後日譚:忘却の綴り(26)
過激な発言の真意を考える間も与えられず、アウロスは早々に対応を迫られることになる。
ミストの姿が――――ない。
瞬きをした刹那、先程まであった彼の姿はアウロスの視界から忽然と消え失せてしまった。
今までのミストが、アウロスの作り出していた幻である筈もない。ならば当然、何らかの魔術を用いたと解釈する他ない。
ルーンを綴ったような所作は一切見せていなかった。だがそれは魔術を使っていない理由にはならない。敵の死角でルーリングをこっそり行うなど、臨戦魔術士にとっては珍しくもない戦術なのだから。
ミストは両手を隠してはいなかった。だが何らかの方法でアウロスに気付かれないようルーンを綴り、魔術を使った。そして魔術の効力によって姿を消した。状況を整理すればそういうことになる。
魔術霊園の本当の在処を幻術で消していた彼なら、自身が消失したように見せること自体は造作もない。そして現状、具体的なルーリングの方法について考察する必要もない。『そういう芸当をされた。また同じことが起こり得る』と認識していればそれでいい。
戦いは既に始まっている。一つ一つの出来事に思考を向ける余裕などない。
アウロスが今最優先すべきは、ミストの次の出方だ。
完全に見失っているにもかかわらず、姿を消したまま攻撃を仕掛けてくる予兆はない。つまりこの状態から魔術を放つことはできないと解釈できる。攻撃が来るとすれば、再び姿を見せた時だ。
ならばアウロスの死角に表れるのが必然。そこからの不意打ちを防ぐには、全方位対応の結界を張るしかない。
結界は基本、消費魔力が攻撃魔術よりも遥かに少ない。だが全方位対応の対魔術結界となると相応の魔力を消費する。それが続けば魔力量の低いアウロスには致命的だ。
もっとも、今のミストはアウロスの弱点など知る由もない。耐久戦を目論んでいると積極的に疑うことはできないし、偶然そういう戦術をミストが好んでいる場合もなくはない。
何しろアウロスは、ミストの臨戦魔術士としての顔を見たことがないのだから。
かつて論文発表会で壮絶な舌戦を繰り広げ、袂を分かった後も間接的にやり合った間柄だが、魔術で直接戦ったことはない。大学の魔術士がそのようなことをするのは訓練でしかあり得ないし、上司と訓練する機会などまずあり得ない。
だが今の二人は、互いが敵地で戦うことになった。
互いを侵略するために。
「……つくづく、奇妙な縁だ」
戦場で声を発することが殆どないアウロスが、思わずそう呟いてしまう。その時点で若干の敗北感すら漂ったが、戦いは当然まだ終わらない。寧ろ始まったばかりだ。
幻術――――すなわち封術。
それを戦闘で使用すること自体は決して珍しくはない。結界術も封術の一種であり、戦闘用に開発された封術は幾つもある。
ただ、需要という点において結界を除く封術は必ずしも優れているとは言えない。空間封印をはじめとした特定の領域を封じる魔術ならば使用者は多いが、用途はあくまで施錠の延長がメイン。幻術も同様で、これを戦闘に応用する者は非常に少ない。
一見すると使い道が多そうに思える幻術だが、実はかなり状況を選ぶ。例えば敵勢力に集団幻覚を見せる魔術があるとして、それを正確に敵のみに作用させるのはほとんど不可能に近い。幻術はあくまで視覚操作であり精神に作用して幻を見せる術ではあるが、魔術は基本的に標的へ強制的に作用するものではなく、術者が放った段階で外力として作用させるもの。これは自分一人を守る結界でも例外ではなく、自分に魔術を作用させるのではなく自分の周囲に作用させる。この違いは極めて重要だ。
特定の空間に幻術を施す場合も、その空間を見る一人一人ではなく空間そのものに対して魔術を放ち、そこを見た人間に幻覚を見させる。このメカニズムが不変である以上、敵と味方を魔術そのものは区別しない。要は近い空間に位置している以上、味方にも作用する可能性が極めて高いということになる。
味方も巻き込んでしまう恐れのある魔術など、少なくとも実戦において有用とは到底言い難く、使い勝手の悪い魔術と見なされ戦場で忌避される。しかし戦場を経験していない大半の研究者には、理屈の上ではそれを理解していても実感が伴っていないため、軽視する者も多い。
ミストは、こういった風潮を嫌っている珍しい研究者だ。
机上の空論で魔術を開発する弊害は、全て臨戦魔術士が泥を被る形となる。研究者は『我々はあらゆる可能性を消さないため有用と言い難い魔術でも開発を進める。どの魔術が使えるかの判断と決定権は臨戦魔術士にある』と当事者を立てるかのように言い張っているが、要は現場の声を聞く気がないという意思表示に過ぎない。
