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春告の鶴

作者: 川辺凪

それは、ある暖かい春の日であった。那古城から少し離れた小さな山城に、越坂部家の血筋の者やその家臣達が集まって、蹴鞠をしていたことがあった。白地に桃色の線が入った小さな毬。それを落さぬよう、みなで蹴り合う。

 蹴鞠の手ほどきを受けた者は一人たりともない。まともな蹴り合いは全く成立せず、毬はあちこちへ飛んでいって、そのたびに笑い声があがる。普段は寡黙な者も、ここでは頬が緩んでばかりだ。

 庭を走りまわることに疲れ、鶴は縁に座り、盆に載った茶を飲んだ。透明な青空が彼方まで続いている。そこに桜の花片がひらひらと流れていく。空気は心地良く暖かい。

「お鶴はもう毬を蹴らぬのかい」

 鶴の横に、越坂部助郎がどっかとあぐらをかいて座った。

「助郎。私は疲れたのだ。大人達は体力が尽きないのだろうか」

「はは。皆武人としての務めを果たすべく、日頃から鍛えているのだからね」

「何だか、みな遊ぶために生きているみたいだな」

 どうしてそんなことを言ったのか、鶴は覚えていない。幼い頃など、特に何も考えず日々を過ごしていたに違いない。しかし、助郎は意外な事を聞いたかのように目を白黒させ、小考して口を開いた。

「そうだ。そうだな。我等はこの為に戦っているのだ」

「それは、どういうことだ?」

「血で血を洗う戦いが日常でいいわけはない。こんな安寧の為にこそ、戦っているのだ。それを忘れて欲望のままに戦いを挑み、命を散らすことこそ愚かだろう」

 うんうんと頷きながら、助郎は続けた。

「お鶴。今はこの言葉を理解するにはまだ早いだろう。だが、いつかきっと解る日が来る」

 何を返事してよいかわからず、鶴は黙って、自分に熱心に剣の稽古をつけてくれる助郎の顔を見つめていた。

 今なら、私は何と返事するのだろう。鶴は時々考え込む。

 その時の自分は幼すぎた。では、今の私ならば――


 馬体が大きく揺れ、鶴ははっと目を開いた。今にも振り出しそうな鉛色の雲がどこまでも続く荒野を、鶴の乗る馬は真っ直ぐに進んでいた。

「居眠りでもしていたか」

「いや……そうではない」

 鶴の声は低く、押し殺したような声だ。憂鬱な気分が、視界から押し寄せてくる。

 そこは地獄だった。

 見渡す限りの平野。しかし地面はどこまでも折り重なる兵士達の屍で全く見えなかった。血の臭いと腐臭が風に漂っていて、あちこちで白煙や黒煙が上がっていた。露天で火葬しているのではない。火矢の火が埋火として残っていて、それが燃え始めているのだ。獲物を見つけに来たのだろう、野犬の姿さえあちこちに見えた。

「ひどいな」思わず呟く。前に跨がり、馬体を操作する越坂部助郎は何も言わなかった。大規模な合戦は初めてでは無かったが、これほどまでに犠牲の多い戦は経験がない。

 二人はそれから一言も発する事なく、乗る馬は野営されている、越坂部陣営の本陣へと入った。ひどい戦であった。丸一日続いた消耗戦は互いに膨大な兵力を失った。敵陣を攻め落としたものの、杉之内官元を初めとする重臣は全て逃亡しており、恥ずかしいほどの戦果であった。勝利かもしれないが、きわめて敗北に近い勝利であると、鶴は思う。

 松明に挟まれ、椅子に腰掛ける武将越坂部光則は、苦渋の表情で一言も発さない。方々にある空席の椅子は、犠牲の大きさを物語っていた。

 越坂部家の根城である那古城は複数街道の集まる宿場町として栄える城下町を持っており、それだけに幾度となく脅威に曝されてきた。城が落ちた事こそないまでも、自力では到底叶わぬ軍勢や知将に幾度も恐怖を味わされた。

 越坂部光則には、自分から領土を拡げようという意志はあまりない。何故なら、兵力とは容易に代え難い財産であるからだ。無理をして戦力が弱ったと知られれば、杉之内家が黙っていまい。他にも、侵攻を狙う勢力は複数あり、つけ込む好機を窺っている。それだけに、今回の戦はまさに痛恨事であったと言わざるを得まい。杉之内家が三度目の侵攻を行ったのだ。未だ背後事情は仔細に解らないが、最大の弱点であった兵力の虚弱さが完全に補われており、昨年の侵攻から雑兵の数が数倍に膨れあがっていた。

