第4章:偉大なる詐術者(22)
――――その日の夜。
肩甲骨の亀裂骨折と診断され、右肩を三角巾で固定されたアウロスは、ベッドの上で静かに天井を眺めていた。
かなり問題を有した検査のように思えたが、後を引く痛みはない。
薬草によって鎮痛された身体は、寧ろ清々しささえ感じていた。
そんな中、頭だけは冴えず、何処か靄のかかった光景を眺めているような感覚で、視線を泳がせる。
或いは――――それは予感だったのかもしれない。
音もなく、気配もなく。
窓のある方向から涼気が入って来て、ベッドを囲むカーテンを撫でた。
夜の帳に包まれる世界に似合う顔は二つある。
深夜の令嬢。
そして、闇夜の魔女。
その双方を内包する女性に、心当たりはあった。
ルイン=リッジウェア。
「こんばんは」
その来訪を、視線を動かす事なくアウロスは歓迎した。
「……」
ルインは声を上げる事なく、アウロスの寝るベッドの傍らにある椅子に腰掛ける。
灯りが付いていないので、その表情を窺い知る事は出来ない。
暫しの沈黙の後、言葉を紡いだのは――――アウロスの方だった。
「死ぬ為に生きる……か。自分だけ生き残ってしまった事がそんなに申し訳ない事か?」
アウロスの問いに答えはない。
ただ静かに空気が揺れるだけだ。
「俺はそのメイドさんがどう言う人物なのかは知らないから、彼女が何を想い、何を願っていたかは予測出来ない。お前を殺さなかった暗殺者にしてもな。だから客観的に一日程考えた上での見解を述べる」
見上げる天井の黒のように、厳かに。
アウロスは言葉を繋いだ。
「暗殺者は、依頼人の絶対的な支配下の中でのみ、その存在を許されている。そう言う性質でなければ淘汰されて然るべき、弱い存在だ。何せ、人間の道理に背いている事をアイデンティティにしてるような連中だからな」
時に、人は人である事を忘れる。
暗殺者とは、そう言う人間の刹那的な業に寄り掛かって、初めてその存在が認められる脆弱な生物だ。
「そんな連中が、依頼人の命令に背く事はまず考えられない。子供だから殺せないなんて暗殺者はまずいないし、そいつが特殊な性癖を持っていたとしたら、お前は今ここにはいない。意図的に見逃されたか、何らかの外的要因によって仕留めそこなったか……」
そこまで言葉にし、アウロスはルインの方に視線を配った。
その目は闇と同化していて、何を映しているのかはわからない。
「当時の記憶は鮮明なのか?」
「……いえ。映像は殆ど残ってない。声は少しだけ」
ルインの声は、少しだけ掠れていた。
昨日と一昨日で喋り過ぎたのかもしれない。
余り喉が強くないようだ。
「例の言葉か」
曰く――――お前を殺すように言われている――――
「いずれにしても、私の浅はかな行動で彼女が殺されたのは事実。私があんな物を持ち出したりしなければ、私が出て行きたいなんて言わなければ、消えなくて済んだ命だった筈よ」
「あんな物、ね。一応俺の貢献も多少なりとも含まれてる代物なんだけどな」
「……」
自嘲には自嘲を。
それが前進への一歩になるとは言えないが、奇妙な連帯意識は生まれる。
「人体実験から母親を遠ざけたかったんだろう? 卑下するような行動でもないだろ」
「短絡思考も甚だしい、無知の極みよ。それがどれだけ危険を伴うかなんて、誰だってわかる事だもの」
「子供にそれを求めてもな……って、何で俺が七年前のお前を擁護してるんだ?」
「私に聞かないでよ」
絡まった糸を解すように、少しずつ、柔らかに。
アウロスは努力していた。
余り行った事のない作業を、不器用に。
「兎に角だ。今のお前は七年前の自分に過度な要求をしてるんだよ。回避するには状況が狂い過ぎていた。俺もその空気に触れていたから、多少は説得力がある筈だ」
「理屈なんて問題ではないの。私の行動で一つの命が失われた、それだけよ」
「俺はそうは思わない」
明瞭な否定の言葉に、闇の波が揺れる。
「そのメイドは自分の意思でお前を連れて行った。ついて行った、じゃないぞ。連れて行った、だ。そこには自分の意図が少なからず存在した筈だ。それまでお前が背負い込むのは図々しいってもんだ」
夜の風が湿った空気を運ぶ中、沈黙が生まれる。
音符のない五線譜がどこまでも伸びて行く――――
「……貴方が」
そこに小さなクレッシェンドが一つ、落ちた。
「貴方が私を庇って怪我をしたのも、貴方の意思なの?」
「庇った?」
「あの状況で私が殆ど無傷で貴方だけが負傷したのは、川に叩き付けられる時に貴方が私を庇って下になっていたから。それくらいは理解出来る。恐らく、空中で体勢を変えて私の身体を抱くようにして下になった……」
スタッカート。
「……セクハラで訴えようかしら」
「勘弁しろ」
「否定しないと言う事は、概ねこの通りだったのね。何故私を庇ったの?」
同じ問いを繰り返し、ルインはアウロスの顔の傍に音もなく歩を進めた。
それは美学であり、習慣でもあるのだろう。
「貴方には目的があるのでしょう? 一つ間違えば死んでいたかもしれないあの状況で、何故私を庇う必要があるの?」
或いは、彼女は人が人を助ける理由を知りたいのかもしれない――――アウロスは闇の衣を外したルインの表情を見て、何となくそう思った。