体裁を整えるために臨戦魔術士を監修に迎える大学や研究所もあるにはあるが、それもあくまで体裁を整える意味合いが強く、決して重要視はしていない。
このような姿勢が魔術士を『騎士の助手』『学者の助手』と呼ばせてしまっているとミストは嘆いている。彼自身が臨戦魔術士を経験していたことも、その持論に実感や説得力を持たせていた。
実戦で活かせない攻撃魔術に価値はない。その見解についてはアウロスも同調しているし、今も認識は変わらない。
だがアウロスは、そのミストが実戦向けでない幻術を使用したことに疑問を抱いてはいない。ミストが実用性にこだわっていたのは、あくまでこれから市場に送り出す魔術に対して。自分の使用する魔術を想定していた訳ではない。
騎士の助手と言われ後方支援ばかりを求められている魔術士に、幻術は必要ない。だが一対一で戦う魔術士ならば極めて実用的な運用が可能だ。
現にアウロスは完全に後手に回っている。敵の居場所を把握できず、逆に自分の居場所は露呈しているこの状況は圧倒的不利。誰もが絶望的だと感じる局面だ。
だがアウロスにとって、絶望とは常に出発点を意味していた。
「……」
結界を張らず、その場に立ち尽くす。ミストの気配すら察知できていないというのに。
それが最善策だからだ。
ミストはアウロスが実戦慣れしている事実を理解している。レゼリアの口から伝えられていると考えるのが普通だ。彼女は大学でアウロスとミルナの戦闘を目撃しているのだから。
ミストにはミスト独自の目的があって、このシチュエーションをあえて用意した。でなければ、あのような強引な理屈でこんな理不尽な戦いを提案する筈がない。
ならばこの戦いを即座に終わらせるような真似はしない。勝つことが目的とは考え難いからだ。
案の定、姿を消したミストは棒立ちのアウロスを依然として攻撃してこない。
しかし同時に、アウロスの思惑もミストに筒抜けとなった。
「成程。レゼリアの報告通りか」
先程いた場所と寸分の狂いもなくミストが再び出現する。彼は幻術を施してから一切移動していなかった。
「元総大司教を相手に一切の忖度をせず、私に対してもその不遜な対応。ここまで生意気な魔術士を見たのは久々だよ」
ただその場に立っていただけにもかかわらず、酷い言われよう。だがアウロスは言葉での反応はしない。眼前で話し続けるミストをジッと観察し続ける。
「目の前で人が消えたというのに、慌てた様子を微塵も見せないとはな。こんな可愛げのない奴など何処を探してもそうはいない。実に稀有な魔術士だ」
やたら愉快そうな面持ちでミストは高揚を隠そうともしない。魔術霊園の中で見かけた彼とは明らかに顔色が違う。
自分の予想や想像が裏切られた時、研究者は不安や緊張よりも素直な驚きと歓喜を心に抱く。好奇心が刺激され気持ちが昂ぶる。そこに生き甲斐すらも覚える。
研究者としての純度を示すかのようなミストの反応に、アウロスは思わず心中で嘆息した。
まだ30代前半でありながら、ミストは既に老練とさえ表現できるようなしたたかさと冷酷さを備えている。だがそんな彼が、今は童心にでも返ったかのようにアウロスをまじまじと眺めている。
「ならば私自身も久々に……この素直な興奮に身を委ねてみようか」
柄にもない言い様。しかしそれはフェイクでもなければ冗談でもない。
ミストは再び魔術を使用した。
ルーリングの過程を一切見せずに。
「……!」
同時に、アウロスは後方へと吹き飛ばされる。何をされたのかは瞬時に理解した。
緑魔術の風圧を正面から受けた。使用魔術は【噴風】で間違いない。風の力で敵を吹き飛ばすだけの初級魔術ゆえにルーンの数は最小限でいい。
ただ、あくまで最小限であってゼロでは魔術は生まれない。
先程の幻術の際も、そして今回も、アウロスは決してミストから目を背けてはいない。彼の両手に関しても視野から外れてはいない。だから断言できる。
ミストは手を使ってのルーリングを実行していない。
ルーリングの省略、大幅な短縮を可能としたオートルーリングでも、ルーンを一切用いないで魔術を出力するなど不可能。そんな真似ができれば即座にアランテス教会が最敬礼をもって彼を迎え入れ、新時代の幕開けを宣言するだろう。
勿論そんなことにはならない。何故なら、アウロスが大学を去って僅か数年でそのような魔術の歴史と常識を覆す発明などできる筈がないからだ。
しかし事実、ミストはルーリングを用いていない。それに対して本人の言及もない。
謎を解いてみせろ。
その上で自分を倒してみせろ。
そう暗に突きつけている。
単純な魔術戦ではなく、化かし合いまでも望んでいる。
そんなミストの好戦的な態度に、アウロスは再び迷いを生じさせていた。