 ここまでの誤算がありながら、城下までに侵攻を止めることができたのは奇跡的だ。

「越坂部家も、もはやこれまでかもしれませぬ」

 陣中でで最も年長の者が弱音を漏らした。それは、場の全員の代弁であるかのようだった。誰も彼も、この重い空気に呑み込まれ、動こうとしない。居ても立ってもいられなくなり、鶴は中腰になり、光則に向きあった。

「差し出でがましいことは承知でございますが、ここで苦悶していましても、冷静な判断ができるとは思えませぬ。策を練るのは、一時撤収した後でも良いのではありませんか」

 返答は暫くなかった。だが、光則は顔をあげた。

「お鶴の申す通りであろうな」 

 当主光則は、蓄えた髭を触りながら、陣中の面々の顔に目を合せていく。

「我等に今出来るのは、帰ることだけであろう」

 意志が決まれば後は早い。一行は那古城に引きあげた。鶴は助郎の姿を探したが、いつの間にか人混みに紛れてしまい、見つける事は叶わなかった。

 城下では、町人達が出迎えるように、道の両脇に並んで行軍を眺めていた。露骨に自分の事を指さし、噂しあう人々を横目で見て、それに目を合わさぬよう鶴は俯いた。武人において、自分のような女人は珍しい。嫡男に才を見込まれ、幾つもの手柄を立ててきたからこそ光則達の寵愛を受けることができているが、そうでなければとうにこの場から排除されているだろう。

 数十人の小隊を一人で始末して帰還した際には、面とむかって死神などと罵倒されたことさえあった。心は傷つく。だが、あまりに傷が多ければ次第に何も感じなくなることも知っていた。

 堀に渡された橋を渡り、二ノ丸の門を抜けて居室に帰ろうと列から抜けたとき、鶴は背後から肩を叩かれた。振り返ると、当主越坂部光則の最初の嫡男、越坂部由康であった。

「お鶴。君はまた、傷一つないのだな」

 鶴のことを幼少期より知っている者は、幼名であるお鶴と呼ぶ。

「偶々でございます」

「君の剣才は奇跡的だからな」

 そう言って、目を細めてみせた。両親のいない鶴にとって、由康は実の父親の一人のようなものだ。

「才などとはとても。まだ精進の身でございます」

 多少の謙遜を混ぜて言い返す。

 自分は強いと思い込み、無謀な勝負に出て散っていた者は両手の指では足らぬほどいる。

「その意気であるぞ」

 由康は口角をにっとあげた。

「今夜、光則様が天守で酒を酌み交わしたいと言っておる。お鶴もどうか」

「私は酒が苦手なのでございます」

「よいよい。酒自体は飲めなくともよいのだ。光則様は今のご気分を、誰かと分かち合いたいのであろう」

「分かりました」

 もとより、断る気もない。鶴が頷いたとき、背後から一人の兵が出て来て、由康の名を呼んだ。

二人は小声で言葉を交わすと、どこかへ行ってしまった。

 しばらくの間それを見つめていた後、鶴は踵を返し、再び歩き始めた。


 天守最上階への階段を上がりきると、既に光則と由康は顔が赤くなっていた。かすかに酒の匂いが漂っている。その場にいたのは二人だけであった。

「おお、鶴。よくぞ参った。座りたまえ」

 光則が嬉しそうに声をあげる。急に身体を動かしたので、猪口から酒が少し零れた。由康も足を崩した格好で空を見ている。

「助郎との間柄はどうかね。恋仲と聞いておるが」

「光則様。それは」

 鶴が言い淀むと、がっはっはと豪快に笑った。

 元々孤児であり、饅頭屋で奉公していた鶴を見出し、剣を教え込んだのが光則の嫡男の一人である越坂部助郎であった。助郎もまた若くして剣の才覚を発揮していたが、他者の命を嫌がる質であった。そんな助郎が鶴を育てたいと言いだして聞かず、那古城内で育てられることになったのだった。

