後日譚:忘却の綴り(13)
レゼリアの出現させたルーンの数は優に100を越え、研究室内の空間を埋め尽くしている。明らかに手動ではなくオートルーリングによる編綴だが、それ自体は今やごく普通の事。アウロスも自身が手掛けたこの技術が魔術国家に浸透していく様子は目の当たりにしている。
問題なのは、そのルーンが彼女の前ではなく後ろに現れた点。これは通常のオートルーリングでは起こり得ない現象だ。
「やっぱり、貴方は戦闘のプロフェッショナルなんですね」
だがそのルーンは魔術を具現化する前にキャンセルされ、あっという間に霧散していった。
それを確認し、アウロスは周囲に張り巡らした結界を解く。彼女がルーンを出現させた直後にはもう編綴を始めていた。
「こんな場所で魔術を使われるなんて想定しようがない筈なのに、その反応。凄いです」
褒められたからといって嬉しい筈もなく、憮然とした表情を浮かべつつアウロスは目で問う。『何故こんな真似をしたのか』と。
研究所内で魔術を使用する事自体は禁じられていないが、攻撃魔術の行使によって何かを試したり脅したりするのは基本的に処罰の対象となる。もしアウロスがフォグ教授にこの件を話せば、レゼリアには減給、最悪停職の処分が下されるだろう。
にも拘らず、このような行動に出たのは――――
「ミルナ様との戦闘訓練を見た時から感じていました。貴方は……戦場経験者ですよね」
「あんたもか」
同類だと確認する為。
アウロスもまた、今のレゼリアには自分と似た匂いを感じていた。
「気配を消すのが上手い魔術士はそれなりにいる。でも相手を正面に見据えながらでも気配を絶ち続ける奴は滅多にいない。人里での生活に慣れている人間は普通やらない」
「そうですね。いつ何があるかわからない場所で長く生活した習慣みたいなものですから。貴方が野生動物のような警戒心を抱いているのと同じです」
平然と、しかし妖しい瞳を瞼で半分近く覆い、レゼリアは言葉で首肯した。
「今の俺の立場なら、警戒を強めるのは当然だろう。怪しむなって方が無理なのは自覚してるしな」
「でしょうね。魔術大学、それもミルナ様が所属している研究室に臨戦魔術士が編入して来たとなれば、疑惑の目が向けられるのは普通の事です。何も不思議じゃありません」
レゼリアの言うように、今のアウロスは素直に受け入れられるような立場ではない。だから監視が付く程度なら想定内。教授であるフォグが全く姿を見せないのも、アウロスが何者で目的が何なのかを明らかにしない限り危険だと判断したから――――そう思っていた。
今宵の出来事に遭遇するまでは。
「それにしちゃ、やけに対応が穏やかだな。誰かに命じられた訳じゃないのか?」
「はい。私は私の意志で貴方を試しました。味方になって欲しくて」
「……味方?」
意外な言葉のチョイスに、アウロスは思わず首を捻る。『同士』『仲間』といった言葉なら、まだすんなり受け入れる事が出来ただろう。何処か子供じみたその言葉は、却ってレゼリアの人物像を曖昧にしていた。
「私達のような戦場帰りの魔術士が、この激動の時代で生きていく為には、相応の戦略が必要だと思いませんか?」
だがすぐに、その表現が的確だと判明した。
「新教皇の方針が居場所をなくしている、って言いたいのか」
「居場所と言うよりは未来です。このままだと戦場がなくなりそうじゃないですか。私達の価値が消えてなくなると思いませんか?」
それは、彼女が現役の臨戦魔術士である事の紹介だった。
『研究者である事』と『戦える魔術士である事』は必ずしも矛盾しないが、通常は研究畑に身を寄せる時点で現役は退く。つまりレゼリアは研究以外の目的で大学に勤務している事になる。
極めてイレギュラーな存在だ。
「私は自分のやって来た事に誇りを持っています。臨戦魔術士である自分にも。あの刹那の戦争にあって、もし私がただの非力な女だったら確実に殺されていました。魔術士だから生き残れた。そんな自分が歴史上の『誤り』とされるなんてあんまりじゃないですか。貴方はそう思いませんか?」
「いや特に」
だが今のアウロスには然したる興味もなかった。
「えー……もう少し興味を持って貰えると思って夜中に会いに来たのに。あんまりじゃないですかぁ」
レゼリアは露骨に肩を落とす。どうやら本音らしい。
