後日譚:忘却の綴り(25)
「ロスト君……だったか」
ミストにその名を呼ばれ、アウロスは一瞬強い拒否反応を生じさせる。鳥肌のようにわかりやすく形になった訳ではないが、心がざわめいたのは確かだった。
だがそれも一度目だけ。すぐに順応し、耐えられるようになる。
でなければ、ここまで生き残ってはいない。
「運動の前に少し話をしよう。君は戦場と魔術士をどう結びつけている?」
「……随分と奇妙な質問ですね。定義ではなく概念を聞いてるんですか?」
「解釈は自由にしてくれていい。思うがままに答えてくれ給え」
思うがまま――――それはつまり考えを露呈しろという要求だ。以前大学にいた時からミストは常に、アウロスの頭の中を見たがっていた。
応える義務などないが、曖昧な質問ほど自分で輪郭を描きたくなるのはアウロスの悪癖の一つ。今のミストはそれを知らない筈だが、見事にアウロスの急所を突いてくる。
「戦場と魔術士……ですか。臨戦魔術士ってことですよね?」
ミストからの返事はない。それも好きに想像しろ、ということらしい。
抗うつもりもなく、アウロスは思考をその奇怪な質問に傾けた。
臨戦魔術士にとって、戦場は食い扶持を稼ぐための舞台ではない。
それは傭兵を生業にしている者や立場を得ようとしている者の考え。魔術士は決して戦場を仕事場にはしない。
アウロス=エルガーデンの名で戦う場所を求めていたかつての少年も例外ではなかった。ガーナッツ戦争終結後も彼は幾つもの内乱の地へと赴き魔術を解き放ってきたが、それを自分の仕事だと認識したことは一度もない。
彼が足を付けていたその場所は――――
「敵地、ですかね」
「ほう。詳しく聞かせて貰おうか」
ミストの興味を引く答えだったことに、アウロスは何の感情も抱かず顔を傾ける。
「敵陣、という意味ではないのだろう?」
「ええ。倒すべき相手がいるから、とかじゃなく……そうですね。アイデンティティと相反する場所だから、でしょうか」
「ならば追加で問おう。魔術士の自己同一性とは何かね?」
「魔術の創出者および伝道師であることです」
魔術士の存在価値は、魔術を生み出して世に広め、後世に存在させ続けることに集約される――――アウロスはそう考えている。魔術というものを各時代に適応させ、文化として根付かせると言い換えてもいい。
「戦場ってのは消費の世界です。人の命が無駄に消費され、金も資源も自然も理不尽に吹っ飛んでいく。魔術も例外じゃない」
「実戦で使える魔術と使えない魔術に選別され、後者は容赦なく切り捨てられていく。成程、確かにその通りだ」
何の迷いもなくアウロスの主眼を見抜いたミストもまた、同じ視点を持つ者。ただし彼の場合、騎士の助手と揶揄された魔術士にとっての戦場がそれに該当する。
「魔術と呼ばれる超常的な力を、文化を、学術を、信念を、商品を、芸術を、信仰を、高揚を、欲求を、或いは普遍的な力を、どれだけ世界に広めることができるか。どれだけの意味を持たせていけるか。魔術士に使命があるとすれば、そんなところじゃないですか」
「まるで他人事のような締め括りだな」
「そうですね。他人事です」
アウロス自身は、自分が魔術士の輪の中にいるとは思っていない。ヴィオロー魔術大学で資格を剥奪された時から、或いはそれよりも前から、ずっとそういう意識で生きてきた。
疎外感を抱いてふて腐れていたのかもしれない。不当な扱いに対して不満があったのかもしれない。
だが、アウロスはあの少年――――ミルナの館で人体実験を受けていた頃に出会った唯一の友達の名を借りていた手前、自分というよりはアウロス=エルガーデンが軽んじられていることに対して憤っていたようにも感じている。
本質的な自分など、今更見つめるつもりもない。アウロス=エルガーデンとして育った約10年の時間を否定する気など一切なかった。
今の自分が全てなのだから。
「やはり君は何処となく私と似ている。考え方や感じ方が」
「違いますけど」
「そう嫌そうな顔をするな。私は魔術を人類の恐れが具現化したものだと考えている。同時に、魔術とは人類の希望を形骸化したものとも捉えている」
「……」
腹立たしいことに、ミストの言葉をどうしても素通りできない。アウロスは仕方なく彼の話にもう暫く耳を傾けることにした。
「我々魔術士は、魔術士以外の人間と同類ではない。ただし選民意識に代表されるような特別感を付随するつもりなどない。我々はただ、人間が抱える希望と憂いを魔術という形で表現していくだけの存在だ。戦場とは、そんな我々の邪魔をする場所……と私は捉えているのだよ」
「……確かに似てはいますね」
魔術が選別されるだけではない。戦場とは臨戦魔術士が何人も死んでいく場所。優秀な魔術士ほど使い潰されていく。
故に敵地。
両者の見解は一致した。
「ところでロスト君。朝は苦手ではないかね?」
急に話を変えるのも、ミストの常套手段。しかもこの問いには聞き覚えがあった。ミストの方は覚えている筈もないが。
最早懐かしさすら感じず、アウロスは昔どう答えたかを思い出そうともせずに感覚のみで答えることにした。