 自分も二十を過ぎた。一般の小娘であれば、恋多き時期なのだろうが。

 鶴がぼんやりと考えていると、

「我が子のようなものですが、近しい者にも打ち明けたくない事もございましょう」

 由康が助け船を出した。酒の注がれた猪口を受けとり、口に含む。

 昼間の曇天が嘘のように、天気は快晴であった。冴え冴えとした月明かりに白く照らされて、天守は蝋燭もいらぬほど明るかった。

 初め、光則は陽気にはしゃいでいるように見え、鶴も寛いだ気分でいた。しかし、鶴はすぐに違和感に勘づいた。由康の顔に陰りがあることを見てとり、自らの不明を恥じた。

 胸に微かな痛みが走る。

 光則様は明るいのではない。酒によって自らを煽ることによって、明るくあろうと努力しているのだ。家の衰亡の危機にあって、穏やかでいられる当主などおるまい。

 気づいてからというもの、酒の味は水のようであった。あるいは、由康は本当に徳利に水を入れていたのかもしれなかった。由康は心配りの出来る男であるから、それもあり得る。

 戦のことに誰も触れぬまま、今宵の酒宴は打ち止めようと由康が言いながら、腰を浮かせた。

「あれは……」

 服の埃を払いながら、由康が遠くのある一点を見つめて動きを止めた。

 鶴もつられて、同じ方向を見つめる――

 その瞬間、二人の全身に殺気が迸った。

 反応はごく僅かに鶴が早かった。酔い潰れかけていた光則の身体を、床に押し倒す。

「なんじゃ!」

 光則が困惑の声をあげると同時に、どん、という鈍い音が響く。

 光則の身体のあった場所の背後には、頑丈な矢が深々と突きたたっていた。

 鶴が顔をあげると、由康は既に刀をとり、天守の柵に片足をかけると、叩きつけるように雨戸を閉めた。すぐに物凄い数の矢が雨戸に殺到した。

「夜襲か!」

「はじめから、本日中に那古城を落す心詰もりであったのかもしれませぬ」

「杉之内家だけではできまい」

 眉を深く顰めながら言う。

「おそらくは、連合軍を組んだのでしょう。兵糧も足軽も枯渇した今が狙い目と踏んだのかと」

 由康は鶴の目をじっと見て、すぐに天守を駆け降りていった。

「光則様」

「わかっておる!」

 吐き捨てるように返して、光則はがばりと起きあがると、床の間に置かれていた花瓶を手にとり、中の水を躊躇いなく浴びた。

 酒宴を開くこの部屋に花を絶やさなかったのはこの為であったのか、と鶴は驚く。

「参るぞ」

 爛々とした目つきで宣言し、光則は天守の階段をひらりと飛び降りた。鶴もそこに続く。

「儂は雲居の間におる。お鶴。前線の者共を鼓舞しろ。武器庫に殺到されぬよう気を配ってくれ」

「はい」

 三階まで降りると、鶴は欄干からひらりと飛び降りて、植え込みの中に着地した。非常時に備え、そこに兜と刀を隠しておいてあったのだ。

 手早く身につけ、すぐに二の丸の方へ駆けだした。

 杉之内家は、前代の当主杉之内官元が高齢となり代替わりを果たしたばかりである。杉之内家にとって越坂部家は最大の宿敵であり、那古城を落すのは悲願だ。

 ……存命中に那古城を落し、冥土の土産とするつもりであったか。

 兜に手をかけたとき、眼前の曲がり角から二人の兵が現れ、唸り声をあげながら鶴に殺到した。発見が遅れ、刀に手をかけるのは間に合いそうにない。

 ならば。

 躊躇無く斬り掛かった一人の兵を身体を捻って躱し、勢いを利用して懐刀で喉頸を掻き切った。身体の回転を利用して二人目の兵の手首に蹴りを入れ、刀を弾き飛ばす。雑兵は気圧されたのか、一瞬怯む様子を見せる。次の瞬間には切り伏せていた。

 目に飛んだ返り血を荒々しく拭い、鶴は動きだす。

 二の丸に向かう前に武器庫へ舵を切った。矢倉は本丸の中にある。天守の背後から正門側へ回ると、本丸の中は既に多くの兵が雪崩れ込み、敵味方の滅茶苦茶な乱戦になっていた。白昼の戦が思い浮かぶ。こう闇雲に戦うのでは人死にが出るばかりで、戦果を挙げるには非常に非効率なのは明白である。

