第10章:アウロス=エルガーデン【下】(93)
「儂にとって重要なのは、今日の選挙で誰を勝たせるか、ではない。別にルンストロムでなくても良かったのだよ。デウス=レオンレイでも、ロベリア=カーディナリスでもね。要は儂がこの辣腕を振るう上で邪魔にならなければ三人の内の誰であっても問題はなかった」
――――最高位室の扉は微かに開いており、そこから廊下で起こった爆発の余韻とも言うべき臭いが入り込んでくる。
その臭いを特に気にするでもなく、タナトスは眼前のルインに向けて、穏やかな口調で説いていた。
「とはいえ、やはり国の顔である教皇には相応の役目というものがある。デウスは臨戦魔術士として使うのが最適であり、国の長に据えるのは不適格。ロベリアは少々歴史に傾倒し過ぎている為、敗戦の事実を呑み込み過ぎているきらいがあった。ルンストロムを傀儡としたのは消去法に過ぎなかったが、それなりに使える人材なのは確かだ」
一言一言に、全てを手にしたという達成感、充実感が漲っている。
それでも歓喜は薄い。
彼にとって、国内における勝利は約束されたものであり、然程喜びはないという表れだった。
「奴がこの選挙期間に一皮剥ければそれが最善。だが年齢的にその期待は過剰というものだ。儂の予想としては、デウスが奴を退け、"手土産"と共に儂の元へ現れる展開が最有力だった。だがそうはならず、『伝言』を受け取ったのは君。ロベリアよりは君の可能性が高かったな。ロベリア直属の臨戦魔術士は質が低い。戦力面の把握という点では最も面倒だったが、ウェンブリーからの客である君とアウロス=エルガーデンが"勝ち残る"のは、状況的に見てそれほどの驚きはないよ。寧ろ君達がロベリアと組んだ方が儂には意外だった。尤も、その時点でロベリアがここに来る可能性は消えたのだがね」
「……何故そう思うの?」
「ルンストロムの勝利が確定していた現状を打破するには、他の候補者はルンストロムを直接始末するしかない。ルンストロムはルンストロムで、儂の支配から少しでも逃れるにはただ座して勝つのではなく、自身の力をもって選挙に勝利したという証が要る。エルアグア教会が『融解魔術専用魔具』である事も、知るのに苦労するほどの機密性はない。その全てを考慮すれば、昨夜の修羅場は生まれるべくして生まれたと言えるだろう。そして、そこに集うであろう面々の戦力を考えれば、ルンストロムを追い詰める可能性があるのはデウス、そして君だ」
淡々と筋書きを述べるタナトスからは、支配者特有の威光が漂っている。
昨夜のエルアグア教会での戦いが、全てタナトスによって誘導された結果なのだとしたら――――最早それは人の所業ではないと、ルインは苦々しい心持ちで感じていた。
「ロベリアの陣営とアウロス=エルガーデンの持ち駒の中で最も戦闘力の高い君が『伝言』を受け取る事になるのは想像に難くない。ならば君は、ロベリアにこの件を言付ける事はしないだろう。君にとってロベリアは上司でも何でもないのだから。当然、アウロス=エルガーデンにもな。君にとって奴は『母親の罪の証人』。内心邪魔だったのではないかね? ならば伝言は君自身が受け取る事になる。デウスの次に君だと思ったのは、それだけの理由なのだよ」
タナトスは、より優れた人材を欲していた。
その人材とは、戦争で勝つ為に必要な人材。
この選挙戦は、それを手に入れる好機と睨んでいた。
実際、教皇選挙となれば各陣営が持ちうる最大のカードを切ってくる。
中にはタナトスも把握していないような実力者が投入されるかもしれない。
その期待感から、タナトスは選挙戦を利用し、試験の場を設けた。
デ・ラ・ペーニャを戦争で勝たせる人材か否かを見極める試験。
ただ魔力量やルーリング技術に優れているだけではなく、戦いで勝ち切る能力を持った者。
敗戦国という過去に囚われない、強い"勝ちグセ"を持つ魔術士。
そんな人材を、タナトスは吟味していた。
