第5章:乖離(4)
「どうだ? 引っ越したばかりではあるが、中々のものだろう」
そこは【ウェンブリー魔術学院大学】――――ミスト『教授』室。
つい先日まではライコネン教授の部屋だった場所は、既にミストの色に染まっていた。
ミストの愛読する書物、ミストの着る白衣、ミストの眺める絵画、ミストの愛用する珈琲カップ。
椅子の大きさを除けば、以前の助教授室と代わり映えしない風景となっている。
しかし、一つだけ決定的に違うもの。
それは、この部屋の持つ価値だ。
ここにいると言うだけで、助教授の頃とは全く違う感覚をミストは感じているのだろう――――と、アウロスは静かに推測していた。
教授の変遷は、迅速且つ円滑に行われた。
ライコネンによる『不祥事』は直ぐに外部へと広がり、その情報は大学主動の下に『広められた』。
火消しではなく、推進した格好だ。
無論、それには理由がある。
幾ら閉鎖的な世界とは言え、現任の教授による不祥事と言うビッグニュースが外に漏れない訳もない。
つまり、隠蔽は無駄。
それどころか、周囲の心証を著しく悪化させる。
それならば、この件は内部告発により発覚し、既に然るべき処置を迅速に行ってあると言う尻尾を付けてさっさと広めてしまった方が、イメージダウンは遥かに少なくて済む。
更に、新たな教授を早々に選出し、それが初の20代教授ともなれば、負の印象は新鮮な目玉へと移行するだろう。
つまり、ライコネンの失脚と同時に、ミストが直ぐ教授になる事は決まっていたのだ。
無論、その流れを丹念に作り上げたのは他ならぬミストだった。
「教授の椅子の座り心地はどうですか?」
アウロスが気の抜けた声で問うと、ミストの腰の位置が若干沈む。
「悪くはないな。だが、いつまでも腰を落ち着けたいと思う程でもない。想像通りの感触と言っておこうか」
柔らかく、なめらかな高級革で造られた、背もたれも肘掛けも大きい椅子。
一人の男が人生のすべてを賭けて入手するに相応しい、玉座。
それすらも、ミストの到達点ではないらしい。
「それより、どうも覇気がないな。何かあったか」
「女にフラれました」
アウロスの言葉に、ミストの笑みの角度が鋭くなる。
「ほう……実に興味深い話じゃないか。聞こう」
これまでにない、本気の好奇心が顔を覗かせていた。
それに辟易しつつ、アウロスは言葉を落とす。
「ごく最近まで普通に接していたんですが、急に態度が一変してしまって」
「心当たりはないのか? 別の女と密接な関係を築いていたとか」
「……ない事もないですね」
「なら、仕方ない話だ。女性は独占したがる生き物だからな。諦めて他に乗り換える事を薦めよう」
まるで経験しているかのような物言い。
実際、それくらいの修羅場は体験していそうな懐の深さは確かにあると思いつつ、アウロスは次の言葉を探す。
「それが、そうも言ってられなくて」
「何だ? その密接になった女では駄目なのか?」
「正確には女達、でして」
ミストの目が少し大きくなった。
「……私がこれまで認識していたお前の人間像とはかなり掛け離れている事態だな」
「困ってるんです」
「私もその手の話は余り得意ではないからな……」
わざとらしく首を横に振るミストに、アウロスは嘆息を禁じえなかった。
「嘘でしょ。結構好かれてるじゃないですか、色んな人に」
「どうだかな。教授や助教授ともなると、その地位に吸い寄せられる蟲も多い。蜜の多い樹木のようなものだ」
ミストも重ねるように嘆息しつつ、珈琲カップを手に取り、一口含んだ。
そして、冗談はここまで――――と言わんばかりに、瞼の位置を低くする。
「まあその話は置いといて、だ。今日はお前に話す事が二つある」
机に敷いた布に出来た小さな輪に、カップの底が重なる。
伝導する熱はそのまま、部屋全体に薄く広がっていった。
「一つ目は、散々ねだられていた実験時間の延長の件だ」
「どうなりましたか」
身体を乗り出してアウロスが問うと、ミストは口元を隠すように顎の辺りを手で揉んだ。
「流石に、道具や施設を囲い込んで独占するとまではいかないが……利用時間外に使っても良い事になった。ただし、許可は要るがな」
「複合した場合は?」
「当事者同士で話し合えば良い。元々、論文の提出期限が迫っている人間には例外的にそうしていたからな。そう言う切羽詰った状況ではなくても、空いた時間に使わせて貰えるようになったと言うだけだ」
大した事ではない――――と言うニュアンスでミストは告げたが、特に提出期限が設けられてる訳でもないアウロスにとっては、この上なく有り難い事だった。
これで、完成までの時間はかなり短縮出来る。
何より、やりたいのに何も出来ないと言うストレスを抱え込まなくて済む。
研究者にとって、このストレスが消えるのはとてつもなく大きい。
「私が教授になったとは言え、雑務等の仕事処理はこれまでと同じで良い。可能な限り、自分の研究に力を注げ」
「ありがとうございます」
一礼。
そして顔を上げると直ぐに次を見据える。
この辺りは、二人とも似ていた。
「それなら、ついでに一つお願いがあるんですが」
「女の紹介は無理だぞ。お前と釣り合う年齢の女性に知り合いは余り……」
「じゃなくて」
「なら修羅場の仲介か? それも余り得意ではないが」
「得意そうに見えますけど……じゃなくて」
「となると、仲直りの支援か。だが30を前にした男の経験上言っておくが、他者が干渉すると余り良い方向には向かわないぞ」
「……魔具の材料を探したいんで、出張の許可下さい」
疲労感ばかりが漂うやり取りに終止符を打つ。
「初めからそう言え。紛らわしい」
「勝手に勘違いしたのはそっちでしょう……」
「ふむ。で、何処に行く気だ?」
「【トアターナ地方】です。以前飛ばされた」
アウロスがそう告げた刹那――――ミストの顔から笑みが消えた。
「……そうか。そこに行くのか」
その様子は、これまで数ヶ月間その顔を見続けてきたアウロスが明らかに違和感を覚える程に、教授となった人間の貌とはかけ離れている。
「何か問題が?」
「いや。丁度良い、と言うべきか……兎に角、二つ目だ」
ミストにしては珍しい、歯切れの悪い物言い。
アウロスの顔が次第に曇る。
「実は、近い内にそこへ飛んで貰う予定だったんだ。二度手間にならずに済んだ」
「それは良いタイミングでしたね。用件は?」
「……」
沈黙。
感覚は、徐々に揺らぎを生んでいる。
アウロスは、自分の咬筋がきしむ音を聞きながら、眼前の厳つくも無表情なその顔が動くのを待った。
「黒いローブは持っているか?」
「? いや、黒は確か持ってません」
「なら、道中にでも購入しておいてくれ。費用は持つ」
「はあ」
動悸が加速する。
脈が波打つ。
ぼんやりとした返事の奥で、感情は強く揺れていた。
「魔術士の喪服だからな。黒のローブは」
「喪服……?」
珈琲の湯気が宙を舞う。
誘われるように外へ向かった白い気体は、冷たいガラスに遮られ、その表面を雫で濡らした。
「ああ」
あたかも、志半ばで力尽き、むせび泣いているかのように。
「グレスが死んだ」
第5章 " a farewell to ―――― "