「敵襲敵襲!」

 火の見櫓の上で鐘が激しく打ち鳴らされていた。

 一瞬だけ立ち止まり、頭を巡らせる。

 決断はすぐであった。近くの城壁によじ登り、名乗りをあげる。

「我こそは越坂部家、鶴であるぞ! 越坂部家に仕える者達は下がっていろ。私が相手する!」

 それは名乗りを越えて絶叫のようなものであった。怒号の嵐の中でも、凜とした声は響く。

 気がついた武人達が、一斉に鶴に向かって矢を射かけ、剣を握りしめて走り出した。

 力ある者が一手に引き受ける事。これが最も兵力を損なわない。

 その為に私がいる。何の為に寵愛を受けたのだ。

 殺到する兵士達に真っ直ぐ剣先を差しだしたあと、身を屈めて矢を避けながら、鶴は前方に一回転して地面を踏みしめた。真一文字に剣を振り、構える。次の瞬間には地面と平行に飛び、先頭の兵の剣を持つ手首を叩き切った。飛沫とともに剣ごと手首が飛ぶ。怯んだ間隙を利用して、兵士の身体を盾のようにして、前方に押しだした。背後ですぐに何人もが将棋倒しになっていく。

「相手は一人だ! 追い詰めろ!」

 誰かが叫び、鶴を方位するように残りの兵が動いていく。それを見てとるやいないや、鶴はにやりと笑った。

この状況を待っていた。

闇雲に鶴をめがけて突進してくる群衆に向かい走る。真っ正面から斬り合いに行く――振りをして、雑兵の剣を屈んで避け、そのまま群衆の足元を薙ぎ払った。目標を見失い、足を切られて怯んだ者を片っ端から切り捨てていく。

常に先手が勝つ。兵法の基本だ。

兵の局所集中は悪手であるというのは、越坂部光則が幾度となく口にしていた鉄則だ。ひとたび誰かが倒れれば、それに足を取られて全体の能力が激減する。

多勢に無勢は、時として逆転するのだ。

たった数刻の後。そこには膨大な敵兵の屍山が築かれていた。その中央で、鶴は剣を高く掲げてみせる。

どよめいた武者達が、上気した顔で近づいていく。

 その反面。横目で天守を見やる。既に火矢がかけられ、天守の裏手にある千鳥門まで延焼している。もはや火消しの可能な範疇を越えていることは明白であった。

「私は天守に向かい、光則様を御護りする。越坂部家の力を、皆で示そうぞ!」

 武者達は士気の高まった声をあげた後、大手門の方へ向かって行った。それを背後に、天守へ向かう。

 走りながら、頬の返り血を手で拭い、武器や貴重品を運び出す者達を横目に見る。

 いくら光則様がご無事でも、城が焼けたとあらば敗北のようなものだ。

 那古の城下にこれほどの敵兵が押し寄せるまで、何の頼りもないというのは妙な話である。

 門番の役割を果たす足軽衆が全員殺害されたということであろうか? それも無さそうである。比較的力量の高い者が集まった足軽衆を、頼りを城内まで届ける暇もなく全員仕留められるほどの使い手は滅多にいまい。考えながら顔を思い浮かべる。

 光則の待つ天守四階雲居の間には、二種類の到達方法がある。一つは天守に正面から入り、階段を上がる方法。しかし、そこは多くの兵で混雑し、一刻を争う今は使うべきではないだろう。

 そう考え、鶴は天守の裏に回りこみ、西門近くの草叢を入った。叢の奥に梯子があり、ここを上がることで裏廊下に上がり、雲居の間の背後に近道する事が出来る。

 越坂部家でも限られた者しか知らぬ道だ。

 裏手の方までは、比較的火が回っていなかった。鶴は蜘蛛の如き速さで梯子をあがり、裏廊下に上がる。そこには誰も居なかった。家紋である桔梗が描かれた壁を横に曲がり、急階段を上がると雲居の間である。が――