「悪いが、俺は俺でやる事があるからコソコソ動き回ってるんだ。あんたの目的が何であれ、手を貸す暇はない。用事がそれだけならもう帰って貰いたい」
「なんか扱い悪くないですか? もしかして厚着してるのが不満ですか? もう少し色っぽくした方が興味持って貰えました?」
「そうそう」
「絶対適当じゃないですか……こんな真夜中に私みたいな可愛い女子が意味ありげに来たって言うのに。身持ち固いですね。もしかして既婚者ですか?」
「違う」
厳密には、そうなろうとしたが途中で壮大な邪魔が入って現在対処の真っ直中――――などと答える筈もなく、アウロスは代わりに溜息を漏らした。
今まで変わり者とは何人も遭遇してきた。情報屋のラディはその筆頭だし、第一聖地マラカナンでもチャーチに随分と懐かれてしまった。そういう自分の半生を振り返りつつ、眼前の女性をあらためて視界に収める。
やはり気配はしない。それだけに不気味な存在感だが、奇妙な事に研究室の空気にも馴染んでいる。まるで地縛霊のようだとアウロスは心中で吐き捨てた。
「とにかく俺は、あんたの味方にはならない。悪いが他を当たってくれ」
「つれないですね。良いんですか? そんな簡単に私を見切って。貴方の目的に役立つ女かもしれませんよ?」
「……」
――――今の今まで気付かなかったかと言えば、そうではない。
ただ彼女自身から話を切り出すのを待ってはいた。でなければ、いつまでもこの場に留まる時間帯でもない。
「あんたがジェイクに言わせた訳か。『魔術霊園』の事を」
ジェイクの切り出し方にも唐突さはあったが、それ以上に不自然だったのは何処か主体性に欠けた言動。
『そんな所を俺に教えて良いんですか?』
『全くだ』
まるで誰かに言わされたような違和感があった。
この流れを誘発する為にレゼリアが仕組んでいたのなら、あのやり取りにも合点がいく。
「察しが良いですね。正解です。御褒美に私の頬を指でプニってする権利をあげます」
「……」
にこやかにそう告げるレゼリアからは、感情が読み取れない。だがそれはおかしな事でもない。
戦場を経験した人間は基本、何かが破壊されている。
中でも特に、精神に関しての欠落や一部破損は多くの者に見られる"後遺症"だ。
レゼリアは壊れている。
アウロスはなんとなく、そう思う事にした。
「いつでも良いですからね。私、敵に触れられるのは死ぬのと同じだと思っていますけど味方なら多少のスキンシップは許せるタイプなので」
「なら今すぐ死ぬか?」
いい加減話を進めるべく、アウロスは右手一差し指を突き出す。その指にはオートルーリング用の魔具がはめられていた。
「戦場をなくしたくないっていうあんたの願いに興味はない。何度でも言うが、味方になる気はない」
「残念。でも私が魔術霊園に案内すれば気が変わりますよね?」
「……つまり、ただ単にヴィオロー魔術大学へ行くだけじゃ辿り着けないって訳か」
「それも正解です。紹介する人間がいて、その上で墓守から認められてようやく入り口に立てます」
たかがリジェクトされた論文の保管場所に対して行う警備ではない。
何かが隠蔽されている――――
アウロスはそう判断させられた。
「けど、魔術活用科に編入していきなり遠征はどのみちあり得ませんからね。暫くはここで研究者として平穏に過ごしておいて下さい。機が熟せば、私が案内してあげますから」
「そんな面倒な真似をしてまで俺を引き入れる必要が本当にあるのか?」
レゼリアの目的が真実なら、アウロスに拘る必要はない。戦場帰りの魔術士は他にも大勢いるのだから。
だが、彼女は相変わらず感情を表さない笑みで、静かに首肯した。
「誰でも味方にしたい訳じゃないんです。貴方だから目を付けたんですよ」
「わからないな。ほぼ初対面で何をどう判断したらそうなる?」
「貴方が格好良いからです」
――――全く想定していないその返答に、アウロスは珍しく顔を少し崩した。
「貴方は私と違って、戦場での経験を糧としつつもそれを表に出していない。普通は良くも悪くも出てしまうものなのに。まるで他人事のようでさえあります。その泰然とした雰囲気に惹かれました」
「ますますわからない」
「あ、でも異性としてって訳じゃないですからね。勘違いしないでくださいよ? 私は魔術が恋人ですから」
「……あっそ」
結局、終始レゼリアのペースのままこの日は幕を閉じた。