魔女と揶揄されるその女性の顔が、まるで何も知らない子供のような無垢さを含んでいたからだ。
だから、飾る必要はなかった。
「俺はお前に命を預けた。あの瞬間、俺の命とお前の命は二つで一つになった。だから、その命を護る為に最善の行動を取った」
ただ丁寧に、歩くような速さで。
「厳密に言えば、頭を川底にぶつけない事を念頭に、最も被害が少ない落ち方を選んだ。お前のあの……重力加速度を弱める魔術が何て名前か知らないけど、あれのお陰で落下速度が大分抑えられてたし、肩から落ちれば命の心配はいらないだろうと、まあその程度の事だ。気を失ってる人間を下にしたら首の骨とかヤバそうだしな」
真摯に答える事で、アウロスはそれに答えた。
「以上。質問は?」
「……あの高さから落ちている最中にそこまで考えられる訳ないじゃない」
「俺はどんな時でも考える生物なんだよ」
鎮痛効果が切れたのか、肩が少しずつ痛み出す。
アウロスは心中で苦笑しつつ、それを表に出す事を拒んだ。
「貴方、モテないでしょう?」
突然の攻撃。
尤も、今までのような鋭さとは無縁の、先の丸い言葉だったが。
「な、何だよいきなり」
「理詰めの男は嫌われる。基本よ」
余り常識に詳しいとは言い難い魔女の、意外な知識。
「ウチの上司はそうでもないみたいだが。すっごい怖い顔してるのに」
「私は嫌いだけれど?」
「そうですか」
それを、アウロスは冷や汗混じりに受け流す。
意外な事に――――全く嫌ではなかった。
「まあ、何にせよ、だ。俺の怪我は大して酷くはないし、お前の所為じゃない。だから気にするな」
「別に、気にしてなんか……」
「そして、そのメイドの件にしても、お前の所為じゃない。お前が納得出来ようが出来まいが、子供に大人の命の責任を背負わせる道理なんてない。だから殺されたいとか言うな。そう言うのな……痛い」
「なっ……」
アウロスの言葉に一瞬顔をしかめたルインだったが、それ以上に顔をしかめたアウロスの変化に気が付き、神妙な面持ちで膝を屈めた。
「……痛むの?」
「ちょっとだけな。ま、傷だの病気だのは夜に活性化するもんだ」
思わず浮かんできそうな苦悶の表情を必死で隠す為、半ば強引に寝返りを打つ。
痛みは『ちょっとだけ』の範疇を余裕で越えていた。
ただ、この状況でそれを口にするのは許されない。
「まだ何か話したいなら付き合うぞ?」
「……いえ。もう良い」
ルインは膝を伸ばし、窓の方に視線を移す。
そこから進入して来たらしい。
「私には、生きる目的がないのよ。だから死ぬのが一番良いの」
もう良いと言いつつ、ルインは背中越しにそんな言葉を吐いた。
それは当然何らかの回答を期待していると判断し、アウロスは激痛を頭の片隅に追いやって思考を咀嚼する。
得意分野ではあった。
「なら、そのメイドの墓守でもしろ。その方がずっと建設的だ」
「墓守……」
その役目は、単に墓の管理を行う番人と言う意味合いだけではない。
死者に対し、自身の半生を捧げる。
それが墓守と言うものの意義だ。
「少なくとも、俺ならそうする。死者は何も語れないが、自分が死んだ後に何かして貰えるのは、悪い気分じゃない」
「それが唯の自己満足だとしても?」
「ああ」
ルインの視線が泳ぐ。
アウロスにはそれが見えないが、何となく空気が変わった事は感じた。
「……貴方は、私に生きて欲しいの?」
果たして、その言葉をどんな顔で言ったのか――――そんな疑問と自分の体温の変化に耐えられなくなったアウロスは、上半身を起こして風に触れる。
普段は感じる事のない、数多の感覚。
それは夥しい数で、皮膚の内側を刺激して来た。
「あのな。今までお前は何を聞いてたんだ? 怪我人が夜中にここまで必死こいて引き止めてんだから、ちゃんと察しろバカ」
「ご、御免なさい」
謝罪。
あり得ない事だった。
しかし、同時にしっくり来るのだから、妙な話だ。
その顔は、かつて鉄格子の隙間から見たのと同じものだった。
(調子狂うな、ったく……)
昨日から徐々にその兆候は見えていたが、眼前の女性にこれまで見せてきた魔女然とした不敵な姿は影も形もない。
幾度となく年上のような接し方をして来た女性が、今は少女の頃と余り区別が付かない。
「つーか、お前って実は俺と殆ど同じくらいの歳だよな? てっきり結構上だと思ってた」
回想の中の少女を指差すかのような物言いで問い質す。
当時のルインはアウロスより身長は低く、顔立ちもアウロスより幼い。
穿った見方をしなければ、普通に同じくらいの年齢の少年少女だ。
「……それは私が老けていると言う事?」
「まあミスト程じゃないけど、肯定と言う事で」
「……」
無言のカカト落としがアウロスの脛を直撃した。
「痛っ! な、何すんだよ!」
「バカ」
余り似合わない直接的な非難の言葉を最後に、ルインは姿を消した。
次第に落ち着きを取り戻して行く身体を再び寝かせ、闇の天井に瞼を被せる。
意味がないようで、この違いは大きい。
(……さて、明日からはまた色々と忙しくなるな)
そう心中で呟きつつ、今後の行動について綿密な整理を始めた。