 どん、と心臓に響くような音がした。

 回避できたのは殆ど奇跡だろうと考える。自分の横には、光則様を狙った物と同じ太い矢が突きたたっていた。

 急階段の上には人影があった。灯明の明かりで身体の輪郭が見える。顔までは暗くて分からないが、弓を持ち、しなやかに立つその人物を、鶴は知っていた。

「烏丸、か」

「越坂部のお鶴とはお前の事か。今夜、相見える気がしていたのだ」

 流浪の者であり、どこの家に属する事も無く、ただどの戦いにも馳せ参じ、武勲を立てては霞の如く消える。数年前より、口々の噂に上った男。

「ここは通さぬ」

 その言葉に応える気は無かった。鶴は視線を切らさず、急階段を一つ登る。

「公平な条件で勝負しよう。――上がってこい」

「命の安いこの場で、迂闊な言葉を呑むとでも?」

 少し近づいたことで、烏丸の表情が見てとれる。眉の濃い美男であるが、胡乱な目をしている。

 烏丸はやれやれといった態度をしてみせたあと背後にとん、と飛び、雲居の間への扉にもたれかかった。すぐに鶴も急階段を登りきる。

「もう一度訊く。ここから入りたいか」

「応答する気などない。邪魔するのであれば刀を抜く。それだけだ」

「仮にこの私を切り伏せたとしても、無駄骨かもしれぬぞ」

「それを決めるのはお前ではない。私だ」

 息を吐いて、烏丸が口を開く。

「命が惜しければ、今すぐ階段を降りろ。これが最後の忠告だ」

 それに対しては何も言わなかった。ただ無言で剣を柄から抜き、構えて烏丸を睨んだ。

「それが答えだね」

 烏丸も剣を抜く。しかし、すぐに動く気配は無かった。

「答え合せをしなくていいのかい。命を散らす前に、訊きたいこともあるだろう」

「大方、予想はついている」

 言ってみたまえ、と烏丸が笑った。

「城下に異変があれば、足軽衆がすぐに伝達する。いくら夜半といえ、那古城に入られるまで誰も気がつかないと言うことはあまり考えられない。よほど腕の立つものが伝達役を全て瞬殺するのでなければ不可能だ」

 唾を飲み込んでから続ける。

「そもそも、白昼の戦から妙であった。敵兵力が多すぎるという事は、今日日滅多に起こらない。隠密役は自らの誇りにかけても正しい情報を集める。それらが騙されたというのではあれば、相当周到な用意が必要であると解る。杉之内家はあまり大きな家ではない。あれほどの兵力を集めるのは、杉之内家単独の手腕では現実的に不可能だ」

「つまり、何が言いたい」

「烏丸。此度の戦、貴様が頭脳であったな。杉之内家の者では、これほどの奸智を容易できまい」

「今はこの私も、杉之内家の一員だ。杉之内徳之助烏丸」

「貴様!」

 二人は同時に一歩を踏みだし、激しく鍔を叩き合った。打ち合いを始めてすぐ、鶴は自らが劣勢になることを悟った。技術で補っているが、自分の華奢な身体は変わらない。全力で斬り合いを続ければ、先に自分の手首が限界を迎えるのは明白。

 それに。高速で刃を交えながら頭を巡らせる。

 烏丸が敢えて階段上に誘った理由に気づく。それは立ち位置だ。背後が急階段であり、前方に気を取られすぎれば落ちてしまうだろう。その点、烏丸の背後は扉である。将棋に喩えれば、相手にだけ塾考が許されて自分はすぐに指さねばならぬのと同じだ。精神的余裕が違いすぎる。

 烏丸は、恐らく互角の条件でも勝てると踏んでいるだろう。実際、勝ちやすい。だが、その上に保険までかけている。些細な事も含めて容易周到であることに、鶴は奥歯を噛んだ。

「貴様、ここに私が来ることを予期していたな」

「当然であろう。然し、予期していたよりずっと早く踏み込まれたが」

 強烈な速度で斬り合いをしながら、なおも二人は喋り続ける。

「光則の控えている雲居の間に裏廊下から来る。それを読んでいたのだな」

「当然の思考であろう。然し、私はまだ画竜点睛を欠いている。その前に来たことで、戦わずして一撃で仕留める気であった」

 烏丸の斬撃速度がぐんと上がった。まずい。鶴は必死で、状況打破の方策を練る。

「越坂部家随一の手練れである貴様と、このような形で決着をつけねばならぬのは誠に残念だ」

 相手の両足に力が篭もるのを、鶴は直感で感じとった。

 受けなければ!