「君の臨戦魔術士としての実力は、既に調査済みだ。戦争時の戦力として申し分ない。加えて君は、人体実験を密かに行っていたあのミルナ=シュバインタイガーの血を引いている。そういう生臭さが、戦争では必要となるのだよ」
「……」
事実上、母親を侮辱されたに等しいが、ルインは激高せず沈黙を守っている。
それを忠誠の証と取るほどタナトスは短絡的ではなかったが、気に留める必要がないとも理解していた。
「誰が教皇になろうと、その事実をもって君の母親は処刑の対象と出来る。人体実験、しかも魔術士の大敵となり得る生物兵器の研究は重大な禁止事項なのでね。君はその意味を十分に理解していると解釈し、儂は君をここへ招いた。そして君は儂の期待に応えてくれた。その手の魔具が証だ」
「……貴方は」
俯いたまま、ルインはポツリと言葉を綴る。
「教皇選挙の立候補者三人全員の弱みを握っていたのね」
「間違いではないが、正確性は欠いている認識だ。儂は三人だけではなく、教皇の候補となる可能性のあった全人物の弱みを握っているよ。選挙が検討されるより遙か昔、前教皇が健在であった頃からね。無論、君と君の母親もそこに含まれている」
その述懐は、タナトスという人物の底知れない凶悪さを示すもの。
その余りに壮大な邪気にあてられ、ルインは思わず顔をしかめた。
「選挙の用意を始める時点で対策を練るなど論外。未来を切り開くには、己の信念を貫くには、相応の準備が必要なのだ。この国家に足りないのはまさにそこよ。儂に国防を任せておけば十分な準備が出来た。エチェベリア如きに後れを取る事はなかった。だが前教皇はそれを怠った。同じ過ちを繰り返す訳にはいかんのだよ。魔術国家が魔術国家である為には」
薄い微笑みを浮かべ、タナトスは差し出した右手に力を込めた。
「さて。君の暗躍と決断力により、アウロス=エルガーデンは始末された。これで君の母親が過去に手を染めた悪行の証人……人体実験の被験者は、全てこの世から消去された事になる。君の杞憂が消えたところで、そろそろ本題に入ろうではないか」
タナトスは目を細め、ルインの"手土産"に視線を浴びせる。
「君が手にしているその魔具を儂に上納した時点で、君はデ・ラ・ペーニャの一翼を担う事になる。いわば契約の証だ。さあ、魔具を寄越し給え」
「その前に、もう一度だけ確認したいのだけれど」
ずっと俯いていたその顔を上げ、ルインはタナトスと目を合わせる。
その顔は、かつてない程――――苦渋に満ちていた。
「貴方は本当に、こうなる事を予想していたというの? 私が母親とアウロス=エルガーデンの命を天秤に掛けて、母を選ぶと……そう確信していたの?」
「生憎、そこまで自信過剰ではないよ。予言者ではないのでね」
呪いにも似た感情を向けてくるルインに対し、タナトスはまるで初春の微風を浴びるかのように、穏やかな表情で否定した。
「仮に、君がアウロス=エルガーデンを選んだとしても、特に問題はなかった。その場合は君の利用価値がなくなるだけだ。君とアウロス=エルガーデンの二人が同時に乗り込んで来たとしても、始末する方法は用意してある」
「準備は得意。そういう事ね」
ルインは室内をくまなく見渡し、肉眼でその"準備"とやらが認識出来ないのを確認し、呆れた様子で大きな溜息を落とした。
「本当に、大したもの。敗戦が人を大きくするというのは本当なのね」
「その通り。我々は学ばねばならぬ。戦争で敗れた事実から目を背けず、勝利をもって再建を――――」
「貴方の事を言っているのではないのだけれど」
――――刹那。
「……?」
微かに開いた扉の隙間から、光が介入してくるのをタナトスの目が拾う。
それは魔術士にとって、最も馴染み深い光。
その光は一瞬で文字と化し、ほぼ同時に文字列と化した。
「オー……!」
タナトスが言葉を発する前にその文字列は消え、無数の白く細い線が室内の床を、壁を、天井を這うように通過していく。
