第10章:アウロス=エルガーデン【下】(88)
「君がウェンブリーの総大司教と良好な関係を築いているのは承知しているよ。その上ロベリアとも懇意にしているとなれば、確かに気が大きくなるのも頷ける。報告は受けておるよ。大学で、教授と揉めたそうじゃないか。その前の大学でも」
タナトスがそこまで自分の事を知っている事実に、アウロスは表情こそそのままだが、心中穏やかではなかった。
報告そのものは、アウロスと同じくウェンブリーにいたルンストロムから聞いていても不思議ではない。
だが少なくともここで対峙する前のアウロスは、タナトスにとって名を覚える価値もない、ちっぽけな研究者。
これほどの地位にいる人物が、幾ら先進技術の発明に身を砕く研究者とはいえ、その経歴まで頭に入れているのは異様だ。
「儂はね、身分や年齢で警戒すべき相手、尊重すべき者を決めないのだよ。君がマラカナンへ来た時点で、儂の目には入っておる。テュルフィングと接触した事もだ」
タナトスの声と顔に奢りはない。
十分な凄味と威容を放っていたルンストロムさえも問題にせず、選挙管理委員会を支配するだけの力を持った人物なのだから、情報戦において無敵とさえ表現出来る人物なのは間違いない――――それが、タナトスと実際に対面して抱いたアウロスの率直な印象だった。
だが、何も問題はない。
論文発表会の時と共通点が多いこの場だが、決定的に違う事が一つある。
「あらためて問おう。儂に協力する為に、ここへ来たのではないのかね?」
それは――――あの時になかった蓄積、このマラカナンで得た経験がもたらした"異論"だ。
「何度言われても答えは同じだ。戦争なんかに関わる気は一切ない。ついでに言えば、お前の考えも気に入らない」
「……どうにも理解し難いものだな。交渉と言いながら、儂へ難癖を付けに来たのか?」
「これは選挙なんだろう? だったら、議論は付きものじゃないか」
確かにアウロスは、選挙へ参加させろと言った。
教皇選挙に一般人の選挙権などないし、当然参加資格などないのだが、実質的にタナトスが教皇選挙の全権を握っている以上、彼との会話はすなわち"参加"だ。
「だから言うが、お前の考えには納得出来ない」
「ふむ。戦争が嫌いかね? ならばそれは――――」
「一度負けたから一度勝っておしまい、か? それでお前の愛国心は満たされるのか?」
その瞬間。
タナトスがアウロスへ向けていた獰猛な獣の牙にも似た威容が、明らかに揺らいだ。
「……幼稚、とでも言いたいのかね? 先程話していたグランド=ノヴァの真の研究目的と同じように」
永遠に生きたい。
負けたから次は勝ちたい。
どちらも、何も知らない子供がその場限りの思いつきで口に出す欲望そのもの。
グランド=ノヴァは勿論、タナトス=ネクロニアも研究畑の人間である事はルンストロムから聞き出している。
ならば結局のところ、研究者とはそういうもの。
子供の頃の憧憬を死ぬまで追い続ける職業――――アウロスが用意した交渉の武器は、そこを突く為のものだった。
「お前がルンストロムを教皇に据え、魔術の改革でも行えば、奇襲で一度くらいエチェベリアに辛酸を舐めさせる事は出来るかもしれない。オートルーリングは確かに、それに向いた技術だ。だが同時に――――」
以前、アウロスは予感した事があった。
オートルーリングを敵に回す事があるかもしれない、と。
それは、マルテの中に混在したグランド=ノヴァの切れ端のような人格によって現実のものとなった。
普及するとは、そういう事だ。
そして、同時に実感も得た。
オートルーリングは――――
「臨戦魔術士の質を落とす危険を孕んでいる」
そのアウロスの指摘は、タナトスの顔色を変えるものではなかった。
だが確実に、その内部へと食い込んでいた。
「利便過ぎる、簡易に操れる技術は、想像力や応用力を育む機会を損失させる。実質的に編綴を必要としなくなるオートルーリングは戦場での使い勝手が良すぎる余り、今以上を求める声を封印しかねない」
「……驚いたぞ、アウロス=エルガーデン」
まるで感心したかのように、やけに柔らかい声。
事実、そうだったのかもしれない。
「それは、オートルーリングが普及した頃合い、臨戦魔術士の一部から聞こえてくるであろう反発の声だ。まさか開発初期のこの段階で、発明した研究者本人が口にするとはな。君は自ら生み出した技術を潰しに来たのかね? 奪われた腹いせに」
先程、タナトスはアウロスの経歴を知っている事を仄めかしていた。
ならば、ミストに論文を、ファーストオーサーの地位を奪われた事も当然、知識として持っている。
その事への意趣返し。
「だとすれば、幼稚なのは寧ろ君の方という事になるが……」
「俺はこのマラカナンに来て、自分の見識と見解が浅はかだったのを痛感した」
「……」
九分九厘、そうだと見越していたであろうタナトスは、アウロスの話に続きがあると知り、それでも表情を変えない。
問題はなかった。
そういう相手と一度、既に戦っていたから。
何事も経験だ。
「理論を完璧に構築して、普及させる為に必要な環境さえ整えれば良いと思ってたが、甘かった。この技術に一番必要なのは、正しい運用だ」
もし、オートルーリングが魔術出力のスタンダードとして今後普及すれば、使い手を選ばなくなる。
ならば使い手の意識に向上心や応用力を委ねるのは、現実的ではない。
良い魔術士もいれば、いい加減な魔術士もいる。
大事なのは、その技術と魔術士がどう向き合っていくかを全体として考える事。
すなわち、運用だ。
「それが出来なかったら、オートルーリングは魔術を衰退させた戦犯になりかねない。遠い将来、愚案だったと非難されるかもしれない」
「こう言いたいのかね? その技術を導入する事を許可した儂もまた、戦犯であり愚者だといずれ罵られると」
「正しく運用出来なきゃな。ルンストロムにそれが出来るのか? お前が生きている内はまだいいが、永遠の命なんてものはないんだろう?」
「……ロベリアならそれが出来ると言いたいのかね?」
交渉の席に、タナトスはいつの間にか座っていた。
引き込まれていた。
アウロスは、研究者の弱点を自身の武器によって突いた。
「あの人は、戦争を望んでいない。そこがルンストロムだけじゃなく、デウスとも違う所だ」
「無論知っておる。だからこそ儂の眼中にはない」
「でも、他の誰より魔術の応用や運用について考えている。この国を『戦争で勝てる国』にするのなら、あの人が適任だ」
ロベリアに戦争を仕掛けるつもりはない。
ないが――――それは本人だけの意思だ。
戦争とは、例えそれが教皇の地位を得た人物だろうと、個人の意思だけに端を発するものではない。
それに、意思とは変わるし、変えられるもの。
「それとも自信がないか? ロベリアが教皇になったら戦争は出来ない。自分の願う戦争が起こせない。そんなものなのか? お前は」
紛れもなく、それは挑発だった。
そして同時に、信頼だった。
フレアという少女を、あの不幸な生い立ちの少女を真っ直ぐに育てたロベリアという人間を、アウロスは信頼していた。
目の前の男の野心と戦わせても、屈する事はないと。
「……見くびられたものだな」
一方、自分の三分の一程度しか生きていない青二才の魔術士に煽られたタナトスは――――
「その程度の挑発に、儂が乗ると思っているのかね?」
「さあな。ただ、飾りだけの愛国心で俺の話をここまで根気よく聞き続けられるものかな、とは思ってるが」
「……」
その無言は怒りではない。
真剣に、そして綿密に、アウロスの案を検討していた。