 しかし、それは想定していた速度を上回っていた。

 鶴が上体を背後に躱すのがほんの一刹那だけ遅れ、剣先が鼻先を撫でた。

 荒い息をあげながら、鼻先を触る。ほんの少し切れて血が出ていた。

「鶴。その年、さらに女人であることからして、奇跡的な腕だ。だからこそ、この場で潰しておかねばならぬ」

 絶対の自信を感じさせる表情で、烏丸が身を屈める。

「貴様の推測は全て当っている。足軽衆を闇夜から射殺したのも私だ」

 蛇のような目が、鶴を嬲るように見据える。総毛立つ気持を必死に抑え、鶴は覚悟を決める。

「覚悟!」

 踏みだしたその瞬間、杉之内烏丸は、自分が勝ったと考えた。相手は既に体力的消耗が大きく、反応速度が落ちている。体制も微妙に崩れている。自らの剣は最適な力配分で、鶴と呼ばれる女人の細い頸に向かってまっすぐ振り下ろすことができていた。幾度の死線をくぐった頭脳は、自らの勝利を結論として導き出していた。しかし――

 烏丸は、次の瞬間には鶴の後方に投げ飛ばされていた。

 絶命するその瞬間まで、自らが何をされたのが悟ることは出来なかっただろう。

 急階段の上方に飛ばされた烏丸の心臓を、鶴は一切見ることなく的確に刺し貫いていた。

 烏丸の身体は衝撃で剣先から抜け階段を転げ落ち、暗闇の中で止まった。既に絶命していた。

剣を背後に真っ直ぐ突き出した格好で止まっていた鶴は、しばらく経ってから動き出し、鞘に剣を仕舞った。

「由康から合気を習っていなければ、間違いなく死んでいただろうな」

 鶴は扉に向かって歩を進めようとしたが、すぐにはできなかった。

 極度の緊張から急激に解き放たれ、全身に震えが襲ってきたのだ。合気の瞬間に息をとめていたことで、肺も爆発しそうなほど暴れていた。過呼吸を起こしそうになり、慌てて深呼吸をする。

 気を抜くな。自らに必死に言い聞かせる。

 凡人ならばとっくに昏倒しているであろう憔悴を気力で抑えていた。

 目を閉じ、拳を心臓にあてながら息を整える。鍛錬によって得た意志力で、荒い息はすぐに穏やかなものへ変わっていった。

 ぱちぱちとした焔の音がすぐそばに迫っていることを意識しながら、鶴は眼前の扉を開いた。

 そして、すぐに目を見開いた。

「光則様!」

 雲居の間には折り重なるようにして数人の倒れ伏した身体があった。

 その一番奥。横たわっているのは血の滲む羽織を着た、髭の男。

 顔を見る必要すらない。それは越坂部光則であった。

 鶴はよろよろと動き出し、その前に膝を突く。傷だらけの羽織の中の身体は、すでに冷たくなっていた。

 ということは、既に由康も。

 締付けられるような痛みを感じながら、鶴はそっと指を指しだし、光則の髭に触れる。

 彼女を嘲るように、窓の外では炎が踊っていた。

 燃え盛る炎の音はいよいよ雲居の間に迫り、さほど大きくない部屋中にこだましていたが、鶴の耳には何も届いていなかった。

 業火によって柱が倒れたのであろうか。城全体がずしんと揺れる。その震動が鶴を少しだけ正気に還らせた。

 策士として名の知れた烏丸のことだ。この部屋への襲撃も恐らくは奇襲であっただろう。

 堂々たる武士の生き様であった人物が、これほど呆気なく奇襲に倒れる。戦乱の世ではいつ自らの生に終わりが来ても悔いなく生きるのが習いだ。しかしこれではあんまりではないか――

 鶴が生涯を賭けて守ろうとしたものは、既にその掌から零れ落ちていた。

 遠くで爆発音がしたと同時に、また城全体が大きく揺れる。まもなくここも倒壊するだろう。

 意志が決まると、後は早かった。

 余計なものを全て脱ぎ捨て、髪紐をほどく。烏丸を切った剣を捨て、光則の懐刀を取りだす。躊躇いなく奥の畳の上まで歩き、胡座を掻く。息を一つ吐いて、自らの腹を出した。

 いつの間にか、鶴の両眼からは大粒の涙が流れ落ちていた。

 なぜ。平和な世を願っていた筈だったのに。

 奥歯をぎゅっと噛みしめながら、鶴は懐刀の柄を握りしめた。

 光則様。私もお側に参ります。


 翌日朝。那古城は焼尽し、全てが灰となった。

 中からは数え切れないほどの死体が見つかり、越坂部家は壊滅した。

 