その魔術を視認した瞬間、ルインは持っていた魔具を自身の指にはめ、後方へと跳びながら結界を綴る。
対青魔術用の結界は、自動編綴によって一瞬にして展開された。
「馬鹿な! 貴様は……!」
「貴方の敗因は、自分の理屈にばかりこだわった事」
そう呟くルインの言葉を、タナトスは一歩も動かずに聞いていた。
正確には――――動けずに聞いていた。
「貴方が必要としているオートルーリング用の魔具の持ち主と、私の母親が罪を犯した相手とが一致すると知った時点で、私を脅せば私が彼の命と魔具を手土産にすると踏んだのね。母親を守れるし、この国の実質的な支配者となる貴方の庇護も得られる。確かに合理的だけれど、それは貴方の理屈。私は貴方の頭の中など、靴の裏に付いた砂塵の数ほどにも興味がないのよ」
彼女にしては珍しく、その呪詛には感情がこもっていた。
青い炎のように、獰猛なまでに触れたものを燃やし尽くす憤激。
そしてその怒りを、彼女の結界の外から必死になだめようとするかの如く、室内には冷気を伴う微細な氷片が大量に発生していた。
「きっと貴方は、余り女心がわかっていなかったのでしょうね。その性格の悪さでは無理のない事だけれど」
そのトドメというべき鋭利な言葉は、タナトスの耳には入らなかった。
周囲の氷片が音を吸収してしまったからだ。
白霧の中、タナトスは視覚も聴覚も遮断された状況にある。
けれど、感覚は必死に異常事態を訴えていた。
タナトスの足が、そして最高位室の床、壁、天井、及び家具全てが、氷結によってその機能を停止していた。
「……これで、お前が用意していた"罠"は作動しない。壁も、天井も、床も念には念を入れて、まとめて凍らせておいた」
凍った扉を足で開き、しっかりと閉じた後に呟かれたその言葉も、タナトスには聞こえない。
室内の人間に聞こえない言葉は、当然室外にも漏れ聞こえる事はない。
例えば、壁、天井、床を隔ててこの部屋の外から室内の声を聞いている者がいたとしても、現在氷の部屋と化した最高位室での会話は、全く聞こえようがない。
自身の魔術【細氷と氷海のクレピネット包み】によって先程までと様相が一変した室内で――――
「一応、周囲の警戒を頼む。気付かれてはいないだろうが」
アウロス=エルガーデンを名乗り続けて来たその青年は、ルインの背中を軽く叩き、凍った床の上をそのまま歩き続け――――タナトスの直ぐ目の前まで到着した。
長い、長い道のりだった。
「この距離なら、声も届くだろう。タナトス=ネクロニア」
「……クク。聞こえるとも」
足を凍らされたことで、タナトスは動きを封じられた。
尤も、それ自体は彼にとって痛手ではない。
最初から、自分が戦う予定などないのだから。
「全く、君はこちらの予定にない事ばかりしてくれる。昨晩以降、君がミルナ総大司教の娘と接する機会はなかった筈だが……それとも、誰にも伝えるなという私の"伝言"は完全無視されていたのかね?」
タナトスとしては、少しでも時間を稼ぎ形勢逆転を狙いたいところ。
だがそれ以上に、表情から伝わる余裕のなさは、動揺と断定して差し支えのないものだった。
「もしそうなら、その娘は親以上に冷酷かつ残忍と認識せねばなるまい。親を見捨て男を取る魔性の女……まさに魔女そのものだと」
「言い訳はそれだけか?」
独自の開発した青魔術を維持したまま、アウロスは右腕をタナトスの顔の高さまで上げ、
人差し指でその眉間を指す。
「お前は自分の"伝言"を受け取った相手がルインだと知った瞬間、俺が乗り込んでくる可能性も警戒していた。だから先にやって来たルインを言いくるめ、別の部屋に待機させて、俺の帰り際を襲わせようとした。それが出来るようなら戦争に使える駒になり得るし、出来ないようなら別の"処理係"に二人揃って始末して貰う。そこで選挙における人材選抜は終了……そんなところか」
「読んでいた、と言うのかね。儂の準備を。全て読み切った上でミルナ総大司教の娘と協力して一策を講じたと」