「特には。朝日は眩しくて苦手かもしれませんが」
「確かに眩しいな。今日は特にそう感じる。人によってはこれを最良の一日の理由にさえすることがある。私には理解できないが」
魔術霊園の外に出たのは二日半振りとあって、アウロスの視覚にもその眩さは過剰に伝わってくる。
視覚だけではない。嗅覚においても敏感に周辺の様子を伝えてくる。
植物特有の青臭い香り。土特有の野暮ったい匂い。朝特有の澄んだ薫り。
どれも馴染まない。本音を言えば朝は苦手かも知れないと、アウロスはこっそり思い至った。
「君のコンディションに問題がなければそれでいい。運動は体調万全で臨まなければ効率が悪くなる。研究者としては非効率な行動は看過し難い」
「……一応聞いておきますけど、俺はこれから怒られるんですか?」
少なくとも、ミストは大学教授という立場でアウロスを外へと連れ出した。本人は指導ではないと口にしていたが、立場が無関係であるとは考え難い。
もしこれが、現在の立場――――同じ大学の教授と研究員という立場とは関係なく、私闘を繰り広げるために用意されたシチュエーションだとしたら、ミストにはアウロスへの明確な害意が認められる。ならばそれは、彼が記憶を保有していることを意味する。
アウロスに敗北した屈辱という記憶、その復讐を果たしたいと願う心を反映している。
忘却魔術を使用した人物は、その事実を忘れる。その魔術の対象となる人物についても忘れる。よってミストが忘却魔術を使用していたとしたら、彼はアウロスに喫した敗北など覚えてはいない。他の誰かが忘却魔術を使っていた場合も同様だ。
ミストがアウロスのことを覚えていて、それを惚けてこの戦いを挑んできたのなら、忘却魔術自体が使用されていないことになる。
「そうだな。仮にも教授である私を詮索しようとここまで来たのなら、それは釘を刺されるべき行為だろう。既に何度も似たような目に遭って辟易している私個人の事情もある」
「口頭で注意するだけでは警告にならないと」
「その通りだ。君からは私に対する執着を感じる。私の破棄論文を寝る間も惜しみ読み耽っていたと、レゼリアから報告があってね」
これは明確に嘘だとアウロスは断定した。論文を読んでいる最中、レゼリアへの警戒は一切解いていない。彼女がこっそり様子を見張っていたのなら、流石に気付かない訳がない。
「単に私の論文を研究の参考にしたいのなら、そこまでする必要はない。仮に時間がないのなら数冊読めばいいだけだ。中身より序論や参考文献を参考にしたい、と言ったのは君自身なのだからね」
「何か別の思惑があってここへ来たと勘繰ってる訳ですか」
「杞憂ならば良いのだが、どうも君に対しては楽観視すべきでないと私の勘が訴えているのでね」
「……」
アウロスは沈黙を守りつつ、その目を微かに狭め心を落ち着かせようと尽力する。
今のミストの言葉で、彼も他の皆と同じように自分を忘却していると断定したからだ。
もしミストに記憶があるのなら――――あの屈辱を覚えているのなら、例え皮肉でも『君に対しては楽観視すべきでない』などという表現は用いない。自分が恐れていることを、その対象者に正直に話すことは決してない。ミストは言葉遊びを好むが、自分を軽んじたりはしないからだ。
よって、ミストの好戦的な態度は過去とは無関係に、出会ってまだ二日ちょっとの今のアウロスを過度に警戒しているから。それ以外考えられない。
「実戦経験が豊富にあるのだろう?」
その理由の一つを、彼は笑みを零しながら告げてきた。
「……豊富とまでは言えないですけど」
「謙遜は不要だ。論文を読んでいる間、随分と警戒していたそうじゃないか。最後は流石に集中力が切れたようだが、二日以上も周囲に警戒網を敷きながら論文を読み耽る……ただの研究者にはとてもできない芸当だ」
「見張らせようとしたのは本当だったんですね」
ミストだけでなくレゼリアも怪しんでいたことが、却って面倒な状況を生み出してしまった。そのことに対する後悔はないものの、アウロスは嘆息を禁じ得なかった。
「私は、君がその戦闘能力でウェンブリー大に厄災をもたらす目論みがあるとまで危惧している。その過程でレゼリアを脅している可能性もね」
「……手加減はしない、と」
「話が早いな。ますます生かして帰す訳にはいかないと思えてくる」
言葉とは裏腹に、ミストに殺気はない。だがそれは、あくまで殺気を感じていないというだけ。
アウロスはずっと、このミストの気配を察知できずにいる。
流石に目の前にいる時まで把握できない訳ではないが、視界に収まらない状況でミストの気配を感じることができていない。これが警戒を過剰に行った理由の一つでもある。以前のミストに対してこのような不可解なことはなかった。
その不気味さは到底無視すべきものではないが、理由を詮索している余裕もない。
「技比べなどと生温いことを言うつもりはない」
「……」
「君を外敵だと見なし、排除しよう」
それは紛れもない宣戦布告だった。




