後日譚:忘却の綴り(8)
ウェンブリー魔術学院大学にとって、賢聖を輩出した事実は極めて大きな意味を持っていた。
他の大学を辞めさせられた人材を特別研究員として招き、ある程度自由に研究させる環境を整え前人未踏のオートルーリングという技術の開発に貢献した事は、研究機関としてだけでなく人材育成の観点からも方々から称賛された。100年以上先まで誇る事が出来る実績だ。
しかし同時に、大学の顔とも言える存在にまでなっていたミスト教授がその研究成果を不当に奪った事実も無視できない。この件は世間にこそ漏洩していないが、被害者であり賢聖となったアウロスを口止め出来る手段はなく、いつ露呈しても不思議ではない。ウェンブリー魔術学院大学は嫌でもアウロスという存在を重く扱わなければならなくなった。
当然、機嫌を損ねるような真似は出来ない。例えばアウロスやオートルーリングにとって不利になるような研究は決して行えない。アウロスがミストの愚行を詳細まで把握している以上、僅かでも刺激する訳にはいかないと考えるのが当然だ。
だが、アウロスの存在が忘却された事で状況は変わった。
賢聖を生み出した大学という事実はそのまま残っている。だがその賢聖となった人物そのものは欠落している状態。よって、彼らが過剰にアウロス=エルガーデンやオートルーリングに対して気を遣う事はなくなった。
つまりアウロスの存在が忘れ去られた今だからこそ、彼らはオートルーリングに対抗意識を燃やす事が出来るようになったと言える。
それはアウロスにとって、決して悪いばかりの話ではない。大学側の媚びた態度に辟易する事もあったし、何より自分の描いていた理想の未来に近付いている。
「オートルーリングは勿論俺も知っています。でも誰が発明したのかは覚えていないんです。誰でしたっけ?」
試しに問いかけてみる。
結果――――
「おいおい、君の知識はそのレベルなのかい? 先が思いやられるね。アウロス=エルガーデンに決まっているだろう」
その名前を聞いても、ミルナは全く感情を動かさない。アウロスという人物が新加入した青年と全く結びついていない。
アウロスという名の賢聖が生まれた事は知っている。彼が成し得た事も知っている。
だが、その人物に関する記憶は誰にも残っていない。
「……そうでしたね」
アウロス=エルガーデンとロスト=ストーリーを繋げる人間はもういない。
オートルーリングの開発と普及は、シュバインタイガー家で人体実験用に囲われていた戦争孤児のあの少年が成し遂げた事であり、この正史に意を唱える者は未来永劫皆無。
これこそが望んだ未来の筈だった。
それなのに――――アウロスは複雑な思いを抱いていた。
オートルーリングを自分の手柄と見なされていない現状そのものに不満はない。だが、いざ他人事として扱われているのを目の当たりにすると奇妙な寂寞感が胸に去来してきた。
それは理屈ではない。何よりも合理性を重視し他人の人生を歩んできたアウロスが今、初めて自分自身に憐れみを抱いていた。
同時に、反骨心も芽生える。
「俺も頑張らないといけませんね」
忘れ去られたのなら、また覚えて貰えば良い。今度はロスト=ストーリーとして。
忘却魔術の調査は当然行う。犯人捜しもする。だがそれ以外の時間をどう使うかは自由だ。
「良い心がけだ。例え力量不足でも前に進む意識は失うべきではない。そうすれば何処かには届き得る。陳腐だろうと凡庸だろうとな」
ジェイクの言葉は本人が言うようにありきたりではあったが、目標を持った人間にとっては極めて大事なことだった。そしてアウロスはそれを誰よりも良く知っている。
進む意識。貫き通す意志。それは人が人である限り、何処かで必ず一度は見失ってしまう。アウロスであっても、論文をミストに奪われ大学から追い出された時は迷子になってしまった。
それでも進む意志を持ち続けていたから辿り着けた。賢聖の称号は副産物に過ぎない。オートルーリングの完成、そしてルインの呪縛からの解放。それらを成し得た最大の要因を挙げるとすれば、今ジェイクが言った事がそのまま当てはまる。
まだ能力は不明で大層な自信家ではあるが、決して薄っぺらい人間ではない――――アウロスは彼をそう評価した。