このフォン・デルマには、既に何人もの警備が配置されている。
だがタナトスは、デウスもしくはルインをこの場に呼び出している。
当然、名前を告げれば警備も無条件で通しただろう。
とはいえ――――タナトスほどの立場にいる人間が、彼等を全面的に信用し一対一で会うのは考え難い行為。
そう表面上で見せかけていても、実際には隣の扉なき隠し部屋に、天井に、或いは床の下に、護衛 兼 処理係が隠れている可能性が極めて高い。
自分の駒となり得る人材なら良し。
そうでないなら即処理。
それほどの凶行を覚悟の上で、アウロスは単身乗り込んでいた。
「生憎、ルインと再会したのはついさっきの事だ。策を弄した訳じゃない」
「……何だと? ならば先程の爆発は何だというのだ。口裏を合わせた上での偽装工作ではないというのかね?」
「あれは、ルインが待機していた隠し部屋の壁を俺が破壊しただけだ。それをそっちが勝手に"ルインが俺を始末した"と勘違いしたに過ぎない」
「な……に?」
当然――――アウロスの発言は皮肉。
とはいえ、隠し部屋がそこにあり、ルインが潜んでいるという物証や確たる証拠がある訳ではなかった。
昨夜。
ルインは拘束したルンストロムを母のミルナに任せ、姿を消していた。
アウロスはその場にこそいなかったが、ルンストロムとルインの会話をミルナから聞いていた為、このフォン・デルマにルインが来ている事を想像するのは然程難くなかったが――――だからといって隠し部屋に潜んでいるという保証などない。
既に返り討ちに遭い亡き者になっているかもしれないし、まだタナトスの前に姿を見せず機を窺い別の何処かに潜んでいるかもしれない。
けれどもアウロスは、一つの可能性に賭けた。
ルインが――――アウロス、ミルナの二人の安全を第一に考えていると。
その視点で考えれば、彼女の行動は予想しやすい。
タナトスがミルナに危害を加えないようにするには、いち早くタナトスの前に姿を見せる必要がある。
そしてそこで彼女が行う事、それは――――自らがアウロスの処理係になる事。
ミルナから昨晩の出来事を聞いたであろうアウロスが、自分を見つけにここへ駆けつけるのは明白で、そのアウロスに危機が及ばない方法は、それしかない。
すなわち、アウロスの処理を一任されたルインが、アウロスを始末した"フリ"をし、彼をこっそり逃がすというシナリオ。
ルンストロムがオートルーリング用の魔具を欲していた事と、ルンストロムとタナトスの関係性を考慮すれば、実はタナトスこそが魔具を欲していると見て間違いない。
ならばそれを献上する事で、その場は収まる。
彼にとって、アウロスの生死を執拗に確認する理由もない。
となれば、ルインならそうする。
嫌な思いをしなければならないし、その後タナトスに忠誠を誓うよう迫られるだろうが、それでもアウロスとミルナの安全を第一に考え、実行する。
そして、他の方法は考え難い。
だからアウロスにとっては、勝算の極めて高い賭けだった。
ルインがどんな人間で、どんな性格で、何を願っているか――――それを知っているから。
ルインが自分の前に現れる前に壁を破壊し、半ば強引に再会を果たした際のルインの驚愕に満ちた表情で、アウロスは賭けに勝ったと確信した。
「……理解し難い行為だ。交渉前に何者かが隠れていないか確かめるのならわかるが、何故交渉が成立した直後にそのような蛮行に出る必要があるのかね? 儂が君に『生きてフォン・デルマから出すつもりはない』という腹づもりだと認識していたならば、わざわざ隠し部屋を露見させずとも走って逃げる方が余程合理的というもの。ミルナ総大司教の娘が儂に付いていれば、その場で殺されていたのだぞ? いや、それ以前に、そこにいたのが娘ではなく儂が予め準備していた処理係なら、壁を破壊するのは自殺行為でしかない。一体何が目的で、そのような事をしたというのだ」
「直ぐにでも、ルインの顔を見たかったからだ」
即答。
