後、船頭は少女が置いていった紙包みに目を向けた。何の変哲もない紙包みの中には、一枚のお札が入っていた。札には黒い墨で無数の文字と文様が書き込まれている。文字は船頭が見たことがないもので書かれており、読み取ることは出来ない。


——航海の安全を祈るお守りか何かだろうか。


 こんな物で本当に命の危険が減るのかは正直疑問だったが、少女が身分の低い自分なんかに配ってくれたささやかな心遣いだ。そう思って船頭は札を懐に仕舞い、帰路に就くのだった。


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