「だが僕の研究室で仕事をして貰う以上、凡庸では困る。そこで君には、何が出来るかを宣言して欲しい。魔術活用科の為に何が出来る? 何をする?」
尤も、教授でもない立場で研究室を私物化している事は頂けない。今後、この研究室を拠点として暫く調査を行う以上、ジェイクの一存で行動を縛られる訳にはいかない。
そう結論付けたアウロスは、彼の言葉に従い宣言する。
「攻撃魔術の活用法を提供します」
それは戦闘以外での魔術の活用法を模索するという新教皇の方針に反する内容。当然、大学の方針とも合致しない。
だが四人の反応はアウロスの予想しないものだった。
「握手を」
最初に行動に出たのはレゼリア。常に無表情だった彼女が初めて笑顔を覗かせた。
「素敵です。攻撃魔術、良いですよね。一緒に目の前を蹂躙しましょう。そしてお金を稼ぎましょう」
「その延長線上に世界征服がある。俺様は信じていたさ。お前がそういう熱を持っている魔術士だってな」
二人の手を包むようにシヴァインが両手を重ねてくる。明らかに先程までとは目の色が違っていた。
「レゼリアは攻撃魔術でより効率良く稼ぐ方法を研究している。シヴァインは世界征服……と言うと僕まで狂人と思われそうで不本意だが、魔術が世界全体に与える影響を様々なアプローチで試算している。どちらも魔術活用科にとって必要な研究だ」
「貴方は何を?」
「僕か。僕は都市計画における魔術の活用法。特に緑魔術や黄魔術は人が生きていく上でより豊かさを提供できると思っている。そういう研究だ」
シヴァインとは違い、ジェイクは都市の健全な発展と秩序の為に魔術を役立てようと考えている。これはロベリアの考えている魔術士の新機軸と完全に一致している。
新しい事に挑戦する一方で、現存の魔術においては攻撃魔術が大半を担っているという現状に沿った研究も怠らない。人数は少ないものの手広くやっている事がわかる三者三様の研究内容だった。
「皆さんは御自身で研究する内容を決めたんですか?」
「勿論そうだ。だがそこにいらしているミルナ様から多くの助言を頂いて現状に至っている」
「大袈裟ですよ。私は少しだけ違う視点を提示しただけに過ぎません。皆さん、とても優秀な研究員ですから」
それは明らかに謙遜。アウロスは彼女が何者かを良く知っている為、そう確信できた。
ミルナ=シュバインタイガー。
かつて禁止されている人体実験を行い、自分の娘を使用人に任せ、魔術研究に没頭していた研究の鬼。彼女にはそういう過去があり、そういう一面がある。
決して非人道的な行為を抵抗なく出来るような人間ではない。教会の指示に従ってやっていたに過ぎない。
だがその日々が、彼女を総大司教の座に押し上げたのも事実。そして総大司教として長年第二聖地を統治していたのもまた事実。その経験に嘘はない。
人体実験には多くの犠牲が伴った。そんな血塗られた経験を濾過する事など出来ない。なかった事には出来ない。だからこそ彼女は現役の研究者としてここにいる。未来を担う魔術士や研究者の踏み台になる為に。
ようやくアウロスは、ミルナがここにいる事を受け入れる事が出来た。
だが――――
「言動から察するに、君は臨戦魔術士としての経験がある程度はありそうだ。後日その力を僕達に示してくれ。その上で、具体的な研究テーマを決めるとしよう」
「それなら私に是非協力させて貰えないかしら」
その安寧は直ぐに奪われてしまった。当の本人によって。
「魔術活用科で攻撃魔術を研究する以上、ただ既存の魔術を通例に従って使用するだけではダメ。でも通例に従わないだけじゃ無意味なのもわかるでしょう? 誰かが採点しない事には、それが正しい逸脱なのか、優れた反抗なのかは本人にさえもわからないもの」
「ミルナ様、まさか……」
ジェイクの引きつった顔と声に一つ頷き、ミルナは穏やかに微笑む。
「ロストさん。私がお相手をしてあげる。明日、決闘をしましょう」
再び訪れる動揺、そして緊張。
アウロスは想像もしない出来事の連続に、ルインから忘却されてしまった瞬間と同じくらいの衝撃を受けていた。
何が出来るかを示す為の模擬戦とはいえ――――恋人の母親と戦うという異常事態に。