その余りにも場に、そして発言者自身にそぐわない告白に、タナトスはおろかルインさえも目を丸くする。
「ルインが無事なのさえわかれば、どうとでもなるからな」
実際、ルインの顔を見れば、一瞬で彼女のしようとしていた事を理解する自信があった。
何より――――彼女が無事かどうか、ずっと気になっていた。
それを一度に満たしたのだから、アウロスにとっては十分過ぎるほど合理的な行動だった。
だが、タナトスには理解出来ない。
アウロスの行動理念に全く考えが及んでいない様子で、目を血走らせ打ち震えている。
「……こんな状況で、そんな事言われる身にもなりなさい。全く」
逆に、全てを理解したルインは、自分へ向けられたアウロスの信頼と心配に思わず顔を背け、そっぽを向く。
それくらいしなければ、自分の変化を悟られてしまう。
そんなルインの仕草に、アウロスは内心こっそり苦笑しつつ――――茫然自失のタナトスへと目を向けた。
まだ何も終わっていない。
寧ろ重要なのはここからだ。
「経過はどうあれ、お前が俺をどう扱おうとしてたかはこれでハッキリとした」
そう自分に言い聞かせ、言葉を磨ぐ。
「……俺は研究者で、戦いは専門外だが、偶に身を危険に晒して戦う事はある。そんな時でも、可能な限りは相手を殺さないよう心掛けている。人殺しなんてするもんじゃない。気分も悪いしな。でも、自分を殺そうとしている相手にまで気分どうこうで殺生を決めるつもりもない」
紛れもなく、それは鋭利さを帯びた殺意。
「俺と、俺の必要としている人間が生き残る為なら、息の根を止める」
アウロスのそれを浴びたタナトスは――――口の端を釣り上げた。
「儂を殺すつもりかね。そうすれば、儂を崇拝する数多の部下が、君とその家族、大切な者全てに報復をすると考えて貰おう」
「死人になった自分にそれだけの人望があるかどうか、良く考えてみろ」
魔術国家屈指の権力を持つ政治家と、大学を辞め第一聖地を放浪する宿なしの青年。
立場では天と地ほどの差がある二人が、視線の高さを等しくし、睨み合う。
だがその表情には、等しさはなかった。
追い詰められているのは――――
「……儂、か」
そう素直に認め、全身を脱力させたタナトスの方だった。
「先の発言、余りに儂らしくないものだったな。『死にたくない』。そう思っている事を露見してしまったな。我ながら愚にも付かぬ事を口走ったものだ」
この状況で反省し、自身の失言を嘆く。
間違いなく大物だと、アウロスは眼前の老人への評価を決定付けた。
ルンストロムも相当な人物だったが、比較にならない程の賢しさを有した化物。
それでも負けてはならない。
屈する事は許されない。
もう、同じ過ちを繰り返す訳にはいかない。
タナトスの対応次第では――――アウロスの目は、殺気よりも雄弁にその意思を物語っていた。
「……この青魔術を解き給え、アウロス=エルガーデン。儂にはしなければならない事がある」
不意にそう告げるタナトスに、ずっと虚空を見ていたルインがいち早く反応を示す――――が、アウロスが手で彼女の戦闘態勢を制した。
同時に、魔術の継続を放棄。
部屋を包んでいた、そしてタナトスの足を凍らせていた氷が霧散し、最高位室が先程までの姿を取り戻す。
何故拘束を解いたのか――――ルインがそう問いかける前に、答えは発せられた。
「今、この場をもって、タナトス=ネクロニアの名の下に宣言する! 選挙管理委員会を代表し、ロベリア=カーディナリスを次期教皇に任命する!」
その宣言は、目の前の二人に対してのものではなかった。
彼が準備していた、ルイン以外の処理係へ向けての言葉。
彼等を証人とする事で、アウロス達への事実上の敗北宣言とし、同時にロベリアを教皇とする事が他者からの強要ではなく自らの意思であるという宣言とした。
「教皇任命の公式な宣言だ。やり直しは利かぬ。これで、交渉は成立だ。アウロス=エルガーデン。その知謀、勇猛さ、狡猾さをもって、ロベリアを陰で支えるが良い」
