第10章:アウロス=エルガーデン【下】(79)
「お兄さん……」
マルテの意識は明瞭だった。
意志の籠もった強い光を放つ目で、アウロスへと近付いてくる。
ここでもし、再びグランド=ノヴァの人格が現れて、以前の市街戦を再現する事になれば、魔力の尽きたアウロスに勝ち目はないが――――
「ゴメン。戻って来るのはダメだってわかってたけど……」
今のところ、そういった様子は全くない。
弱気な言葉の反面、精神は安定しているらしい。
アウロスは最早安堵することすら億劫な精神的疲労を引きずりながら、立ち尽くすマルテへ近付いた。
「ラディ達とはぐれたのか」
「……うん。僕、フレアのお姉ちゃんに担がれてたらしいんだけど、途中で敵に見つかって……僕だけ逃げるように言われて」
マルテは前教皇の孫。
万が一、マルテが単独で聖輦軍に捕捉されても、手荒な真似はされないだろう――――そんな判断がラディとフレアにはあったと推察される。
戦いに巻き込む方が危険。
その見解は正しい。
アウロスはマルテの頭に優しく手を置き、大丈夫だと告げた。
「俺の魔具は誰が持ってる?」
「ラディさんが。一番逃げ足が速いからって」
実際には、一番危険が迫りやすいから、という事なのだろう。
ラディという女性は、仕事に関しては一貫して強い責任感と誇りを持って臨んでいる。
魔具を持って逃げる、という行動は仕事ではないが、その根本にはやはり、役割を全うするという強い信念があるのだろう。
そして、その信念があるからこそ、ラディへの信頼は揺るがない。
なら、無茶な玉砕などせずに、生き残り逃げ切る為のあらゆる手段を用いている筈。
アウロスはそこまで現状を分析したところで、つい先程までまとわりついていた疲労感がいつの間にか全くなくなっている事に気付いた。
魔力が尽きる事で生まれる虚脱感や眠気は、通常の疲労とは異なる。
まず抗えないし、耐える事も殆ど出来ない。
休まなければ重大な問題が発生すると、身体が必死で訴えているからだ。
それは魔術士の本能であり、人間の本能でもある。
その本能が、アウロスの身体から消え失せてしまった。
「……またか」
「え? 何が?」
「あいつに借りを作ったのはこれが初めてじゃない、って事だ。だから気にするな」
マルテにはそう答えたが、『またか』の真意はそうではなかった。
身体が危機に瀕し、発するという正常な訴え――――"痛み"に続いて、魔力切れのサインすらもなくなってしまった。
いよいよ故障が増えてきた自分に、アウロスは心中で苦笑を禁じ得ない。
とはいえ、その故障は行動の阻害には繋がらないのだから、前へ進む上では問題なし。
寧ろありがたい。
「お前は向こう……俺の後ろ、集会室に行け。医療室の隣だ。そこは一応、安全だろう」
決して前向きではないのだろうが、そう捉える事にしたアウロスは、マルテへそう指示し、その頭から手を離した。
「で、でも……」
「そこには、お前にしか出来ない事が待ってる。行け」
デウスが今、厳しい状態にある事は間違いない。
会話が出来るとも思えない。
意思の疎通すら困難。
だが、もしそうだとしても、この不器用な親子には"共にいる"事が必要だ。
親子の縁などまるで知る由のないアウロスは、ほぼ手探りの中でそう判断し、マルテに――――微笑みかけた。
「え……」
「早くしろ。時間はそうないかもしれない」
「う、うん」
ある意味、憤怒の表情や怒号よりも効果的だったのかもしれない。
マルテは余りに予想外の出来事に我を忘れ、ただ言われた通りにコクコクと頷くと、駆け足で集会室へ向かった。
そんな、少しだけ微笑ましい時間を過ごしたアウロスは、再び一人で廊下を進む。
試運転気味に走ってみると、身体はまるで十分な休養をとった後のようにしっかりと動く。
長時間走り続けると気分が高揚してくると聞いた事があるが、それと似たような事が起こっているのかもしれないと強引に解釈し、徐々に速度を速めていく。
――――ルインは無事なのだろうか?
加速の動機は、一刻も早くその確認をしたい為。
アウロスは二階から追尾を行ったルインの行動ルートを予測し、礼拝堂へと出る。
あの状況なら、ルインが最初にルンストロムを視界に収めるのはこの地点。
だが、礼拝堂に魔術による攻撃の痕跡はない。
ならば――――と今度は中央階段を昇り、二階へ向かう。
痕跡は、ここにあった。
壁が破壊され穴が空き、周囲の灯りも消えている。
ここで一戦交えたとすれば、護衛とではなく――――
「死神を狩る者なら、ここから飛び降りていった」
その穴の傍で佇んでいたデクステラが、気配を消したままそう呟く。
それでも、アウロスは驚かなかった。
ルインの戦った相手がこの男なのは、既に予想済みだ。
「いいのか? 足止めに失敗したのなら、追わないとマズいんじゃないのか」
「監視対象が教会に戻ったようだからな。本来の職務を優先する」
「融通が利くのか、利かないのか……」
テュルフィングという存在は、ある意味研究者と対極にある。
そしてこの場合、それが良い方に転がった。
そう解釈し、アウロスは再び一階へ降りるべくデクステラへ背を向ける。
「随分と、簡単に背を向けるのだな」
「今の俺なら、正面だろうと背中だろうと大して変わらない。それと……お前の監視対象は集会室だ」
「それこそ、大差はあるまい。自分が行こうと、行くまいとな」
デクステラの言葉は、本心だったに違いない。
だが結局のところ、本音と本心は同じようで違うのだから、この一言は楔になる。
アウロスはまだ弱音を吐かない身体を酷使し、礼拝堂から教会の外へと出た。
寒風吹き荒れる――――という訳ではないものの、この地方は夜の空気が冷たい。
冷気というよりも、聖地そのものが凍っているような感覚。
その凍り付いたかのような道路の一部が、大きく抉れている。
角度を確認するまでもなく、エルアグア教会の二階、破壊されていた壁との関連性が高いのは容易に想像出来た。
ルインが二階で壁を壊し、教会から逃げ出したルンストロム達を捕捉。
そこから魔術で攻撃。
しかしそこには、ルンストロムは勿論、護衛の姿もない。
防がれたか、外したか。
ルインはあの壁の穴から飛び降り、このエルアグアの市街地に逃げ込んだルンストロムを追跡しているのだろう。
難しい役割を背負わせてしまった事への陳謝をどう切り出すべきか。
そんな思いはありつつも、アウロスに後悔はなかった。
あの場でルイン以上の適任者はいない。
けれども、割り切れない思い――――危険な目に遭わせる事への抵抗は殊の外強く、思わず歯軋りしてしまう。
だからだろう。
最早、戦力に成らない自分が追いかけても何の意味もない。
これから追いつくだけの脚力もない。
そうわかっていながらも、アウロスは拙い足取りで走った。
それはまるで――――
「親とはぐれて右往左往する子供じゃないんだから」
アウロスの視界に、人影が映る。
見覚えのある顔が、見覚えのない表情で、道の中央に立っていた。
「……ラディ」
「残念だったね、ロス君」
情報屋ラディアンス=ルマーニュが、涼しげに笑んでいた。