 *


 しばらく後。那古から遠く隔たった広結国の最大の城、佐戸島城の城内。

 松の大木と竹林に覆い隠されるように立つ小さな茶室で、佐戸島城城主、満寺勘兵衛と正面から向きあっているのは越坂部助郎であった。

「この度のご配慮、誠に深く感謝いたしまする」

 そう言って、助郎は深々と頭を下げた。

「よせよせ、儂がそのような堅い態度を好まぬのはそなたも重々承知しておろう」

 朗らかな表情で茶器を持ちながら、勘兵衛は続けた。

「その前に儂の方が沢山世話になっておる。そなたは隠密役から用心棒まで、何でも自在にこなせたからのう。今から考えれば実に勿体ないほどこき使っておった」

 口を閉じると、そっと茶器を置く。

「越坂部家の復興には、そなたの身体がかかっておる。焦りは解るが、骨休めも必要であろう」

「では、頂戴致します」

 助郎はそっと茶器に口をつけた。外ではそよ風が流れ、小鳥のさえずりが穏やかに響く。心地良く、暖かな時間がそこに流れている。

 この瞬間に光則様がいないこと。それが不自然で堪らなかった。

「彼女は、少し戦を休ませた方がよいだろう」

「ええ」

「鍛錬も駄目だ。戦のいの字も持ちだしてはならん。気丈に振る舞ってはいたが、内心が疲弊していないはずがあるまい。このような時期も、長い人生の中では貴重なものになろう」

 助郎は頷く。

 舌の上で茶を深く味わいながら、すっと目を細めた。


 *

 

 二人が茶を嗜んでいるのと同時刻。佐戸島城の一郭、奥方が住まう御殿の一室では、鮮やかな紅葉の袷を着た、凜々しい女性が頭を下げていた。

「本日よりここで世話になります。鶴でございます」

 勘兵衛の正室をはじめ、数人の女性達が顔を見合わせあう。好奇と歓迎の入り混じった視線が向けられ、鶴は緊張を深めた。命の懸かった勝負よりも、不慣れな場の方がつらかったのだ。

「やはり紅葉が一番合いますでしょう?」

 正室がにっこり微笑んで、よく通る声で言った。

「面を上げてください」

 鶴が顔を上げたとき、頭の中で急に記憶が閃いた。あの時――

 取り憑かれたように腹を召そうとしていた鶴は、突然何かに突き飛ばされ、刀を奪われた。

そこに飛び込んできたのは、顔を赤くした越坂部助郎であった。

助郎は顔を強く歪めながら、鶴の頬を張った。 

後で訊くところによると、助郎は深手を負った由康の最期を見届けて、急いで雲居の間へ上がったのだという。それは由康の意志でもあった。

由康の最期の言葉は、越坂部家ではなく、鶴の身を案じる言葉であったという。それほどまでに、由康は越坂部家の今後を鶴に託していたのだ。

荷車に乗せられ、戦乱のどさくさに紛れて那古郊外へと抜けるまで、助郎は一言も発さなかった。それが、鶴には有り難かった。きっと、何を言ったらいいのか解らなかっただろうから。

幾つもの宿場町を経由しながら、二人は少しずつ心身の消耗から脱していった。

佐戸島城に着く頃には、かなり平常心に近くなったと感じる。

助郎がかつて武者修行をしていた縁を頼り、ここで身体を預かってもらえる事になった。暫く、武士としての務めは禁じられることになるが、鶴は全く構わなかった。以前のような闘志は那古城とともに消えて失くなっていたからだ。

「見なさい。桜が満開の、麗しい日ですわ。貴方の幸運を祝うみたい」

 正室は上品な足取りで鶴の脇を通り、開かれた障子の向こうを指さした。城下には桜が整列するように並べられ、その全てが咲き誇っている。春風にのって、青空に花弁が舞っていた。

 鶴は生まれて初めて桜を見たかのような心持ちであった。花をこれほど美しく感じたことなど、かつてあっただろうか。あの時、何かが間違っていたら、この感情を抱くことは叶わなかった。

風に流れた桜の花が、鶴の鼻先にそっと降り立った。

かさぶたのようであった。

 

 


 

 

 

 

 

 

 


時代考証については考えないでください。

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