「……随分と清々しい顔で言うのね」
敗北者の癖に、と付け加えるまでもないルインの発言に対し、タナトスは仏頂面で肩を竦め、最高位室唯一の椅子へ腰掛ける。
そこに疲労感はなく、ルインの言うように清々しささえ漂っていた。
「まだ二〇やそこらの若造に野心を見抜かれ、策略を暴かれ、準備を全て封じられた。まさしく完全敗北。この上ない屈辱の筈だが……不思議なものだ。それほど悔しくはないのだよ」
アウロスに敗れ、そのアウロスの希望通りにロベリアを教皇とした以上、そこにタナトスの影響力はなく、今後それは更に縮小化され、やがて淘汰されるだろう。
けれども、タナトスにとって重要なのは、魔術国家デ・ラ・ペーニャが戦争に勝つ事。
直ぐに戦争を起こす事は難しくなったが、何より勝つ力を付ける事こそが急務だ。
「若い力が我が祖国を強くしてくれるのならば本望だ。長生きしてじっくりと待つとするよ。この国が戦争で勝つその日を。君の発明したオートルーリングでな」
それは、呪いの言葉。
アウロスの生み出した技術がデ・ラ・ペーニャを再び戦争へといざなう。
そんな血塗られた予言に対し、アウロスは怯む事なく、臆する事なく、堂々と受けて立つ。
「なら、俺より長く生きる事だな」
迷いなくそう言い放ち、ルインの肩に手を置く。
普段そのような行為など絶対にしないアウロスの思いがけない行動に一瞬硬直したが――――
「ただし、お前が"死神"である限り、俺に寿命で勝てると思うな」
俺には"死神を狩る者"がついている。
その信頼が手と言葉を通して伝わって来た事で、ルインはその持て余す感情を不敵な笑みに乗せた。
「……だ、そうよ。死神なんか辞めて、豊かな老後を暮らす準備でもしたらどう?」
「考慮しよう。確かに儂は、少しだけ女心の理解が疎かったようだ」
与えられた慈悲深い負け惜しみを噛みしめるように、タナトスは笑顔なくそう返答し、天を仰ぐ。
彼は彼なりに、自分のすべき事に全力を費やし、戦った。
魔術士である事へのタナトスの矜恃は、他の誰よりも勝っている。
そんな彼が裏で支えて来たからこそデ・ラ・ペーニャの現在がある。
いわば魔術国家の象徴。
「出来れば今後はその理解とやらに注力して貰えると助かる。もうアンタとは戦いたくない。本当に疲れる」
この国が積み上げてきた研鑽も、抱える病巣と憂いも、或いは戦争の連鎖さえも体現するその恐ろしき魔術士に、アウロスは最大限の敬意を口にし、背を向ける。
恐らくは何か皮肉めいた返答があったのだろうが――――ルインが二人の間に挟まるようにしてアウロスの後を付いてきた為、それがアウロスの耳に届く事はなく、二人は最高位室を後にした。
最大限の警戒を解く事なく、フォン・デルマの廊下を並んで歩く。
暫くは余韻に浸るように沈黙が続いたが、やがてルインが先に口を開いた。
「怪我は大丈夫なの?」
昨夜の戦闘で負傷したアウロスの頭部は、まだ生々しい傷跡を残したまま。
その傷をルインが、歩きながら触れる。
「昨日の内に消毒はしてあるし、問題ない」
「ならいいのだけれど。それで、貴方はどうやってこの最上階まで辿り着いたの?」
「ま、色々とな。その辺の話は後でまとめてしよう。時間はあるしな」
正式にロベリアが教皇となった事で、『オーサーの順序を正確に記述するよう』というミストへの指導・勧告が可能となった。
アウロスがオートルーリングの制作者である事はロベリアも重々承知しているので、何の障害もない。
後は、待つだけ。
やれる事は全てやった。
やり切った。
「……まだ早いのは承知の上で、一応言わせて」
隣を歩く、まだ歩き続けているアウロスに対し、ルインがそっとその手を取る。
「お疲れ様。アウロス」
その手を、やや不器用に握り返す。
返事は必要なかった。
やがて、エルアグアの空が見える。
この日も寒気が包込む、美しくも悲しき水の都。
お互いの手が、そんな空の下でお互いを求め合うように、温かく、深く繋がっていた――――